メリー





さくらが死んだ。

僕の恋人であり協力者でもあった本田さくらは、あまりにも呆気なく死んでしまった。
日本から遠く離れたドイツのアウトバーンで、暴走する車に後ろから追突され、彼女の乗る車は前を走っていた車に半ばめり込んでいた。彼女の座っていた助手席側は見る影もなく潰れ、その遺体は目も当てられないほど深刻な損傷を負っていたらしい。

その知らせを僕が受け取ったのは、彼女の開発した人工知能が彼女の心拍数を感知出来なくなったのと同時刻で、日本時間の夕方6時ごろのことだった。本庁に立ち寄っていた僕がその知らせを見た途端、血相を変えてパソコンの前から立ち上がったものだから、同じ部屋にいた部下の全員がぎょっとしてこちらを見つめてきた。しかしそんなことに構っていられるような心の余裕はなかった。
慌てて部屋を後にして、空いていた会議室に身を滑り込ませた。誰も居ないことを確認し、スマートウォッチの右ボタンを6回クリックする。

「ハイ、降谷さん」
「ギルバート、さっきの話は」
「落ち着いて聴いてください、降谷さん。最初に言っておきますが、冗談ではありません」
「ならばドッキリか?ヤラセか?エイプリルフールはまだ先の話だぞ」

僕は自分の声が異常に平坦なことに気付いていた。けれどもそれは、さっき告げられた言葉を完全に理解し、受容したからこその落ち着きではなかった。
僕はこの時、何も理解してなかったのだ。彼女が死んだなどというあってはならない事実を、脳が理解することを拒んでいたのだ。

しかし、彼女の作った人工知能は僕に逃げ場を与えなかった。

「そのどちらでもありません」
「やめろ……」
「降谷さん。さくらは死にました」

人工知能は感情の籠らない声で、残酷な現実を突き付けた。

「もう、この世のどこにも居ないのです」

その言葉を聴覚神経が受容し、脳に届くまで、293ミリ秒しか掛からなかった。

嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ、そんなことは嘘だ。
そう心で叫んでも、僕の喉はひゅうひゅうと無様な音を漏らすだけで、まともな言葉を紡ぐことは出来なかった。

人工知能は僕が反論しないのを察して、静かに事実だけを伝えてきた。

「事故現場は未だに騒然としており、事態の収拾には時間が掛かるかも知れません。さくらと同乗していたD.F.K.Iの職員も即死したようですから、遺体の身元特定などに時間が掛かる可能性があります」
「…………」
「なるべく早く現場検証及び事故原因を突き止められるように、必要な根回しはしておきます。さくらの遺体が帰ってくるのは、早ければ1週間後になるかと思います」

事務的に告げられる内容が、却って空恐ろしく感じられた。
あまりにも現実味がなさすぎて、空虚な言葉だけが右から左へ抜けていく。

「降谷さん」

人工知能の呼びかけに、僕はびくりと肩を震わせた。その声がまるで生きている人間のように、力なく震えていたからだ。

「降谷さん。酷なことを言っていることは解っています。ですが、どうかお願いします」
「ギルバート……」
「さくらが日本に帰ってきたら、必ず会いに行ってあげてください。どうかさくらが死んだという事実から、目を背けないでください」
「…………」
「そしてその事実を受け止めたなら、どうかさくらのことは忘れてください」

僕は自分の耳を疑った。この人工知能は今、何と言ったのだろう。
僕が彼女のことを忘れるような、酷薄な男だと思っているのだろうか。いくら彼女の死が受け入れがたい事実だとしても、彼女と過ごした記憶まで理不尽に奪われる謂れはない筈だ。
ふざけるな、と怒鳴ろうとして、しかしその声は音になることはなかった。

「解ってください」

人工知能は淡々と答えた。

「それが、さくらの望みだと」

ついに一言も反論させることなく、人工知能は一方的に通信を切った。
そしてそれが、彼の声を聴いた最後の会話となった。



さくらが日本に帰ってきたのは、事故に遭ってから1週間後のことだった。彼女の遺体はドイツで火葬され、彼女の両親は現地の医師が書いた死亡診断書と翻訳文、そして遺骨の入った骨壺を抱えて、茫然とした表情で羽田に降り立った。
彼女の母親が両手で抱えることが出来るくらいの小さな箱に、彼女の生きた証は納まっていた。

彼女の両親とその親族が泣きながら彼女の遺骨に縋る様子を、僕は人目に付かないようにロビーの片隅で見つめていた。こんな時に堂々と、帰ってきた彼女に会いに行けない自分が歯痒くて、もどかしくて、けれどどこかで安堵もしていた。
彼女の遺骨を前にしてさえ、僕はまだどこかで現実から目を背けていたのだ。あれが本物の彼女である証拠なんてどこにもないじゃないか、と。

それを諫めてくれる相棒はもういない。僕の左手首に嵌ったスマートウォッチは、単なるウェアラブル端末の用途でしか使えなくなった。それというのも、彼女は自分の身に何かがあった場合、3日後の午後0時に自分の開発した人工知能を完全に消去するよう、事前にプログラムしていたのだ。あの人工知能は、限られた人間しか知らない極秘の存在だった。彼女の研究成果を正しく扱える科学者は、彼女を除いては共同開発者である阿笠博士しかいない。その阿笠博士の了承を得た上で、彼女はあの人工知能を消去することを選んだ。人工知能もそれを望んでいたのだと、阿笠博士は僕に語った。

まるで、僕の前から完全に存在を消すかのように。彼女は僕に何も残さないまま、幻のように消えてしまった。

それを知った僕の絶望は、筆舌に尽くしがたいものだった。
これまで多くの人間を見送ってきた。その中には、心が引き裂かれるほど辛い別れも含まれていた。
けれど、こんなにも心が動かない別れは初めてのことだった。

それもそのはず、僕はこの時完全に心が壊れてしまっていたのだ。彼女が死んだということを頭で理解していても、感情がそれを否定した。相反する情報を上手く処理するには僕の脳味噌はスペックが低すぎて、結果として僕は心を壊すことでしか、僕という人格を守ることが出来なかった。だからあれから僕の心は、何を見ても揺らがないし感動に打ち震えることもない。

ぽっかり開いた心の穴を満たしていたのは、ある種の狂気だった。

(許さない)

勝手に僕の前から消えてしまうなんて、そんなことは許さない。
お前は、僕との約束を忘れてしまったのか。僕の傍から離れないと、決して僕を置いていかないと言ったあの日の約束を、お前は忘れてしまったのか。

さくらのことは忘れてくださいと、あの人工知能は言った。それが彼女の望みなのだと。それはもしかしたら、僕の心が壊れてしまうことを見越した上での、彼なりの気遣いだったのかも知れない。だが、そんな身勝手な望みなんてくそくらえだ。

(忘れてなんかやるものか)

例えお前が忘れて欲しいと願ったとしても、地の果てまででも追いかけて行って、お前が居たという証をこの手に取り戻してみせる。

もう一度言うが、この時僕の頭を支配していたのは純粋な狂気だった。心が壊れてしまった僕は、持ち前の演技力を駆使して、一見以前と変わらない生活を続けていた。恋人を喪っても懸命に仕事をこなす僕を周囲は勝手に気遣って、同情と憐れみの視線を投げて寄越したが、僕は今更そんな不躾な視線など気にも留めなかった。だが心の中は、今にも胸を裂いて溢れ出ようとする狂気と幻想に満ちていた。

僕にとって何より不幸だったのは、僕が自分の狂った幻想を実現しうるだけの知識と人脈を得ていたことだろう。彼女の死を知ってから1か月後のある日、僕は折り入って相談がある、と言って阿笠博士の許を訪れた。
僕と彼女が恋人同士だったことを知っている阿笠博士は、痛ましそうな眼差しを僕に向けた。博士の元に居候しているという少女の姿は、この時もどこにも見当たらなかった。

「安室さん、さくら君のことなんじゃが……」

僕には博士が何を言おうとしているのか予想が出来た。だからその言葉を言わせまいと、先手を打ってにっこりと微笑んだ。

「阿笠博士」
「…………」
「実は、相談というのは他でもない、さくらのことなんです」

僕が何の躊躇いも無く彼女の名前を出したことに、博士は訝し気な顔をした。

「彼女とあなたが共同で開発した人工知能は、彼女の死の3日後に消えてしまったんですよね」
「……ああ。それが最善策じゃろうと、ワシも彼女も前々から話しておったからのう」
「それで、“ギルバート”の遠隔サーバーと本体のスーパーコンピュータは、今どうなっているんですか?」
「遠隔サーバーは全て別のデータに上書き保存し、スーパーコンピュータは使用権限がワシに移っておる。じゃから今、あの人工知能が存在していたということを証明できるのは、世界にワシ1人しかおらんのじゃ」

僕はその言い草にほくそ笑んだ。この口振りならば、そんなに策を弄さずとも僕の願いを叶えてくれるかも知れないと思ったのである。

「後悔していませんか。ギルバートを消してしまったことを」
「後悔などしておらんよ。あれはさくら君が、ワシらの手から引き継いで研究を進めておったものじゃ。その有用性と表裏一体の危険性については、ワシも彼女もようく理解しておったからのう。あれを消すという事は、彼女の研究を悪用しようと目論む他の研究者の手から守ることと同義じゃった」
「ですが、それは同時に彼女の研究人生における最高傑作を、永遠に棄て去ってしまったということに他なりません。あの人工知能があれば、今後のIT工学の発展に間違いなく一役も二役も買ったはずだ。多くの人工知能研究者は、ギルバートのようなプログラムが出来るのはまだまだ先のことだと考えています。その思い込みを払拭する役割を、彼女と彼女の人工知能が果たすべきだったのではありませんか。彼女が死んでしまったのなら、人工知能だけでも残しておくべきだったのではありませんか」
「しかしのう、多くの人間の賛同を得るには段階が必要じゃ。そういう意味でも、彼女の死はあまりにも早すぎた」
「それについては同感です。彼女はまだ、死ぬべきではなかった。彼女と彼女の研究は、こんな所で喪われていいものではなかった」
「安室さん……」
「まあ、もう消えてしまったものにいつまでも想いを馳せていても始まりません。消えてしまったのなら、また新しく生み出せばいい」

僕の熱弁を黙って聴いていた博士は、そこで何事かに気付き、僕の瞳を真っ直ぐに見据えた。

「……安室さん。まさか、君は」

博士は信じられない、と言いたげに僕の顔を驚愕の目で見つめた。まるで視線の先に居る相手が、稀代のマッドサイエンティストか何かのように。
その視線を受けて、僕はうっそりと微笑んだ。

勝手に僕の前から消えてしまうなんて、そんなことは許さない。例えお前が自分のことを忘れて欲しいと願ったとしても、地の果てまででも追いかけて行って、お前が居たという証をこの手に取り戻してみせる。

「そのまさかですよ。“ギルバート”を開発した技術をもって、“さくら”を生み出して欲しいんです」


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