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「家主さんって、工藤優作さんのことだったんですか?」
「ああ。君も以前、会ったことがあるだろう」
「ええ。もう二度とお会いすることもないだろうと思ったので、記念にサイン頂きました」

以前会ったのは、沖矢昴の正体を疑う零さんの目を欺くために、優作さんが沖矢昴になりすます手助けをした時だ。思えば、あの時優作さんとコナン君の関係に着目しなかった自分はだいぶ抜けていたと言わざるを得ない。恐らく零さんと赤井さんの対立を見守ることだけで手一杯で、他のことに割く頭のスペースがなかったのだろう。

今回こうしてお世話になるということは、何かお礼を考えておかなければならない。私がそう言うと、近いうちに夫婦そろって帰国する予定がある、と赤井さんは答えた。

「その時に礼なり何なり渡せばいいだろう。君はあとどのくらい日本に居るんだ?」
「あと10日ですね。会えるか会えないか、ギリギリってところでしょうか」

それにしても、と私は家主の書斎だという部屋の本棚を見上げて嘆息した。

「凄い量の蔵書……。活字中毒には堪らないでしょうね」
「ああ、中々値打ちが付きそうな古い物も多いぞ。暇を持て余したら読むといい、と家主も言っていた」
「お心遣い、痛み入ります。……あれ」

視線を下ろしていった先にあったのは、並んで立てられていた江戸川乱歩全集とコナン・ドイル傑作集だった。目線としては、ちょうど小学生の子供の視界に当てはまるだろうか。

江戸川コナン。そういうことか、と私はぽつりと呟いた。その呟きを聴きつけたのか、赤井さんは何かを察したようだった。

「君は……、もしや、あのボウヤの秘密を……?」
「え?……赤井さんこそ、ご存知なんですか?」

思ってもみない所から有力な情報が得られることに気付き、私はこの時迂闊にも素の表情を見せてしまった。彼の見開かれた瞳に映る自分の顔が普段よりも幼く見えて、けれどそれに構っていられる余裕はなかった。

「ご存知なんですか?江戸川コナンが、工藤新一と同一人物だってことを」

博士や哀ちゃんから探りを入れていくしかないと思っていたのに、こんな所に有力な証人が居たなんて。
赤井さんは私の肩を掴み、ぐっと顔を近付けてきた。

「君はどこからその情報を知った?そしてそれを誰に話した?」
「独自に調べたんです。零さんがコナン君をあまりにも無条件で信用しているようだから、普通の小学生にしてはおかしいと思って。ギルバートと話してみるかって言って、指紋を採取したんです」
「指紋?」
「ええ。私のスマホの画面には、指紋認証システムが埋め込まれていて、触れれば世界中のデータから該当する人物を割り出すことが可能です」
「それは、人工知能による分析か?」

ここで私は、彼が何を気にしているのかを悟った。私があの少年の正体を知るに至った過程の中で、他の人間が関与していないかを心配しているのだ。

「はい、ギルバートによる分析です。ですから、コナン君の指紋が工藤新一と一致したという情報を知っているのは、私とあの人工知能だけです」
「そうか……」

赤井さんはほっとしたように、私の肩に触れる手から力を抜いた。
私は彼の腕に取り縋った。

「赤井さん、教えてください。人工知能の照合結果と、私の推測が正しいのかどうかを。そして、あの組織とどんな関りがあるのかを」
「それを知ってどうするつもりだ?降谷君に話すのか?」
「いいえ、誰にも話すつもりはありません。零さんには、必要と感じなければ話しません。私が何でもかんでも彼に情報を流したりしないってことは、あなたが一番よくご存知のはずよ」

今も沖矢昴の正体を零さんに明かしていないことに、赤井さんも気付いているはずだ。それは元をただせば赤井さんのためではなくて、零さんのためだと信じているからではあるが。

「組織を壊滅させることが零さんやあなたの悲願で、コナン君や哀ちゃんの体が元通りに戻る近道だと言うのなら、私だって力になりたいんです。この期に及んで部外者扱いはされたくありません」

私の訴えに、赤井さんは観念したように小さく笑った。

「解った、真実を話そう。君ならいつか、彼や組織の秘密に辿り着くと思っていたよ」
「っじゃあ……!」
「だが、その前に」

彼はここで言葉を区切った。実に沖矢昴らしい、胡散臭い微笑みを浮かべる。

「夕食にしましょう。肉じゃがでもいいですか?」
「え?……ああ、えっと、はい」
「それなら、あなたは部屋でのんびりしていてください。準備が出来たら声を掛けます」

そう言って彼はくるりと背中を向けた。目の前で急に人格が変わったことに、キツネに抓まれたような心地がする。

(気を遣われた、のかな)

一人で落ち着く時間が必要だろうという気配りだろうか。そういう細やかな配慮が出来る男だという事を、悔しいけれど私は知っている。

彼の言葉に従って、宛がわれた部屋に荷物を持って向かうと、私は首のヘッドホンを装着した。小さなクリック音のあとに聴き慣れた声がして、私は備え付けのベッドにへなへなと腰を下ろした。
そして決意を新たにした。私と零さんの平穏を脅かす、こんな悪意に負けたくない。
手に持ったスマホが着信を告げるまで、私はヘッドホンを手放すことが出来なかった。

*****

「それで、3日後までにどうやって彼女を手に入れるつもり?」
「そうですねぇ。制限時間があるなら仕方ありません、紳士の仮面を捨ててしまいましょうか」

高級フレンチの後でホテルに連れて行くのはいかがでしょう?と停まっている車のハンドルを撫でながら言うと、ありきたりだけどいいんじゃない、とベルモットは素っ気なく言った。

「じゃあその約束、今取り付けなさいよ。上手に口説けるか、見ていてあげるわ」
「覗き見なんて趣味が悪い―――ああいえ、何でもありません」

僕はベルモットの指示通り、スマホを取り出してさくらに連絡を入れた。取り込み中だったのか、7コール目で漸く出た。

「はい、もしもし」
「こんばんは、さくらさん。安室です」
「あ、安室さん……!こんばんは!」

僕から連絡が来ると思っていなかった、と言いたげな声の様子に、僕は忍び笑いを零した。隣でベルモットが鋭い視線を向けてくる。

「どうしたんですか?こんな時間に」
「いえ、ただあなたの声を聴きたくなって。今お電話しても大丈夫ですか?」
「……安室さんの、そういうことを簡単に言えちゃう所、苦手です」
「あはは。さくらさんが可愛い反応してくれるのがいけないんですよ」

彼女は僅かに言葉に詰まった。スマホの向こうで彼女がどんな顔をしているのか解らなかったが、少なくとも笑ってはいないのだろうな、と予想は出来た。

君にはいつも、幸せそうに笑っていて欲しいのに。

「ところで話は変わりますが、さくらさん、3日後の夜は空いていますか?」
「3日後ですか?」
「ええ、3日後です」
「ちょっと待ってくださいね。……ええ、空いています」

夕方まで蘭ちゃんとお出かけする用事があるけど、夜だったらフリーです、と言って彼女はぎこちなく笑った。

「そうでしたか。僕もその日、ポアロのシフトが6時までなんですが、その後よければ一緒にディナーでもいかがですか?」
「……いいんですか?」

恐る恐る、と言った風に訊いてくるのか可笑しかった。こんなに遠慮がちな彼女の声を聴くのは、ひょっとしたら初めてのことかも知れなかった。

「ええ、勿論。では、6時半に米花駅でお待ちしていますね」

3日後の約束を取り付けて、僕は通話を切った。ベルモットに向き直り、いかがですか?と首を傾げる。

「こんな相手にあなたが半年も手こずっていたとは思えないけど、まあいいわ。色よい返事を期待してるわね」
「ええ。きっと満足していただける結果になると思いますよ」

自信満々に微笑む僕に、ベルモットは肩を竦めただけだった。


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