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頼りになる人工知能からもたらされた衝撃の事実に、私は息を呑んで固まっていた。

小学生にしては頭の回転が速すぎると思っていた。子供っぽい顔を見せる一方で、思春期の少年のようなぞんざいな態度を見せる一面があることも知っている。FBIの捜査官と親しくし、今回の事件でも警視庁の人間の何人かと協力関係にあるような様子も見受けられた。

けれど、その正体が行方不明になった高校生探偵の工藤新一だったなんて、夢にも思わなかった。

初めて赤井秀一の正体を告白された時のことを思い出す。FBI捜査官が日本に潜入していることに対して、小学生の彼がその事実を知っていることに驚いた記憶がある。あの時彼は、自分もFBIが日本に出張ってくるような大掛かりな事件の当事者であると言っていた。
私に累が及ぶかも知れないから、詳細は伏せると彼は言った。けれど、その後で知った赤井秀一と零さんの共通の目的や、あの水族館で起きた事件のことを考えると、自ずとその詳細についても把握できる。

例の組織が、関わっているのだ。コナン君だけではなく、哀ちゃんとも因縁があるという黒の組織が。そしてそれは、彼が10歳も若返ってしまったことと無関係ではない。

ここで私は気が付いた。コナン君だけではなくて、哀ちゃんも実際の年齢より若返っているのではないかと。彼女も年齢にそぐわないほどの知性と落ち着きを持った人間だ。歩美ちゃん達を見守る視線が保護者のようだと感じたのも、そう考えれば納得がいく。

哀ちゃんが研究しているあの薬は、アポトーシスを誘導しテロメラーゼ活性によって細胞の増殖能力を高めるものだ。アポトーシスとはプログラム細胞死とほぼ同義に扱われる、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種である。個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる細胞死であり、オタマジャクシが成体になる時に尻尾を失うのもこれに起因する。人間の体内でいうと、癌化した細胞を自然と取り除くことで腫瘍の成長を未然に防ぐことができるのも、このアポトーシスのお陰である。

「さくら。この結果を、降谷さんにお伝えしますか」

ギルバートの声で、私は現実に引き戻された。ドアを1枚隔てた向こうでは、零さんが朝ご飯の支度を整えてくれている。

「待って……、少し整理させて。あなたがそう訊くってことは、零さんはこの事実を知らないの?」
「薄々勘付いてはいらっしゃるかも知れませんが、確証は得ていないでしょうね。何しろ、江戸川コナン君の正体についての話を降谷さんとしたことがありませんので」

その上であれだけの信頼を勝ち取るコナン君という少年の非凡さを、私は改めて思い知った。彼が敵でなくてよかったと、今ばかりは実在するかも解らない神に感謝したい気分である。

「だったら、ギルバート。まだこの結果を零さんには伝えないで」
「もう少し詳しく調べますか?」
「そうね、私だってまだ半信半疑だもの。いきなりこんなことを言われても、零さんだって混乱するかも知れないし、私が日本に居る間に可能な限り調べてみるわ」

休暇はあと2週間ほど残っている。その間に、この件についてどれだけの情報を集められるだろうか。そうして集めて得た結果を、どう処理することが適切なのか。少し、冷静になって考える必要がありそうだ。
憶測だけでは私達科学者は動けない。仮説を立てて、根拠となる数式などを盛り込んだ論文を作って、それが学会に認められなければ研究段階には進めないのだ。指紋の一致なんてほとんど確実な証拠を得ても、まだ疑う余地はあると私は考えていた。

私がそう決心したのを見越したかのようなタイミングで、零さんが寝室のドアをノックした。私は動揺を押し隠しながら、軽い口調で返事をしてベッドから腰を上げた。

ご飯を食べてシャワーを浴びたら、買ってきたお土産を渡そう。彼の喜ぶ顔を想像したら、早鐘を打つ鼓動が多少和らいだような気がした。

*****

ジンからの着信が僕のスマホを揺らしたのは、さくらと寿司屋に行って日本酒をあれこれ紹介した日の翌朝だった。この後は彼女と一緒に朝食を摂ってポアロに出勤する予定だったのに、何やら不穏な気配しか感じない。

隣で眠る彼女を起こさないように、僕はそっとベッドから抜け出した。

「はい、もしもし。どうかしましたか?ジン」
「よう、バーボン。最近気に入りの猫を飼い始めたらしいじゃねえか」
「猫?」

僕はジンの言いたい意味が解らず、眉根を寄せた。世間話がしたい訳ではないだろうが、こんな遠回しな表現をするのは珍しい。ジンは惚けても無駄だ、とこの男にしては機嫌がよさそうな声で続けた。

「ベルモットがしっかり見てたそうだぜ?助手席に乗せても惜しくないくらい、可愛がってる猫がいるってよぉ」

その言葉に、一瞬で血の気が引いた。猫というのが誰を指しているのか解ったからだ。
僕は瞬き一つで動揺を呑みこんで、平然と訊き返した。

「ええ、最近親しくなった子ならいますよ。それがどうかしましたか?」
「そいつに首輪を付けてこい。それがラムからの指令だ」
「と言うと?」
「わざと察しが悪いふりをするのはやめろ、バーボン。お前の悪い癖だ」

そう言いつつ、ジンは小さく舌打ちを漏らした。焦らされるとすぐに苛立つ所は、それこそ彼の悪い癖である。

しかし、彼が単刀直入に切り出した名前を聴いて、僕は呼吸が止まるかと思った。

「本田さくら」
「っ!」
「知らないとは言わせねえぞ。世界を股に掛ける情報工学の研究者で、ドイツを拠点に活動している有名人だ。こいつをうちの組織に引き入れたいと、あのお方が望んでいる」
「……何故それを、僕に指示するんです?」
「さあな?テメーの胸に訊いてみろよ。これほどの人材と半年以上も慣れ合っておきながら、その存在を一切組織に報告しなかった理由をなぁ」

やはり、去年の夏から僕と彼女が一緒に行動していたことは筒抜けのようだった。ベルモットに彼女の姿を見られたのは一度きりのはずだが、別の人間にもどこかで一緒に居るところを見られていたのかも知れない。
僕はカラカラに渇いていた唇を舐めた。

「僕自身の目で、品定めをしている最中だったんです。彼女が組織にとって、有益な存在なのかどうかをね」
「ハッ、どうだかな。それでその女は、お前のお眼鏡には敵いそうなのかよ?」
「さすがに実力は確かなようですよ。ただしとことん慎重な性格で、いつまで経っても尻尾を掴ませることをしませんが」
「さしもの探り屋も形無しってか?」

笑わせるなよ、とジンは語気を荒げた。

「素人相手に半年以上も手こずらされるなんて、お前はいつからそんなに使えねえ野郎になり下がった?それとも、俺達に言えねえ深い事情でもあるのか」
「まさか。ご心配には及びません、もうじきチェックメイトしてみせますよ」

この場面で最悪なのは、僕以外の人間に彼女を陥落してこいと命令されることだ。だから何としても、彼女のことは僕に一任する、という空気に持って行かなければ。
僕のそうした焦りを知ってか知らずか、ジンはうっそりと嗤った。

「その女の師だった男はな、組織に勧誘しようとした矢先に死んじまったんだ」

彼女の人生の師にして、彼女がかつて愛していた男であるプログラマーの話題を出されて、僕はぴくりと肩を揺らした。

「だから今度は、確実にこちらの手の内に連れて来い。もしも既に他の奴らに飼われているとして、こちらに付かないと言うんなら、遠慮はいらねえ」

―――殺せ。

と、ジンは獲物を甚振る時そのものの声音で言った。

「解りました」

機械的に返事をしながら、僕は必死に脚に力を入れて踏ん張っていた。通話が切れてしばらくしてからも、指示された内容がぐるぐると頭の中を巡っていて、僕は茫然と立ち尽くした。


その背中を、ぱっちり開いた藍色の瞳がじっと見つめていたなんて、この時僕は知りもしなかった。


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