Dear. ミユ様

「ドイツでG20が開催されることになった。日本からは首相他、財務相と日銀総裁が出席される。財務相の護衛にお前もつけ、降谷」

上司からそんな指示を受け取ったのは、吹く風が体を容赦なく凍えさせる冬の日のことだった。

「……要人の警護?それは警備部の役割では?」

僕は上司の言葉に眉根を寄せた。セキュリティポリス、所謂SPと呼ばれる仕事は警視庁警備部警護課が担当する仕事である。何故警察庁の自分に、それ以前に本来日本の治安維持のために動く公安警察にそんな仕事が舞い込んできたのか、甚だ疑問だった。

「交渉役として抜擢されたんだよ。お前の見た目と英語力を買われたらしい。あと、お前最近ドイツ語も勉強してるだろう」

ぎくりと体が竦んだ。僕がドイツ語を勉強している理由には、幾ばくかの不純な動機が含まれていたからである。

「あとはお前、ここ2ヵ月休みも取ってないだろう」
「ええ、まあ」

あなたに振られた大量の仕事のせいでね、と胸の中で毒づいていると、上司はあー、と言葉を濁した。

「だからちょっとした息抜きというか、気分転換にだな」
「要人の警護で海外出張が、気分転換ですか」
「あとはまあなんだ、もうじきクリスマスだろう」
「は?」

この厳つい顔つきの上司の口から、クリスマスなんてメルヘンな単語を聴ける日が来るとは。僕が目を白黒させていると、上司はとにかく、と乱暴に話を畳みにかかった。

「今渡した資料をよく読んでおけ。出発は1週間後だ」
「……了解しました」

釈然としないながらも、僕は言われた通り渡された資料に目を落とした。そしてじっくり読み込むうちに、その目を徐々に大きく見開いた。

「室長」
「……何だ」
「G20が開催されるのは、ドイツのどの都市ですか?」

僕の問いかけに、上司は自分の不器用な気遣いが伝わったことを察したのだろう。気まずそうに結ばれていた唇が、ニヤリと弧を描いた。

「―――フランクフルトだ」

その答えを聴いて、僕はこの任務に対するモチベーションが否応なしに上がっていくのを感じていた。



フランクフルト・アム・マインは、ドイツ南西部のヘッセン州に属する郡独立市である。72万人を超える人口を抱える大都市で、国際金融の中心地として知られている。工業や産業の中心地でもあり、また交通の要衝としての一面も持つ。毎年8月に開催されるムゼウムスウーファーフェスト(博物館堤祭)は、音楽と文化の祭典であり、ライン=マイン地域最大の世俗祭として、大勢の観光客で賑わっている。

そして毎年アドベントの時期になると、マインカイからレーマーベルク、パウルス広場、ノイエ・クレーメ通り、リープフラウエンベルクを経てツァイルまで、200を超える露店が建ち並ぶヴァイナハツ・マルクトが開催される。アドベントとはラテン語で“到来”を意味するAdventusから付けられた名前で、イエス・キリストの降誕を待ち望む期間を指す。つまり12月1日から24日までのことだ。そしてヴァイナハツ・マルクトとは、英語で言う所のクリスマスマーケットのことである。

上司の“もうじきクリスマス”という発言は、彼自身がクリスマスの空気に浮かれている訳でも、クリスマスに浮かれる世間に対する嫌味を言っている訳でもなくて、僕に今回の任務の空き時間を利用して、恋人と一緒にヴァイナハツ・マルクトでも堪能して来い、と言いたかったのだ。協力者の1人である本田さくらと僕が交際していることは、彼には直接報告してあった。

さくらの住むカイザースラウテルンは、フランクフルトよりもさらに南、フランスとの国境にほど近い位置にある。ラインラント=プファルツ州の郡独立市で、人口は10万人ほどの小さな都市だ。今回の僕の目的地であるフランクフルトとは、ICEを使えば1時間半弱で行ける距離にある。僕が任務でドイツへ向かうことはさくらにも話せないが、直接家を訪ねて一緒に過ごすことは可能だろうと思っていた。

「さくらの予定は空いてるか?ギルバート」
「20日の夜でしたね。ええ、特に予定はありません」
「それならよかった。そこのマーケットで何か手土産でも買っていくか……」
「それよりは、日本のお醤油やお出汁を持って行った方がよっぽど喜ぶかと思いますが」
「ムードのないことを言うな。折角寒い思いをしてまで真冬のドイツに出向いたんだ、本場のクリスマスマーケットの空気を味わってみたいと思うだろう」

フランクフルト空港に降り立ち、宛がわれたホテルに身を落ち着けた僕は、彼女の相棒である人工知能とそんな会話をしていた。明日は会場の下見と首脳会談の護衛、そして明後日がG20の本番である。さくらに会えるのは明後日の夜だろうな、と僕は当たりを付けた。

(明日、首脳会談が終わったら、一度マーケットに足を運んでみよう。さくらは甘い物も好んで食べるから、何か菓子でも買ってやろう)

さくらと出会う前までは、クリスマスなんて特別でも何でもない日だったのに。今年は僕も世の恋人たちと同じように、甘い雰囲気に酔っているようだった。

そんな甘い気持ちが裏切られることになるなんて、この時の僕は全く想像もしていなかった。



翌日、無事に首脳会談の護衛任務を終えて、僕は1人でフランクフルトの街並みを悠々と歩いていた。日本のように、どこでどんな知り合いと鉢合わせるかと気を張る必要もなく、シュトーレンの甘い香りや、くるみ割り人形の奏でるリズミカルな音に心を弾ませていた。

「降谷さん、寒くはありませんか?ドイツの冬は、東京とは比べ物にならないでしょう」
「ああ、こうしている間にも鼻が凍り付きそうだ。だが、人が多いお陰で大分緩和されてるかもな」

ドイツの緯度は北海道よりもずっと上にあり、気候の関係上冬はとても気温が下がる。さくらは普段、こんな寒々しい国で独りで過ごしているんだな、と思うと、早く会って彼女を抱き締めたい気持ちに駆られた。

「こうやって見ると、オーナメントも素朴なデザインの物が多いんだな」
「そうですね。ドイツは元々、建物や食べ物もさほどデコラティブにはしない傾向にあるようです」
「この、赤と緑のキーホルダーは何かのキャラクターなのか?色んな露店で見かけるが」
「それはアンペルマンですよ。東ドイツを代表するお土産ですね。恐らくベルリンでは、この3倍は売っていると思いますよ」

ギルバートによる土産物の解説を聴きながら、僕は煌々と光るイルミネーションの中を練り歩いた。オレンジがかったライトに照らされて、教会や広場が幻想的な空間を作り上げている。

その時、焦がれてやまない声が遠くから聞こえてきた。

「待ってよ、レオン。そんなに早く歩いたら、迷子になっちゃうわ」

流暢な英語で紡がれた声は、間違いなく僕の恋人のさくらのものだった。思わず声のする方向を振り返り、愛しい姿を探す。
すると、通りを隔てた露店の前に、1組の男女が立っているのが見えた。ゲルマン系の顔立ちの男の横に居るのは、遠目で見ても間違いない、恋人の本田さくらだった。赤と黒の大きなチェック柄のベレー帽が、真っ赤なトレンチコートによく似合っている。

「ギルバート」
「はい、降谷さん」
「あそこに居るのは、さくらで間違いないか?」

僕は目の前の光景が信じられなくて、左手首に向かって問い掛けていた。あれが本当に彼女なら、この人工知能が把握していない訳がないと思ったのである。
しかし、答える声は堅かった。

「申し訳ありません、降谷さん。さくらは今、私を連れて行動しておりません」
「何だって?」
「何でも、私にも知られたくない場所に出向く用事があるから、と言っていましたが……」

歯切れの悪い返答を聴いている間にも、目の前の彼女は僕の知らない男と親しげに喋り、露店のマフラーを試着させ、あまつさえ至近距離でその顔を覗き込んだ。それだけならばまだ、外国特有の過剰なスキンシップだろうと受け流すことも出来ただろう。
だが、2人の距離はいよいよ近くなった。男の方が彼女の肩を抱き寄せ、その額に唇を落としたのだ。彼女はそれを笑って受け流すだけで、本気で嫌がる様子は見せなかった。

それを見て、頭の中で何かが切れた。

仲睦まじく買い物を続ける男女に向けて、僕はずかずかと近寄った。こちらに背を向けたままの彼女の肩を掴み、無理矢理こちらを振り向かせる。

「きゃ、何―――」

バランスを崩し掛けた体を右腕1本で支えてやると、彼女は大きな目を見開いて固まった。

「れ、零さん……?」

驚きに彩られた彼女の顔に、疾しさはこれっぽっちも見られなかった。けれどこの時の僕は頭に血が上っていて、落ち着いて彼女の言葉を聴いてやれる余裕がなかった。
僕は彼女の手を掴むと、後ろも振り返らずに大股で歩き出した。連れの男が何事かを叫んでいるのが聞こえたが、僕は聞こえていない振りをした。

「零さん、待って、待っ……」

ヒールの高いブーツを履いたさくらには、僕の歩くスピードが速すぎたようで、何度もつんのめりそうになりながらも、健気に僕の後を付いてきた。僕が彼女の手を離さなかったから、付いて来る他なかったとも言えるのだが。

やがてマーケットの喧騒から離れた教会の裏に来ると、僕は彼女の体を路地裏の壁に押し付けた。抵抗する隙も与えず、両手を壁に縫い付ける。

「零さ、―――っん……」

そして呼吸を奪うように、彼女の唇を自分のそれで塞いでいた。中途半端に開いていた唇をこじ開けて、自分の舌を挿入する。

「ん、……ふ、……っ」
「さくら」
「れい、さん―――」

嵐のような口付けから彼女を解放した時には、さくらは瞳を蕩けさせて、僕の腕に縋り付いていた。寒さに凍えそうだった体は、今は正体不明の熱によって火照っているようだった。

(WeihnachtsZauberUへ続く)


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