Dear. ヨシノ様・ミユ様・かな様

目が醒めたら、腕の中に幼女が眠っていた。なんて、僕が警察関係者でなければ即通報されそうなシチュエーションだ。例えば僕がもう一人いたとして、同じベッドで僕と幼女が並んで眠っている所を目撃したら、即座に僕の身柄を拘束して幼女を保護していただろう。……段々と僕という存在がゲシュタルト崩壊してきた。これ以上仮定の話をするのはやめよう。

そう、目の前の光景は仮定の話などではない。れっきとした現実なのである。

昨日の夜、日本に帰ってきていたさくらが僕の家に泊まりに来た。風邪気味だと言っていた彼女は、阿笠博士からもらった薬があるから、と言ってそれを寝る前に飲んでいた。そして起きたら彼女はおらず、代わりに幼い女の子が僕の隣で眠っていたという訳だ。そして、という接続詞の使い方を間違っているような気がしないでもないが、残念ながら順接の接続詞で合っている。

今もすやすやと眠っている幼女―――恐らく3歳くらいだと思われる―――の顔を見ると、僕の恋人の面影がちゃんと残っていた。今の彼女の豊かな髪よりも、かなり短く整えられた髪。丸みを帯びた頬。小さな唇。そしてだぼだぼの服からはみ出した、頼りない程細い肩。風邪気味だからと、昨日は何もせずに眠ったのだが、その選択が間違いでなかったことを僕は悟った。これで服を着ていなかったら、完全に事案である。

そう、隣にいるのは十中八九、僕の恋人の本田さくらがどういう訳か幼くなってしまった姿であると推測された。全く理屈は解らないが、僕が彼女を見間違える訳がない。以前も博士にもらったお酒を飲んで猫耳が生えたことがあったのだし、体が縮むくらい不思議ではないのかも知れない。……いやいや、十分摩訶不思議である。

何にせよ、彼女を起こさなければ始まらない。僕は幼女の背中をとんとんと叩き、声を掛けた。

「さくら、おはよう。起きてくれ」
「んぅ、」

僕の掛け声に反応して、彼女は小さな手で目元をこすった。ころんと寝返りを打って仰向けになり、僕の手から逃れようとする。

「さくら」
「んー、んー……」
「こーら、あんまり動くと脱げるぞ」

もぞもぞと身動ぎするうちに、完全に片方の肩が露になった。さすがにこれ以上はまずいだろうと、僕は慌てて服を引っ張り上げる。
その感触で目が醒めたのか、さくらはうっすらと瞼を上げ、何度か瞬きを繰り返した。
そして僕の顔を認識して、大きな目が零れそうなほど真ん丸に見開かれる。

「…………。……だれ?」

おっと。これは思っていたよりも、厄介な事態かも知れない。彼女の体だけが幼くなってしまったのならまだよかったが、この反応を見る限り、どうやら記憶の方も幼児化してしまっているようだ。何と説明したものか、とうっかり頭を抱えそうになる。

「僕の名前は降谷零。君は本田さくら―――ちゃん、だよね」
「……しらないひとに、なまえをおしえちゃだめだって、おとうさんいってた」

この年齢の時分から、彼女の父親の過保護は始まっていたらしい。確かに、知らない人に名前を教えてはいけないというのは、間違った知識ではないのだが。

「僕は知らない人じゃない。さくらちゃんと今日1日一緒に過ごす、ベビーシッターだよ」

口から出まかせとはこの事である。しかし、これ以上彼女に不審者を見るような目を向けられるのは御免被りたい。そんな思いで、僕は一番手っ取り早い嘘を教え込んだ。

「今日は、君のお父さんとお母さんが、急なお仕事で家に居られなくなったんだって。だから代わりに、僕と一緒に遊んでくれないかな?」
「さくらとあそんでくれるの?おにいちゃんが?」

さくらは初めて僕の言葉に興味を示したように、がばりと起き上がった。ぼさぼさの頭に苦笑して、僕はその髪を手櫛で梳いてやった。

「そうだよ。さくらちゃんは、いい子でお留守番できるかな?」

留守番も何も、ここは僕の家なのだが、そんな都合の悪いことを突っ込む人間はここには居ない。にっこり、と人好きのする笑顔を向けると、彼女は漸く警戒心を解いてくれたらしい。

「うん!さくら、おにいちゃんといっしょに、おるすばんする!」

ぱあ、と浮かべられた無垢な笑顔に、僕は表情を崩さないようにするだけで精一杯だった。

何だこの可愛い生き物。僕の理性を試しているとしか思えない。
内心盛大に悶えつつ、僕は彼女を抱き上げて寝室を後にした。

彼女が朝食を摂っている間に、近場のアパレルショップで適当な服を身繕う。さすがに今日1日をあの格好で過ごすのはまずかろう。外に連れて行くこともできやしない。
さくらが普段好んで着ているのは、体のシルエットが出やすい細身の服だが、大人と子供では好みも違うだろう。あまり考えすぎるとドツボに嵌る気がして、僕はマネキンが着ている服と靴を一式揃えて購入した。

「娘さん、喜んでくれるといいですね!」

何かを勘違いした店員からそんな言葉を頂戴して、僕は苦笑いを浮かべながらスーパーを出た。

マンションに戻って服を渡すと、彼女は目を輝かせながら着替え始めた。背中のチャックを閉められないと言うので手伝ってやり、カーディガンを着せてやる。

「おにいちゃん、にあう?」
「うん。とっても可愛いよ」
「ほんとう?さくら、かわいい?」
「ああ、さくらちゃんは可愛いよ。僕の知る誰よりも」

本心からそう答えて、小さな頭を撫でてやると、さくらはえへへ、と照れ臭そうにはにかんだ。

「あのね、さくらもね、おにいちゃんのこと、かっこいいっておもってるよ」

おようふく、ほんとうにありがとう。そう言ってさくらは満面の笑みを僕に向けた。

僕は額に手を当てて項垂れた。必死に頭の中でフィボナッチ数列を数えて、平常心を取り戻そうとする。

(落ち着け、落ち着け。さくらが可愛いのは今に始まったことじゃない、何ならもっと可愛い姿を見てる)

例えば僕じゃなきゃだめだと蕩けた声で強請ってくる顔だとか。零さん、と熱に浮かされた声で僕に縋り付く姿だとか、って逆に落ち着けなくしてどうする。冷静になれ自分。

「おにいちゃん?」

黙りこくってしまった僕を心配してか、さくらは小さく背伸びをして小首を傾げた。こんなに無垢な存在を前に、何を想像しているんだと自嘲して、僕はあらぬ妄想を頭から押しやった。

「ごめん、ちょっと眩暈がしただけだよ。さくらちゃん、よかったらこの後お散歩にでも行こうか」
「おさんぽ!いく!」

僕の提案にきゃっきゃっとはしゃいだ声を上げ、さくらはぱたぱたと玄関に駆け寄った。買ったばかりの靴を履かせ、並んでマンションの外に出る。空は気持ちいくらいに晴れ渡り、絶好の散歩日和と言えそうだった。

「おにいちゃん!」
「うん?どうしたんだ、さくらちゃん」
「えへへ、よんでみただけー」

ちょっと走っては振り返り、またちょっと走っては振り返って僕の姿を探す仕草が愛おしくて、僕は自然と頬を緩めていた。元々子供は嫌いではないが、一挙手一投足にこんなに目を奪われるのは、やはり相手がさくらだからだろうな、と一人ごちる。

やがて僕達は、近所のスーパーに到着した。今日のお夕飯を一緒に作ろうと約束したため、材料の買い出しに来たのである。

「さくらちゃんは何が食べたい?」
「えっとね、さくら、はんばーぐがすきです」
「ハンバーグか。それじゃ、生地を丸めるのを手伝ってもらおうかな」
「うん!おてつだい、がんばる!」

気持ちのいい返事に満足しつつ、僕は彼女の手を引いて片手でカートを押した。最初はさくらが押したがっていたのだが、持ち手の部分に手が届かないことを知って、悔しそうに頬を膨らませていた。

「見てみてー、可愛い親子!」
「パパさんイケメン!娘さん可愛いー!」
「しっかりお手て握って偉いねー」
「いいなー、あのイケメンの奥さんになりたい。そんであの子の母親になりたい」

周囲の買い物客の声を耳が拾い、僕はこっそりと笑ってしまった。どんな姿であっても、彼女が人目を引く存在であることは変わりないようだ。小さなころはきっとご近所のアイドルだったに違いない、と僕は我が事のように胸を張りたくなった。

無事に買い物と昼食を終えて家に帰ると、さくらは買って来た物の片づけを手伝い、洗濯物を畳んでくれた。

「おふとん、すっごくふかふかだね」
「そうだね。今晩はこのお布団で寝ようか」
「さくらがねるまで、おにいちゃんがそばにいてくれるの?」
「勿論だよ。さくらちゃんが嫌じゃなければ、ずっと傍にいるよ」

僕がタオルを畳みながらそう言うと、それまではきはきと喋っていたさくらが、急にもじもじと両手を弄び始めた。
何か言いたいことがあるのだろうかと黙って見守っていると、やがてさくらはほんのりと頬を染めて、僕の手を弱弱しい力で引っ張った。僕が彼女の希望通り体を屈めると、彼女は僕の耳に手を添えて、とっておきの内緒話のように小さな声で囁いた。

あのね、あのね。

「さくら、おにいちゃんのこと、だいすきです」

だから、いつまでもいっしょにいてほしいな。

言うだけ言って、恥ずかしそうにぴゃっと逃げ出したさくらを、僕は呆然と見送った。

こんなに可愛い生き物が存在してもいいのか?さくらだからいいのか。そうか、そうだな。

日本語としての体を為していない言葉を脳裏に羅列して、僕は胸を押えて蹲った。色々と反則すぎる。こんなに幼い年齢から僕をこうまで翻弄するとは、なんて子だ、まったく。

今も、逃げ出したくせに部屋の外からそっとこちらを伺う姿がいじらしくて、僕は体を起こして立ち上がった。途端にきゃあっと声を上げて背を向ける彼女を捕まえるため、僕は両腕を伸ばして小さな体を追いかけた。

ちなみにこの奇跡のような1日の記録は、彼女の開発した人工知能によって全て録画されており、1日経って元の体に戻った彼女が恥ずかしさで悶絶したのは、また別の話である。


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