Dear. 佐倉様・マリナ様

僕の家族に会ってくれませんか。そうお付き合いしている相手に問われたら、一般的には結婚へ向けたステップアップのように聞こえるだろう。
例えば、初めて相手のご両親に挨拶に行く、とか。相手のご兄弟とお食事をしてみるとか。そんなことを考えて、僅かな緊張とともに胸をときめかせるかも知れない。

けれどその言葉を聴いた私は、とてつもない違和感を覚えていた。

「安室さんの、家族……?」

ただ流し聞いているだけならば何らおかしいことはないフレーズなのに、彼が口にするだけで言いようもない据わりの悪さを覚える言葉だった。

零さんの家族。普通は家族というと、両親だとか兄弟だとか、同居人といった意味になるだろう。けれど彼の本来の立場を考えると、家族というものが一気に遠い存在に感じられた。
何とも―――想像しづらい相手である。相手が男か女かすら解らない。彼のことだから、妙な相手に会わせようという訳ではないのだろうが。

私がよっぽど変な顔をしていたのだろう、零さんは苦笑しながらおかわりのコーヒーを差し出した。ポアロの黒いエプロンが、彼の動きに合わせてくしゃりと歪む。

「はい。勿論、さくらさんの都合さえよければ、ですけどね」
「時間は平気です。でも、その、ご家族って?」
「会えば解りますよ。きっとあなたも、僕の家族を気に入ってくれるんじゃないかな」

どうやら彼は、その家族というのがどういう関係の人なのか、ここで明かす気はないようだった。やけに自信満々な口調が気になって、私は困惑しつつも頷いた。

「……解りました。明日、何時にどこへ向かえばいいですか?」
「ありがとうございます。それじゃ、午前10時にホテルまで迎えに行きます」

こうして私は、全く予想もできない“零さんの家族”とやらと対面することになったのである。ちなみにこの会話を全て聴いていた梓から、帰り際にやたらとキラキラした瞳を向けられたのは余談である。



翌日、零さんの車で連れてこられたのは、今までに行ったことのあるマンションではなかった。メゾンモクバ、と書かれた集合住宅は、ポアロからだと歩いて行けるほどの近距離にあった。

「本当に手土産はいらないの?」
「ああ、全く気を遣う必要はない相手だからな」
「……あなたにそんなに親しい家族が居たなんて、初耳なんだけれど」

私が拗ねたように頬を膨らませると、彼は我慢の限界だ、と言わんばかりに肩を震わせながら笑った。

「君の嫉妬する顔を見るのも悪くないが、その答えはすぐに解るさ」

彼は私の頭を撫でて、取っ手の下の鍵穴に鍵を差し込んだ。

「さ、どうぞ」
「お邪魔しまーす……」

初めて会う“零さんの家族”の姿を色々と想像しながら、私は彼に続いて靴を脱いだ。
ドキドキしながら奥へ向かうと、リビングの方で物音がした。そして次の瞬間、

「アンッ!!」

甲高い鳴き声と共に、小柄な影が飛んできた。そう、文字通り宙を舞って飛んできたのだ。

「きゃっ」
「こーら、」

私目掛けて一直線に向かってきたその影を、零さんは右腕1本で苦も無く受け止めた。

「ハロ。お行儀よくしてろって言っただろう?」
「アンッ!」
「全く、解ってるんだか解ってないんだか……」

苦笑しながらもその喉元を撫でてあげる零さんは、にんまりと口角を上げて私を振り返った。

「さくら。紹介するよ、僕の家族のハロだ」

この上ないドヤ顔で紹介されたその相手は、くりんとした尻尾を持つ、つぶらな瞳をした犬だった。

*****

「零さんってば、人が悪いわ。ペットなら最初からそう言ってくれればいいのに」
「君を驚かせたかったからな。どんな相手を想像していたんだ?」
「全く想像が出来なかった。でも、いつの間にこんなにかわいこちゃんを見つけたの?」

さくらはハロを膝の上で抱っこしながら、僕が淹れたお茶に口をつけた。

「堤無津川の傍で偶然見かけたことがあったんだ。それ以来行く先々で出会うようになって、僕が根負けしてうちに連れて帰った」
「そうだったのね。いいなあ、家に帰ったらこんなにキュートな子が居るなんて」

彼女が犬好きなのは、以前ギルバートに見せてもらった映像からも解っている。彼女はあっという間にハロを気に入り、ハロもまた、すっかり彼女に懐いてしまったようだった。元々警戒心のない犬ではあったが、これでは番犬の役割は果たせそうにないな、と密かに苦笑する。

「けっこうわんぱくそうね。もうお手は出来るの?」
「最初に教え込んだからな。待てと伏せはまだだが、お手くらいなら出来る」
「そうなのね。じゃあ早速、ハロちゃん、お手!」
「ワフッ!」

さくらが差し出した手に、ハロは大人しく右手を載せた。たったそれだけのことなのに、さくらはハロの頭を両手で撫でながら「Good boy.」と何度も言った。

「I wanna kiss you.」

言うが早いか、彼女はハロの鼻先に自分の鼻を擦り付けた。ハロは大喜びで、応えるように彼女の頬をペロペロと舐め始めた。尻尾なんて今にも千切れそうなほど、ぶんぶんと勢いよく振られている。

「ふふ、擽ったい」
「アンアンッ!」
「んー?どうしたの?どこかに行きたい?」

彼女がハロの顔を真正面から覗き込むと、ハロはまるでこっちこっち、と言いたげに首を寝室の方向に向けた。彼女はハロの誘導に従って立ち上がり、寝室へと足を向ける。

「零さん、入ってもいい?」
「ああ。見られて困る物はない筈だ」
「それじゃ、失礼します」

きちんと断りを入れる辺りが、律義な彼女らしい。ハロを抱いた彼女が畳張りの寝室に入ると、僕はすぐその後に続いた。

「わあ、ギターがある!零さん、ギターを弾くの?」

彼女の視線は、ベッドの横に立てかけてあったギターに吸い寄せられていた。ああ、と首肯して僕はネックに手を掛ける。

「学生時代、友達と弾きたくて練習したんだ」
「素敵ね。今も弾いてるの?」
「ああ。ハロが僕のギターが好きでね」
「あっ、ハロちゃんばっかりずるい。私も何か聴きたいわ」
「勿論、いいさ。何かリクエストはあるか?」

僕が胡坐をかいてギターを膝に乗せると、彼女はんー、と唸って小首を傾げた。やがて彼女が挙げたのは、世界的に有名なロックバンドの曲の1つで、僕は意外な思いでその顔を見返した。

「君の口からロックバンドの名前が出るとはな。クラシックでも聴いていそうだと思ったのに」
「クラシックは勿論だけど、色々聴くわよ。イギリスはロックの本場だし、ドイツへはしょっちゅうフェスで来るから、私も詳しくなっちゃって」
「成程。ドイツもヘヴィメタルやロックが人気だからな」

僕はリクエストに応えるべく、譜面を思い浮かべながら軽くチューニングをした。そして小さく息を吸い、弾き語りを始める。さすがにロック調の歌をそのままのボリュームで歌うと近所迷惑になりかねないので、バラード調にアレンジしてみたのだ。

弦を爪弾きながらちらりとさくらを見やると、彼女は目を閉じてハロを腕に抱きながら、小さく歌を口ずさんでいた。ハロも彼女と全く同じ表情をしていて、なんだか親子のようだと笑ってしまった。

やがて僕が演奏を終えると、彼女は目を開けてパチパチと両手を叩いた。

「凄いわ、零さん。ロックミュージックがこんなに穏やかな旋律になるなんて」
「ありがとう。さくらも弾いてみるか?」
「え?……私、ギターは触ったことがないんだけど」
「だったら、1から教えてやる。ほら、こっちへおいで」

彼女はハロを腕から下ろすと、僕の傍ににじり寄った。恐る恐る、といった風に僕のギターを受け取って、見様見真似でネックに手を添える。
その背後に回り込んで、僕は彼女の手に自分の手を重ねた。

「そう。左手で弦を押さえて、右手で弾くんだ」
「こう?」
「ああ。ギターのコードは……」

覚えの早い彼女に夢中になってギターの弾き方を教えているうちに、平和な休日は緩やかに更けていった。

それはまるで、家族が共に過ごす休日のような、暖かな光景だった。


BACK TO TOP