02





リニューアルしたばかりの東都水族館は、新し物好きの来館者でいっぱいだった。

俺は博士と探偵団の皆と一緒に、休みを利用してこの東都水族館に遊びに来た。綺麗になった建物もさることながら、やはり目を引くのは新設された大きな二輪式の観覧車だろう。
少年探偵団の奴らははしゃぎまくっていて、観覧車も水族館も両方行きたい!の大合唱だ。博士が出したクイズにも無事正解した俺達は、まずは観覧車に乗ろうと元太を筆頭に駆け出した。

その時、ベンチに座り込む一人の女性を見かけて、俺と灰原は足を止めた。ただ座っているだけならそう気にすることもなかったのだが、途方に暮れたような表情が気になって、俺は女性に声を掛けた。

「ねぇねぇ大丈夫?お姉さん」
「えっ?」

女性は突然声を掛けられたことに驚いたようで、俺と灰原を何度も見比べた。

「顔、汚れてるよ?」

汚れているのは顔だけではなかった。服も所々汚れ、ほつれている。
そしてよく見ると、彼女は右目が黒、左目が青のオッドアイであることが解った。

「日本語がよく解らないんじゃない?」
「いいえ、解るわ。でも……いつからここに居るのか、どこから来たのかが解らないの」
「!!」

俺と灰原は顔を見合わせた。もしかしてこれは記憶喪失状態なのではないだろうか。
彼女は自分の名前も覚えていないと言い、割れたスマホの周囲に散らばる車のフロントガラスの破片や微かに香るガソリンの匂いから、恐らく車の運転中に事故で頭をぶつけたのだろうと推測された。昨夜の高速道路での爆発事故で、巻き込まれた乗用車に乗っていた人かも知れない。

彼女の持ち物は壊れたスマホと5色の半透明カードのみで、身元を特定できるような物は何も無かった。そこで俺は彼女の写真を撮り、小五郎のおっちゃんに彼女の身元を捜してもらうべく蘭にメールを送った。これで、蘭から警視庁の刑事たちに連絡が行くだろう。そうしたら佐藤刑事や高木刑事などが協力してくれるはずだ。

そして俺は少年探偵団の奴らと一緒に、水族館で彼女の知り合いを捜すことにしたのである。

「私達がお姉さんのお友達を捜して、それで記憶を取り戻してあげる!」
「大船に乗ったつもりでいてください!」
「あ、ありがとう……」

使命感に燃える子供たちのパワーは凄まじい。記憶喪失の女性の手を引っ張って、元太たちは人混みの中を駆けて行った。

この時連絡する相手をミスっちまったことで、事態が余計にややこしいことになるのだが、それはまた別の話である。

*****

「……おっかしいなぁ。どこにも異常はないと思うんだけど……」

私は自室でデスクトップパソコンを眺めて唸っていた。昨日の晩に降谷さんから忠告を受けて、一から“ギルバート”のメンテナンスを行ってはみたものの、全く異常は感知されなかったのである。
電波状況が悪かったとも考えにくい。ギルバートのTCP/IPは私が独自に構築したプロトコルだ。人工衛星のGPSを利用して、世界中どこにいても通信可能なようにしている。
であれば、通信を遮断したのはこのAIの意思であるという、考えたくない結論も視野に入れなければならない。

私は溜息を吐いてギルバートを起動した。悩んでいる時間はないのだ。こうしている間にも、降谷さんは窮地に追い込まれているかも知れない。

「ハイ、さくら。こちらは良好です」
「ハイ、ギルバート。元気そうで何より―――と言いたいところだけど、訊きたいことがあるの」
「……昨日の、降谷零への通信を絶ったことですか?」

解っているなら話は早い。と言うよりも、これは完全に心当たりがある口調だ。

「やっぱりわざとだったのね。ねえギルバート、最近あなたどうしちゃったの?以前はあんなに協力的にサポートしていたじゃない」
「わざとではありません。私はあの時、本当に敵のスマホをジャックすることが出来なかったのです」
「それは、私や博士以外の人間があなたのサーバーを乗っ取って操作していたということ?」

それはそれで大問題である。この人工知能が存在していることを知っているのは私と博士、博士の家に居る哀ちゃん、そして降谷さんくらいのものである。

(……いや、もう2人いたわね。FBIの赤井秀一と、彼に情報を流した人が)

けれど赤井秀一が降谷さんを窮地に立たせるような真似をするとも思えない。アプローチの仕方は違っても、彼らは組織を壊滅させようと考える同志であるはずだ。

私が思案に耽っていると、ギルバートは逆に私に質問してきた。

「さくらは、何故そこまで降谷さんのために力を尽くすのですか。面倒事は嫌いだと、あれほど言っていたのに」
「何故って、それは」
「彼に情でも湧いたのですか?」

情が湧いた―――確かにそれは言えるだろう。いくつかの事件を乗り越えてきて、彼の存在が有り難いと思ったことは数知れない。彼と交わしたキスを思い出し、私が唇に手をやったのを見て、ギルバートの感情の振れ幅が僅かに大きくなった。

でもおかしい。いくら人工知能に感情を与える研究をしてきたと言っても、今のギルバートの熱に浮かされたような発言は、自分のプログラムではあり得ない。確かにこの目で確認したはずなのに、もう一度メンテナンスの必要があるのかと思わせるほど、ギルバートの態度には違和感しかなかった。

「さくら。私はこれまで、あなたが信頼する降谷零のことを、私も信頼してサポートしてきました」

ギルバートの口調はますます熱を帯びる。

「ですが、これ以上は聞けません。あなたがあの男に惹かれていくのを、黙って見過ごす訳にはいきません」

まるで嫉妬でもしているかのような口ぶりで話すコンピュータを、私はモニター越しに茫然と眺めた。

「解ってください。それが、“ギルバート”の望みだと」

夢のような話だ。人工知能に自我が芽生えたかのような発言に、私は状況も忘れて一瞬狂喜しそうになった。
けれどそれは違うと、直感的に理解していた。時として人間の脳がコンピュータを凌ぐ瞬間があるというのは、こういう時だろう。

ギルバートは、明らかに何者かの干渉を受けている。そしてそれが可能な人間は限られる。
私と博士、そしてもう一人の開発者しか、ギルバートの本体―――スーパーコンピュータの設置場所や、遠隔サーバーの場所は知らないはずだ。そこまで考えて、私は両目を見開いた。

まさか。
今彼が言った“ギルバート”の意味は、彼自身を指すのではなくて。

「生きている―――の?」

唇が震えた。心臓を直接揺さぶられたかのような衝撃が走る。
降谷さんと出会うきっかけになったあの事件を思い返す。思えば、あれも違和感が拭えなかったのだ。

「ひょっとして、あの時も……」

私達はあの時、大畠先輩が私のアプリを使ってギルバートの遠隔サーバーに不正アクセスし、データを盗もうとしたのだと思っていた。けれど、元々あのサーバーのセキュリティは堅かったのだ。大畠先輩ごときに見つけられるとは思えない。
だけど、誰かがわざと、大畠先輩にギルバートの情報を流したのだとしたら。

「あの時、私の遠隔サーバーに不正アクセスをしたのは、本当は大畠先輩じゃなくて……、大畠先輩に見せかけるために、誰かがそう仕組んだの?」

そんなことが出来る人間を、私は世界でたった一人だけ知っている。
もうとっくに死んでしまったはずの彼、ギルバート。
自他ともに認める馬鹿と紙一重の天才プログラマーにしてエンジニアの、私の師だった男。
好きだと告げることもできずに死に別れた、私の苦い恋の記憶。

どくんと心臓が大きく収縮した。それを見越したかのようなタイミングで、ヘッドホンの向こうから聞き慣れた声が私の名を呼んだ。

「―――さくら」

いつもの彼の声音と一切変わりないそれは、持ち得るはずのない人間の温かさを感じる声だった。


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