融解する紅月 | ナノ



その日の柳はすこぶる機嫌が悪かった。悪かったからといって誰かに悟らせるほど、柳は隙のある男ではないのだが。そのため柳の機嫌が良くないことをしっているのは柳自身、それ以外で言えば付き合いが長く感情の起伏に敏感な幸村が違和感程度に感じている可能性があるくらいだろう。同じく立海三強として長い時間を共有してきた真田はおそらく持ち前の感性の違いから気付く気配すらなく、やたらと柳に懐いている赤也もまだ他に比べ精神的に幼いため顔色を窺うことすらしないのだろう。

「何が不満なんだい」

耳が痛い。実際に不満を撒き散らしているらしい自分自身が情けない。だが、柳が不満を抱いていると確信を持ってなどいないはずなのにこうして直球で尋ねてくる我らが立海大男子テニス部長、幸村精市にも些か問題はあるような気もする。

「すまない」
「俺は謝ってほしいなんて言ってないよ」

容赦のない一突き。まだ病から復帰して間もない彼だが、その分目指すものに対しては眩しいほどに一直線だ。自分が僅かといえどその妨げになっているのならば、彼を苛立たせても仕方がない。幸村は柳よりも低い目線から、しかし絶対的な威圧感を纏わせて柳を視線で射抜く。何が不満なの、と、同じ質問をされ柳は意思とは反して黙り込んでしまう。その反応が更に彼の機嫌を損ねることくらい、考えるまでもなく分かることだというのに。しかし珍しく、本当に稀な柳の反応に、幸村もただならぬことだと感じたのか幾分か雰囲気を和らげ、代わりに小さく息を零した。二人きりの部室に、嫌というほどくっきり浮かび上がるそれ。

「何が原因だ」
「…」
「赤也の補習回避のための試験勉強のせいで練習時間が減ったこと?」
「…」
「仁王の誠意が相変わらず見られないこと?」
「…」
「それとも、病み上がりの俺なんかが部を仕切っていることか?」
「それは違うッ」
思わず出た声は自分に似合わず、妙に上擦った余裕のないものだった。立ち上がりかけるほど動揺する柳の珍しい姿にさえ、やはり怒りを抱いているらしい幸村は微動だにしなかった。ただ、その力強い視線はまるで捕食対象を見据える鮫のようだった。けれど、柳の希少な様子にただごとではないと感じたのだろう。幸村は短く息を吐いて、目の前の安っぽいデスクに頬杖をついた。怒りと呆れを同時に感じさせる仕草と表情。柳は自分が情けなくて仕方がなかった。

「すまない…部に悪影響をきたす程に俺は平静ではなかった」
「自覚があるだけ万倍ましだけどね。別に話さなくても良いんだ。ただ、おまえがうちの部にとってどういう存在かを考えると、たとえ病み上がり部長であろうと改善しなきゃならない」

目的を思い出せ、と暗に言われているのは明白だった。幸村は目標のためならば己に鞭を打ち感情を殺すほどの男ではあるが、時折こうして詰めの甘さを見せる。チームメイトを信頼しているが故のそれが、上手い具合に飴と鞭として機能していることも本人は気づいている。
話さなくても良い、と幸村は言った。柳の名誉を考えると有り難くそれに越したことはないように思える。しかし、ここで慈悲深く与えられた黙認を駆使したところで、現在の状況を打破できる自信が柳にはなかった。本当に情けない話だ。

「聞いてもらえないだろうか」

柳は名誉より、己の悩みの改善に尽くすほかなかった。

あまり時間をかけず、全て話した。帰宅する際に通り過ぎる屋敷に住む少女と友人になったこと。少女の名は砂向みつき。歳は柳たちと同じ。小柄でいて、病弱なため細い身体。外に出れない彼女のための洋服とあの水槽。
柳が彼女に読ませるために貸していた本の数々。家政婦づてに、もう本を持ってくるのは止めてほしいと言われたこと。

「どうせ外へ出られない身体のお嬢様に、これ以上夢を魅させないでください」

彼女はみつきの見ていない隙を狙って柳にそう言った。柳はその無慈悲な言葉に怒ることも、嘆くこともできなかった。彼女は、心からそう願っていたのだ。俯き影のさした表情はまるで泣いているかのようだった。
みつきが将来を約束されていない身体だということを、柳はその時初めて知ったのだ。何か慢性的な病を抱えていることはそれとなく耳にはしていたが、本人の明るい口調と性格にすっかり絆されていた柳は、金持ちの親の必要以上な保護精神に守られているだけなのだろうと高を括っていた。

少女の望むものを完璧に取り揃えた家。そこから出させないために唯一与えられなかった、外へ行く手段。あの家はまるで物語に出てくる眠り姫を守る茨の城のようだ。内から出ることも、外の人間が踏み入ることも許さない。
あの家からすれば自分は、王女を守る魔法を解きにした魔女同然だ。

みつきは柳と出会ってからというもの、度々「あそこに行ってみたい」と零すことがあった。柳の返答はその都度違っていたが、一番最近に覚えがあるのは「いずれ連れて行ってやろう」という答えだった。みつきは幼い子供のように表情を綻ばせて笑っていた。

なんて無責任で、非情な男なのだろうか、自分は。
柳は後悔した。みつきの病は自宅で安静にして、高い治療費を払ったところで簡単に治るものではないと知ってしまった。
生より遥かに死に近い存在だということを。

それを聞いてから、柳はあの美しい水槽が、深い深い海の底の暗闇のようにしか見えなくなってしまった。暗闇に沈んでいく清らかな少女の顔が、脳裏に浮かぶようになった。

「―……わからないんだ。もう会わないべきだということは明らかだというのに。互いに苦しむ日は必ず来る。だが俺は、既に彼女に多くの夢を魅せてしまった。彼女は出会った頃より格段に外に出ることを望むようになってしまった。このまま手を引けば、彼女を見捨てることになる。一度踏み入ったというのにみすみす知らぬ顔をするなど、俺にはっ」
「―…面倒くさい男だな」

端正な顔から至極面倒くさそうな声が飛び出し、柳の言葉を遮ってそのままぐさりと胸を刺した。「これだから文系男子は」という言葉が、何度目かのため息と共に追い討ちをかける。単純に文系男子、という大ざっぱ極まりないカテゴリに分類してほしい話の内容ではないが、それを言えば状況が更に悪化するのは明白だったため柳は黙りこくるしかなかった。

「頭が良いくせに不器用な奴だなおまえは。夢とか何とか、言ってて恥ずかしくないの、ポエマーにでもなりたいの?」
「い、いや」
「会いたいのはおまえの方なんだろ?頑張って理由付けしてるだけじゃないか」
「…………」

その通りだ。何とかそれらしい理由で繕って、同意をもらって、勝手に背中を押された気になりたかった。

柳とて、どんなに大人ぶった振る舞いができたところで、まだ義務教育すらも終えていない無力な子供に過ぎないのだ。そんな小さな器に、人の命はあまりにも、重すぎる。
今目の前にいる幸村も、昨年の秋に病に倒れ、苦しくて長い闘病生活を送っていた。柳はその時、今のような気持ちにはならなかった。同じテニス部員たちが、少しずつ不安や悲しみを分け合っていたからだろう。
柳蓮ニが実はどうしようもない臆病者だと、何人が知っているだろう。
最良の選択を導くのは、自分が傷付かないために他ならない。
落ち着いた物腰は、動揺し選択を誤らないようにするため。
柳は自ら最良の「柳蓮ニ」を作り上げることで、ずっと臆病な自分を隠していた。

出会ったことで世界が広がったのは、なにも砂向みつきだけではない。
それまでの柳なら、的確な理由付けをして彼女のもとから離れていただろう。それが互いのためになると言い聞かせて。

「すっきりしたかい?」

聞くまでもない。幸村は呑気に机に頬杖をつきながら、部内では見せない年相応のにやにやした笑顔で柳を見つめている。まるで、柳が縋るように鞄に忍ばせている例の長編小説の四巻の存在に気付いているかのようだ。

その日の帰りは普段よりも比較的早かった。あの幸村が気を利かせて練習を切り上げる、なんて真似をするはずがない。定期的に入る業者によるコートの点検と整備を、大会が近いがために夜からに変更してもらったのだ。本来なら丸一日コートが使えなくなるところを全国大会のために特例として免除してもらっている。その交渉に渡ったのが、何を隠そうこの柳蓮二である限り、決して不可能なことではなかった。無駄に殺気立っている後輩の切原は、自分の忠告を受けしっかりと帰宅しただろうか。いくら言っても隠れて練習を続けていそうなものだから、些か心配なところもある。だが、柳は彼を気にかけるより先に部室を後にした。その理由を知っているのは、部長の幸村のみだ。

「蓮二っ」

もうすっかり身に染み込んだ声。その少女はいつも、玄関の扉を開け、柳まで手の届く距離になるのを今か今かと待ち構えている。まるで小さな子犬のような行動に、柳はいつも人知れず心を和ませているのだ。
だが、その日はいつもと、明らかに違っていた。子犬のリードを付け忘れてしまったのだろうか。みつきはいつも待っている境界線を何なく踏み越えて、柳の方へ駆け出してきた。
彼女は半分抱き着くように柳の両腕をがっしりと掴んだ。戸惑う柳を余所に、みつきは普段より数段活き活きとした表情で笑っている。みつき、と彼女の名前が自然と口から出た時、自分より低い位置にいる彼女の、その足元が普段と明らかに異なっていることに気付いた。
家から出ることのない彼女の足先を守るものはない。事実、出会った時も彼女は素足のまま家から飛び出してきたのだ。それが当たり前だったし、柳もそれに慣れ切っていた。そんな彼女が、可愛らしい、小さなリボンをあしらった白いパンプスを穿いていたのだ。それに合わせているフリルのワンピースは、とても部屋着にしておくには勿体無い彼女のお気に入りだった。
何もかもが普通と違う。これは夢なのかと、柄にもなくそんな思考に至ってしまうほどに。みつきは不自然なくらいに、自然な笑みを浮かべて柳を見上げている。

「蓮二、あそぼう!」

柳の右手を、小さな手のひらが力一杯に握る。柳からすれば痛くもないそれは、彼女の精一杯なのだろう。柳は戸惑いを隠せないまま、みつきの頭に空いた左手を置いた。

「ああ、そうだな。だがみつき。外に出てはいけないな」
「いけなくないの。今日はね、外に出て良い日なのよ」

まるで飼い主に擦り寄る猫のように、彼女は柳の腕に絡み付いて鳴いた。外出が許される日など、彼女にあっただろうか。けれど彼女はしきりに、外で遊ぼうと柳に訴えてくる。笑顔なのに、どこか苦しいくらいな必死さを見せているみつき。疑問に思わなかったわけではない。けれどここ一ヶ月程ですっかり彼女の無垢な笑顔に絆されてしまった柳にとって、彼女の願いを無碍にすることは非常に難しいことだ。

「分かったよ、みつき。だが、宮沢さんの了承を得なければいけないな」
「大丈夫よ、私、いってらっしゃいって言われたもの」

腕を掴む力が少し緩んで、またぎゅうと強まった。柳を見上げながら、夕日の柔らかな光でさえも眩しいのか、ぱちぱちと二度、瞬きをした。

「…ならば、問題ないな。行こうか」
「…うんっ」

自然とみつきの手を取って、そっと引いた。心底安心したように彼女は一つ息をついた。
みつきの言うことが嘘だというのはその仕草から明白だった。規則を重んじる柳がその嘘に目を瞑ったのは、単に柳自身も、みつきと外を歩くということに気持ちを昂らせていたから。特別な理由や思惑などそこには存在しなかった。怒られるなら後で自分が怒られれば良い、などと、幼稚じみたことまで思ってしまった。
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