22
降谷さんが“安室透”としてポアロのバイトに復帰したのは、おおよその目安通りそれから1週間後のことである。その日は梓が休みだったので、私は安室さんが復帰していない場合のことを考えてシフトを入れていた。つまり、初めて安室さんとバイトのシフトが重なったというわけである。
「1週間、留守を任せてしまってすみませんでした」
「いいえー、おかげで1つ懸案が片付きましたから、こちらとしてもよかったです」
にこやかに近況報告をしながら朝の準備を進める。降谷さんは私の発言に声を上げて笑った。
「ああ、ギルバートに映像を見せてもらいましたよ。あれは中々傑作でした」
「えっ、やだ!安室さんにあの動画を見せたんですか?忘れてください!」
自分でも若干調子に乗ったのは否めない動画を、よりにもよってこの人に見られてしまった。恥ずかしさに埋まりたい気分である。
「忘れませんよ。だって、あなたが僕のために怒ってくれたんですから」
「―――何のことだか解りませんね」
「そうやって何も悟らせないようにする。あなたのそういう奥ゆかしいところ、嫌いじゃないですよ」
私は無言で下拵えの手を速めた。
「僕が彼女達への対応に困っているのが解っていたから、あなたはああやって必要以上に威嚇してみせた。違いますか?」
「……もう!一々指摘しないでください、何でそういうことまで気付いちゃうんですか」
図星を突かれて頬に熱が集まる。何も降谷さんのためだけに怒ったのではないが、そこを重点的に攻められると自分がとても恥ずかしいことをしてしまったように感じられた。私は慌てて話題を逸らす。
「あ、安室さんは、お休みの間何か変わったことはありましたか?」
彼が答えようと口を開いた時、カランと音がしてドアが開いた。入ってきたお客様は、私もよく知る女の子である。
「蘭ちゃん、いらっしゃい。2名様でよかったかな?」
「さくらさん、おはようございます!今日は安室さんと一緒なんですね!」
「あれ?あなたどっかで見たことある……?」
蘭ちゃんの後ろにいたのはヘアバンドが特徴的なおかっぱの女の子。時折蘭ちゃんと一緒にポアロに来てもらっていたから、顔は何となく覚えている。
「園子、この人は前にポアロでバイトしてた本田さくらさん。さくらさん、この子は鈴木園子って言います」
「ああ、たまに財閥のプロモーションで顔出しされてるお嬢さんね。初めまして」
「ああー、そっか!道理で顔を覚えてると思ったわ。え?じゃあバイト復帰したんですか?」
私はコナン君にもした説明を園子ちゃんにも繰り返した。期間限定で復帰したものの、安室さんが戻ってきたからこれからはバイトにも来ないだろうと言うと、蘭ちゃんは残念そうな声を上げた。
「ええー、安室さんとさくらさん、せっかく同じシフトになったのに、これが最初で最後なんですか?」
「?まあ、多分そうなるのかな?」
「そんなぁ。お2人が並んで働いているところ、もっと見たかったのに……」
「え?なあに、この2人ってそーいう関係?」
蘭ちゃんの謎の発言に園子ちゃんまで食いついた。それを見て、私と降谷さんは顔を見合わせる。
降谷さんはふと私に笑いかけ、女子高生2人に向き直った。
「そーいう関係って、どんな関係に見えますか?」
「えっ、そ、それは……」
「もしかして付き合ってるとか!?」
赤面する蘭ちゃんと身を乗り出す園子ちゃんの反応で、私は蘭ちゃんがやけに私と降谷さんの仲を気にする理由を理解した。なるほど、蘭ちゃんが私と降谷さんのシフトが被らないと聞いて残念そうだったのはそういうことか。女子にはありがちな、他人の恋愛事情にも口を突っ込みたがる時期なのだろう。
「そんな風に見えますか?」
「み、見えます。前にうちの事務所で事件があった時も、安室さん、さくらさんの手を握って励ましてましたし……」
よく見ている。人の死体を見て動転する私を降谷さんが宥めてくれたのだが、あの状況でそんなシーンを見逃さないなんて、蘭ちゃんも大概図太いんじゃないだろうか。
「だそうですよ、さくらさん。光栄ですね、そんな風に思ってもらえて」
「本当に。ますます安室さんのファンの子に恨まれちゃいそう。私は無罪なんですけどね」
降谷さんが冗談を口にしたので、こちらも冗談で返す。すると彼は困ったように眉を下げ、2人に向かって私のことを指し示した。
「ね?僕がどれだけ口説いても、彼女には通じないんですよ」
「本気で口説かれたことなんて一度もないじゃないですか。まあでも、これで解ってもらえたかな。私と安室さんは、別に付き合ってる訳じゃないのよ」
私が事実を述べると、解りやすく2人のテンションが下がった。しかし園子ちゃんはめげない。
「そっかー、安室さんの片想いか。安室さん、頑張ってくださいね!」
「はは、ありがとうございます。ところでまだオーダー訊いてませんでしたね」
それでいいんですか降谷さん。勝手に設定増やしちゃうとあとで自分の首を絞めることになりますよ、と心の中で呟いて、私も2人の注文をメモした。降谷さんのハムサンドは女性客を中心に大人気で、園子ちゃんはそれを嬉々として注文していた。
「そういえば安室さん、料理出来るんですね」
「ええ、趣味のようなものですけどね。さくらさんは普段から自炊されるんですか?」
「時間があるときは一応。ない時はゼリー飲料で済ませてますね」
「それは感心しませんね。出来ることなら僕がドイツまで作りに行ってやりたいくらいです」
さらっと実現不可能なことを口にする降谷さんに、女子高生2人はキャー!と黄色い歓声を上げた。
「安室さん、超本気じゃないですか!」
「さくらさん、これでもまだ付き合わないって、安室さんのどこが不満なんですか?」
「不満って……」
「だってこんなにイケメンで優しくて頭もよくて、料理も出来る男なんて他にいます!?」
園子ちゃんはハムサンドをずいっと突き出して叫んだ。私は困り果てたように苦笑いを浮かべた。
「そりゃ、安室さんは素敵な人よ。素敵すぎて、私には恐れ多いわ」
「恐れ多いとかそういう話じゃないですよ!」
「そうですよさくらさん、安室さんとさくらさんはとってもお似合いじゃないですか!」
一応褒められてはいるのだろう。私はありがとう、と返したものの、この場面における正しい解答が解らなくて困惑した。
「それとも、他に恋人がいるんですか?」
不意に園子ちゃんが発した言葉に、場の空気が一瞬固まった。その可能性は考えていなかった、と言いたげな蘭ちゃんと降谷さんは、地味に失礼だと思う。
「えっ、いるんですか!?安室さんの他に恋人が!」
「いないいない。そんな、恋人作ってる余裕なんてなかったし」
「…………」
降谷さんは口元に手を当てて、何やら考え込んでいる。そんな顔されても、いないものはいない。いないのにいると言い張るほど見得っぱりでもない。
「ならよかったー。安室さん、こうなったら押して押して押しまくってくださいね!」
「私達、安室さんを応援していますから!」
私の意見は華麗にスルーされ、女子高生特有のパワーで謎のエールをいただいてしまった。降谷さんはにこにこと笑ってそれに応えているけれど、本心ではどう思っているのやら。
嫌がられてはいないことに密かにほっとしている自分を棚に上げ、私は肩を竦めてみせた。
それからは、ポアロのバイトを休んでいた間に蘭ちゃんや園子ちゃんとテニスの特訓に出かけたという降谷さんの華麗なラケット捌きを動画で観たり、トリックに使われていた過冷却水の話で盛り上がったりしながら、賑やかな午前中を過ごした。
シフトが終わって片づけをすることには、既にお客さんの姿は店内にはなかった。
「今朝はすみませんでした。少し調子に乗り過ぎました」
「いいえ、私は平気です。でもあんまり誤解されるようなことを言うと、安室さんの方が言い訳できなくて苦しくなりますよ」
「……さくらさん、恋人はいないって言いましたよね」
ぽつりと漏らされた呟きに、私は洗い物をする手を止めずにはい、と答えた。
「実を言うと、最初にギルバートの声を聴いた時、彼はあなたの恋人なのだと勘違いしましたよ」
「ふふ。それ、最近よく言われます」
哀ちゃんにもそう質問されたことを思い出した。いまいち恋人同士の空気感というものが解らないが、私とギルバートの間にはそれがあるように感じられるらしい。
「でも、そんなことはあり得ませんから」
私は軽い口調で否定した。そう、そんなことはあり得ないのだ。
別に勘違いされたからと言って困ることはない。虫よけにはなるし、下手な人間よりもあの子はよっぽど紳士である。
けれど、そんなことはあり得ないのだ。
―――さくら。
と、私を呼ぶ落ち着いた男の声が脳裏を過る。その声に誘われるように笑みがこぼれた。
ギルバートは、あの人工知能のもう一人の生みの親は、
私を唯一無二の存在と呼んだあなたは、
私を置いて死んでしまったのだから。
それきり口を噤んで洗い物に没頭した私を、降谷さんはもの言いたげな目で見つめていた。
[ 23/112 ]
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