男の
外の風景は、別段いつもと変りないように見えた。いつも通りの米花町に、いつも通りの杯戸公園である。
その中を2人で並んで歩きながら、私は零君の質問に一つ一つ答えていた。零さんの服はやはり彼には少し大きいようで、身ごろの合わないシャツに着られている彼は一層幼く見えた。
「それでは、さくらさんと僕が知り合ってからまだ1年にも満たないんですね」
「ええ、そうよ。初めて会ったのは真夏の暑い日だったわ」
「どこで出会ったんですか?」
「この町にある喫茶店よ。あなたからナンパされたの」
「えっ!?僕がそんなことを!?」
「ふふ、冗談よ。半分はね」
「半分冗談ってことは、半分は事実なんじゃないですか」
「どうかしらね?今のあなたには想像も出来ないかも知れないけれど、大人のあなたは女の扱いもお手の物だったわよ」
「……あなたのような女性を堂々と口説けるほど、自分が器用だとは思えない……」
「そうね、女を口説くのは下手だったわ。でも、私は零さんの下手な口説き文句を聴くのが好きだったの」
隣で彼が歩みを止めた。私が日傘をくるりと回して振り向くと、彼は掌で口元を覆って俯いていた。
「零君?」
「……さくらさん、狡い女だって言われるでしょう」
「え?私が狡いって?……初めて言われたわ、そんなこと」
「わざとやってるんじゃないんですか?余計に性質が悪いな……」
「よく解らないんだけど、呆れられてる?」
私が首を傾げると、彼ははああああ、と深い溜息を吐いた。
「きっと大人の僕は気が気じゃないでしょうね。恋人がこんなに無防備だなんて」
「私は無防備じゃないわよ。ちゃんと怪しいと思う人には警戒しながら接してます」
零さんと初めて会った時しかり、赤井秀一に声を掛けられた時しかり。それに私には、何より心強いセコムが居る。
けれど頬を膨らませた私を鼻で笑い、零君は一歩踏み出した。
「どの口が言いますか。自覚がないようですから言っておきますが、あなたは自分で思っている以上に隙だらけですよ」
言うが早いか、彼は私の手首を掴むと強く引き寄せた。青灰色の瞳が迫り、目を閉じる間もなく唇に柔らかい物が触れる。
ちゅ、とリップ音を立てて離れたそれは、間違いなく零君の唇だった。驚いた拍子に日傘が手から落ち、歩道の上を転がって止まった。
「…………」
「……何か言ってくださいよ」
ぽかん、と目を見開いて固まる私に、零君は気まずそうに口元を手で覆った。
「あ、ご、ごめんなさい。まさかあなたがこんな気障なことをしてくると思わなくて……」
唇を押えて視線を逸らすと、私の頬にもじわじわと熱が集まり始めた。大人の零さんも、人目を気にせず私に触れてくる人だったけれど、今の彼は胸元の開いた服を見ただけで真っ赤になるような少年だったはずだ。初心で生真面目かと思いきやこんな思い切ったことをしてくるなんて、振れ幅が大きすぎて付いていけない。
「女慣れしていないなんて、嘘じゃないの?今のキスも、とってもスムーズだったけど」
「だ、誰にでもこんなことしませんよ。あなたが自分と言うものを解っていないようだから、少しは警戒して欲しくてこんなことをしたんです!」
肩を怒らせて弁解する彼は、もうすっかり純情な少年の顔に戻っていた。
「兎に角、今ので解ったでしょう?あなたは無防備すぎる。もう少し男に対しての危機意識を持ってください」
「危機意識って。あなた相手に、今更何を警戒しろって言うの?」
「―――だから!そういうことをうかうか喋らない方が賢明ですよって、僕はそう言ってるんです!」
ぷんすか怒る零君に、私はますます困惑して首を捻った。そんな私達の様子を、公園のベンチに腰かけていた老夫婦が見てくすくすと笑っている。見渡せば、他にも通行人の何人かが私達のやり取りに注目していた。
何だか居た堪れなくなって、私は転がった日傘を拾うと彼の腕を引っ張った。
「は、早く行きましょう。あなたの言いたいことは解ったから」
「本当に解ったんですか?」
「少なくとも零君以外の男の人には、こんな気の抜けた態度は取らないようにするわ。だからそんな顔をしないで」
むすっとした顔は若返る前と何一つ変わらない。妙に懐かしく思いながら零君の頬を撫でると、彼は子ども扱いしないでください、と言って逆に私の手を取って歩き出した。
(そうやって怒る顔が可愛い、なんて言ったら、余計に怒らせちゃうかしら)
零さんはいつも大人の余裕を崩さない人だったから、零君の少し幼くて可愛い顔を見られただけで、こんな奇妙な夢を見るのも悪くはないなと思えた。
ショッピングモールに着くと、私は彼に言われるままに様々な服を試着した。案外彼は凝り性なようで、女の服装に興味なんてないのかと思いきや、真剣な眼差しで私に似合う色やデザインについて考え込んでいた。
「零君って、彼女の買い物にも真剣に付き合ってあげるタイプ?」
「これまで彼女がいたことがないので、解りませんね」
「じゃあ想像してみて。彼女が“これとこれ、どっちがいいと思う?”って言ってきたら、どんな反応するの?」
「そうですね……、さくらさんに似合うのは、こちらのパフスリーブの方だと思いますよ」
華奢な骨格なので、パフスリーブでも肩を強調しませんし。と、サラッと返されて、私は頬を膨らませた。
「私の話じゃないわよ、あなたの彼女の話をしてるの」
「あなた以外の女性とこうして買い物に来るところを、今の僕には想像できません」
思わぬカウンターパンチを食らい、私は思わず彼から目を逸らした。彼はそれに気付くことなく、更なる追撃を加えてくる。
「もっと言うなら、あなた以外の女性と並んで眠ることも、手をつないで歩くことも想像できません。でも」
「……でも?」
「あなたとなら、それが違和感なくできてしまう。あなたは不思議な人ですね」
大人の余裕を持たない彼は、どこまでも率直な言葉で私を喜ばせた。それが嬉しいような恥ずかしいような、くすぐったい気分になる。
「れ、零君。あの、気持ちは嬉しいんだけど。お願い、それ以上言わないで……」
「どうしてですか?元はと言えば、あなたが訊いてきたんでしょう」
小首を傾げる零君を恨めし気に見上げて、私は自分の胸元に手を当てた。
「だって、心臓がもたない……」
ばくばく、ばくばく。まるで心臓だけが意志を持った生き物のように、激しく鼓動を刻んでいた。飾らない好意の言葉が時としてこれほど凶悪な破壊力を持つのだと、私は初めて思い知った。
茹蛸のように真っ赤になった私の顔を見て、零君は得意げに笑った。
「さっきまでの僕の気持ちが解りましたか?」
「……解りました。解ったから、そんな目で見ないで……」
「解っていただけたなら何よりです。それじゃ、会計を済ませたら出ましょうか?」
「うう、はい……」
さっきまでは私に振り回されてばかりだった零君は、今は自信に満ちた表情をしていた。こうやって女の扱い方を学んで行ったのかと、少年が成長する瞬間を目の当たりにしてしまったような気分である。この成長の幅は、10代の若者の特権だろう。
並んでアパレルショップを出る私達に生暖かい視線が向けられていたのは、今更言うまでもない。
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