融解する紅月 | ナノ



ぽつぽつ、窓に当たる雨音だけが部屋に満ちていた。六月に入り、雨予報も増えた。今回は二日続きの雨で、練習もほぼ筋力維持のメニューのみのため力が有り余っているのが分かる。柳は小さく息をついて、きっかり二時間握りっぱなしだったペンを静かに机に置いた。学校で出された課題は始めて三十分もしないうちに片付いたが、それからは柳個人の課題としてテニス部や他校に関わるデータを愛用のノートに纏めていたのだ。ふと、昼間は煩いほどだった雨音が徐々に落ち着いてきていることに気付いた。明日の晴れ予報はどうやら信用して良さそうだ。机の横に置かれた紙袋に視線を落とし、柳は小さく笑った。
明日持って行くと約束した本は三冊。五日前に貸した二冊はもう読み終わってしまった、と聞いたのは一昨日のことだ。

砂向みつきは、本人の言動の幼さに似合わず賢い子だった。柳の愛読書を難なく読み、感想まで聞かせてくる。屋敷の中の生活が長かったために、本を読む機会が多かったのだという。だが、みつきの部屋に本棚はなく、その多くは海外に出ている両親の所有物のため、暇つぶしにはなるもののあまり彼女の好みではなかったらしい。せっかく本を読む習慣があるのにそれでは可哀想だ、そう感じた柳はそれを聞かされた翌日に、中学生でも読みやすいであろう二冊の推理小説を彼女の屋敷まで届けたことが、彼女が最近本の虫と化している原因だ。

みつきと出会って、一カ月が過ぎた。突然家に招かれたあの日以来、柳は定期的に彼女の元へ通うようになった。「またいつでも来てね」と本人に言われたからなのだが、そう言われなくても柳から「また来ても良いだろうか」と尋ねていたような気もする。彼女の何に惹かれたのか柳自身も分かりかねたが、みつきと話すのは苦ではない。むしろ、同年代でありながらああもゆっくり話していられる場というのは、中学生の柳にとっては貴重なものだ。みつきは柳が話すことは何でも興味を持って聞くし、彼女から聞かされる話といえば殆どは屋敷の水槽に飼われている魚たちのことだが、柳も知らない話が時折飛び出してくるのは純粋に楽しいものだ。彼女は最近専ら推理小説の虜らしいが、柳は柳で彼女の影響から魚に多少興味を持ち始めた。中学最後の大会を控えているため気を抜きすぎるわけにはいかないが、最近の憩いの場といえばあの水槽張りの屋敷なのだ。友人になったきっかりは何とも不可思議なものだが、柳もみつきも今の関係に満足していた。

翌日、予報通り快晴になった空の下、紙袋をぶら下げた柳がみつきの屋敷を訪れたのは、テニス部の練習が終わりもう辺りが暗がりに変わった頃だった。みつきの家は夕飯が早い。もう食事を済ませ就寝の準備もしているであろう時間に訪ねるのは、最初こそ気が引けたものだが、約束をした日に行かなければ彼女の機嫌を大層損ねてしまうことは既に柳の脳内のデータに記されていたため、それからは多少時間が遅くても訪ねるようにしている。

「蓮ニっ」
「こんばんは、みつき。それ以上は来たらいけないぞ」

まるで主人の帰りを待ちわびた飼い犬のごとく。みつきは部屋の窓から柳の姿を見つけるといつも走って出迎えに現れる。初めて会った時のように足を汚してばかりでは家政婦に申し訳ないため、柳は飼い犬に待てをするように優しく玄関に居るよう言い聞かせるのだ。あまり音を立てないよう門を閉め、玄関の扉を開けたままそわそわとしているみつきに微笑みかけながら歩み寄る。みつきは子供らしい振る舞いが多いが、しっかり言い聞かせればその通りにする。良くも悪くも素直な子なのだろう。


「出迎え、すまないな」
「ううん、来てくれてありがとう。上がって?」
「いや、もう遅いからな。今日は遠慮しておこう」
「んー、そっか…明日も朝練だもんね」
「ああ」


寂しそうに眉を下げるものの、決して無理強いはしない。走ってまで出迎えに来るほどなのに、物わかりだけはおかしいくらいに潔いのだ。柳は左手に提げた紙袋をみつきに差し出し、みつきはすぐにそれの中身に気付き瞳を輝かせた。


「わぁ、ありがとう!楽しみにしてたの!」
「ああ、みつきは本を読むのが早いからな。今回は長編小説を選んでみたよ。俺のいち押しでもあるのだが、なかなか貸せるような知人がいなくてな」
「蓮ニのおすすめなら間違いないね。楽しみ」


歳のわりに大人しい笑い方。きっとそれ以外の笑顔の種類を知らないのだろう。柳は今までその笑顔しか見たことがなかった。雰囲気や声のトーンから多少の差はあるものの、表情そのものは変わらない。笑い方を知らない。それを知るには、彼女は子供としての経験が薄すぎるのだ。初めて会ってから数日後に年齢を聞けば、本来なら柳と同じ学年に通っている歳だった。そんな子供が、年頃の遊び方の一つも知らないのは、あまりに可哀想だと思った。しかし、病弱だという彼女を引っ張って外に連れ出すことなど出来るはずもなく、柳はこうして色々な種類の本を彼女に与えるしかできない。少しでもみつきの世界が広がれば、その一心だった。

砂向邸を後にして、柳は荷物が減って軽くなった身体と頭で空を仰いだ。都会の明るみに負けそうな、微かな光の粒が数滴。きっとみつきの部屋からはそれさえも辛うじてしか見ることができないのだろう。海はおろか水族館にも行ったことのない彼女は、おそらくこの神奈川県にもある星を見上げられる地など知りもしないのだろう。あの家で知る機会を与えられるとは思えない。

これまでみつきが読んできた本を一通り見せてもらったことがある。小学生の計算ドリルから、経済学や純文学。子供が好む漫画のようなものは一切置かれていなかった。学校に通えない差を埋めるための勉学というには、少しばかり考えにくい比率だった。
故意的に遠ざけられているのだ。おそらくは、夢を見ないように。おとぎ話を読んで憧れたところで、物語の王子が現れるはずもなく、彼女は家から出ることはできない。どこかで美しい夜空の写真を見てしまえば、それを求めてしまうかもしれない。
あの屋敷はすべてにおいて、みつきを守るために存在しているようだった。外に行かないでも大好きな魚が見れるように、部屋に水槽を置いた。外へ買い物に行きたくならないように、誰に見られるわけでもないみつきの服はどれも流行りに伴ったものばかりだった。

彼女は守られている。彼女を取り巻くすべてのものに。

そして柳は思ったのだ。その狭い世界を壊してみたいと。まるで生まれたての雛鳥のように柳の言うことを嬉々として聞き入れるみつきに、もっと自分の感じてきたものを知ってもらいたい。
新しいものを知って輝くその瞳が見たい。もっと、もっと自分に近い誰かになってほしい。
欲望と呼ぶに相応しいその感情に、柳自身気づいてはいた。しかし、改める理由はない。
夢を持つことの何が悪い。子供は夢を見ながら育つものだ。自分は彼女の両親でさえも知らない彼女を育て、見守ることが出来る。

到底恋などと呼べるものではなかった。支配したいという欲の元に、初めて成り立つ自分と少女の関係。
どんな計算式より面白い。何故なら彼女はまだ真っ白のままだから。そこに自分は好きな文字を書き込み、自分で新たな彼女を生み出し完成させることができる。

無垢なものほどおぞましく愛しいものはない。
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -