融解する紅月 | ナノ



その家の主の姓が砂向だということは、門前に掲げられた表札を読んで知っていた。その砂向邸の敷地に初めて踏み入った瞬間だった。
先程彼女が開けた扉に、今度は柳が手をかけた。彼女の時は重そうな印象だったそれは、柳の力ではむしろ見た目のわりに軽いくらいに感じた。そのため少し勢いをつけて開けてしまった扉の中に、ありがとうと小さく礼を述べた少女が入る。柳もそれに続いて、振り返って丁寧に扉を閉めた。錠をかけるべきか、と問おうとした矢先、廊下にぱたぱたという足音が響く。

「みつきお嬢様!外に出られたのですか!?」

現れたのは、推定で三十後半か四十代ほどの比較的ふくよかな女性だった。動きやすそうなTシャツとジーンズの組み合わせに、長い白のエプロンを着用している彼女は、緑色のスリッパを鳴らして少女に駆け寄ると目の前に膝をついて座った。

「お外に出てはなりませんと、お父様のお言いつけでしたでしょうに」
「友達が、外にいたの。だから」
「お友達?でも、ああ、もう、足も汚れてしまっているではありませんか」
「なら、靴を用意して?足が汚れないように」
「なりませんよ、お嬢様」

優しくたしなめるような声色には、それに似合わないはっきりとした拒絶の意が含まれていた。それに彼女は肩を落とすでもなく、まるで結果が分かりきっていたかのように自然に振る舞う。彼女、おそらく家政婦であろう女性にみつきと呼ばれた少女は、玄関から先に上がることを許されずそのまま立ち止まるように言いつけられた。先に柳を客室に、と案内しようとする家政婦にみつきは「私の部屋に案内して」と告げる。その言葉に今までにないほどの嫌悪感を出したのを感じ取った柳はすかさず客室で構わないと言うが、未だ裸足のまま玄関に立ちとどまる少女は頑なに自室に、と言う。家政婦の女性は短いため息と共に、「お嬢様のお部屋へご案内します」と淡々と告げて歩き出す。柳も彼女の後についたが、みつきをそのまま残していくことに些か罪悪感が生まれた。
しかし、そんなことは次の瞬間にはもう一切気にならなくなる。廊下を一つ曲がって、柳は目の前に広がった光景に思わず息を呑んだ。

締め切られた遮光カーテン。一帯がブラックライトで照らされた廊下。その両端に、隙間なく連なった水槽の数々。そこには色とりどりの熱帯魚たちが、自由気ままに泳ぎ回っている。一般家庭には到底置けないであろう大きさの水槽には、柳でも見たことがある程度の魚の姿もあった。階段の手前に置かれた筒状の水槽には常に水流が操作されているのか、カラフルな丸いフォルムのくらげ(おそらくはブルージェリーフィッシュという種だろう)が水の流れに揺られている。
レイアウト、と呼ぶには少々手の込みすぎたその光景は、どちらかといえば水族館のようでもあった。

「これは…」

思わず声に出してしまった柳に、家政婦の女性は「ああ」と呟いて足を止めた。

「お嬢様のお言いつけで、お嬢様のお部屋から玄関まではこのような作りになっているのです。驚かれましたでしょう?」
「いえ…はい、そうですね。ここまで完備されている家庭は、あまりないでしょうから」
「ええ。お嬢様は魚を見るのが小さな頃から大好きで」

先ほどより角のない言葉で、家政婦は壁一面の水槽の説明をする。しかし、いくら好きとは言ってもこんなにも本格的な設備は滅多にないだろう。屋敷の外装からでは分からなかった締め切られたカーテンの謎が漸く解けた。水槽に興味を示した柳を思ってか、家政婦は廊下を進む足を少し緩めた。水槽の魚を見ながら歩く感覚はまさしく水族館のようだったが、そこにいる魚は水族館の熱帯魚コーナーのように美しい色や模様の魚ばかりを飼っているわけではなかった。水族館というよりは、おかしな感覚だがまるで海の中を歩いているような気分になる。さすがに階段まで水槽張り、ということはなかったが、家政婦に連れられた二階のみつきの部屋の隣の壁には、壁をくり抜いて直径三十センチほどの丸い水槽が張ってあった。そこにふわふわと浮く赤い斑点のような何か。柳は僅かながらそれに見覚えがあった。この知識量も、至る所で役に立つものだ。

「ベニクラゲの水槽だけは、別に管理しているのですね」
「ええ、もう何年も前に、何故だかここはベニクラゲでないと嫌だ、と仰いまして。それからはずっと」
「…失礼ですが、家政婦さんで宜しいですか?」
「はい。みつきお嬢様のお世話をさせていただいている、宮沢と申します」


軽く頭を下げ会釈をする宮沢に、柳も落ち着いた動作で同じようにする。ふと、自分も名乗るべきだと考えて、思いとどまった。まだ柳は、みつきにすら自分の名前を伝えていなかった。家に招いた張本人より先に、家政婦に自己紹介をしていいものかと思ったのだ。しかし、このまま相手に名乗らせたままでは失礼になると考え直し、短く「柳といいます」と姓だけを名乗った。些細なことだが違和感のある挨拶に柳は少し身構えたが、宮沢からは特に気にした様子は窺えなかった。

「お嬢様がお友達をお家へ招くなんて初めてです。ですがすみません、きっと親しい仲ではないのでしょう?」
「…何故そう思うのですか?」
「お嬢様は、学校に通われていませんから」

先ほど、玄関口での彼女たちの会話から何となくは察していたが、やはりその通りだった。初め、みつきは靴も履かず慌てて出てきたのだと柳は思った。しかし、宮沢に見つかった彼女は「靴を用意して」と言っていた。それはつまり、裏を返せば彼女は自分の靴を持っていないということになる。おそらく彼女は柳と同年代だろう。年頃の彼女が外に出ない理由は、おそらく何らかの「出れない理由」があるからと見て間違いない。しかし、これ以上勘ぐれば彼女の家庭内の事情に入り込んでしまうことになる。深くは追求しなかった柳に、宮沢は「お嬢様もすぐにこちらにいらっしゃいますので、どうぞ中でおくつろぎください」と微笑み、軽い会釈をして踵を返した。彼女はみつきを煩わしく思っているような素振りは見せなかったが、どうも心を許した仲のようには見えない。柳は宮沢の背中を見送り、そっと指定された部屋の扉を開けた。その中は今見てきた廊下とは一変した、とてもシンプルな部屋だった。小さな洋服箪笥に、本棚と、丸いテーブルと二人分のチェア。部屋の角、窓際のベッド。いかにもこの屋敷の令嬢らしい、品を感じさせる内装だ。宮沢にくつろいで、と言われた以上、その場に立ち尽くしているわけにもいかず、柳はチェアの一つにゆっくり腰掛けた。部屋を隅から隅まで見渡して、ふと一つの違和感を覚える。綺麗すぎるのだ。家政婦を雇うくらいなのだから、おそらくは彼女が常に部屋を綺麗に保っているのだろう。しかし、柳が綺麗すぎる、と感じた理由はそれだけではない。生活感を感じないのだ。強いて言えば、ベッドの上だけは先ほど慌てて出てきたみつき自身がひっくり返したのか、掛け布団が乱れ一冊の本が開いたまま伏せられていた。しかし、それ以外はまるでカタログ雑誌に載っている写真のように、使われた形跡のない家具ばかり。テーブルには傷どころか埃一つなく、洋服箪笥に至っては年頃の少女の所有物にしては小さすぎるくらいで、この広い部屋には不釣り合いとさえ感じた。あまり他人の部屋を見て回るのは良くないが、どうしても気になってしまうことばかりだ。あまり親しくもない仲、物色するような真似はしたくない。柳がおとなしく待つこと約10分、漸く現れた部屋の主は足を洗うばかりかあの白いワンピースから淡い色合いの花柄のチュニックに着替えていた。一見、可愛らしい服装だがこれもやはり使い込んだふうではなく、外出用の服ではないのだろうと悟る。部屋の中で柳の姿を見た彼女は、ふうわりと柔らかな笑顔を見せ、軽い足取りで柳とテーブルを挟んだ向かいにあるチェアに腰を下ろした。

「こんにちは。いらっしゃい」

まるで覚えたての言葉を喋るみたいに、彼女は話す。拙い、というよりか、言葉自体を使い慣れていないようだった。
何故、自分を屋敷へ招き入れたのか。聞くのは簡単だったが、何故かそれは言葉にはならなかった。

「随分、インテリアにこだわりを持っているみたいだな」

代わりに出てきたのは、自身の疑問とはまるで違った話題だった。彼女はすぐに、それが廊下の水槽のことだと気付いたのか、両手でテーブルに頬杖をついてにこりと笑ってみせた。屈託のない笑顔、とはこういうものを言うのだろう。と、柳は彼女の幼げな表情を見ながら思った。

「素敵でしょ?私の友達なの」
「ああ。家庭でここまでの設備は、あまりないだろう」
「うん。お父様にお願いして作ってもらったの。本当はお部屋が良かったんだけど、お世話が大変だからって廊下に」
「そうなのか。まるで水族館のようだな、見ていて飽きないよ」

事実、玄関から彼女の部屋までの道のりは本当に水族館のようだった。おそらく彼女もそれを意識していてのことだろうし、そう言っても間違いないと思ったから口にした。しかし、実際は違っていた。彼女は柳の言葉を聞いて、ぱちぱちと瞬きを繰り返したのち、困ったように眉を下げて笑った。観察力に長けた柳は彼女の様子をすぐに察し、何か気に障ることでも言ってしまったのか内心に僅かな焦りを生み出す。彼女に怒るような素振りは窺えないが、決して喜んでいるようにも見えなかった。

「私、水族館って行ったことがないの。本やテレビで見た海みたいにしたくて…海みたいって言ってくれたら、嬉しいな」

正直、それは予想していなかった。こんなに魚が好きならば、当然水族館にくらい行っていると思っていた。だが、確かに良く考えてみれば彼女は自分の靴を持っていないと言っていた。そんな少女が、自分の意思で水族館に行けるとは、些か考えにくい。更に言えば、彼女は海を本やテレビで見た、と言った。水族館にさえ行けないのだから、実際の海にも、おそらくは。

「…すまなかったな。確かに、海のようにも見えるよ。まるで海の中を歩いているみたいだった」
「本当?良かったぁ。ありがとう」

くるくると、まるで万華鏡のように表情の色を変える少女だ。見ていて、どこか安心する。
柳がつられて笑みを零していると、不意に彼女は「あ」と呟いてばつの悪そうな顔に変わる。どうかしたのだろうか、と柳が様子を窺っていると、少女は控えめに視線を寄越してくる。どこか困っているような素振りで、まるで悪いことをした子供のような仕草に柳はくすりと笑って見せた。

「柳、蓮二だ」
「…蓮二?」
「ああ」
「…私、砂向みつき」

ほんのりと頬を色づかせながら、差し伸べられた手のひらをそっと取る。
まるで初めて水面から顔出した魚のように、ふらふらゆらゆらと覚束なく、あどけない。それでも、破顔した彼女はとても嬉しそうで。柳とみつきは、家政婦の宮沢が茶菓子を運んで来るまでずっと互いの手に握っていた。
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