融解する紅月 | ナノ



まるで海みたいだ。
その一言に、彼女は笑った。ふうわりと、表情がほころんだ。しかし、それはこの目には、まるで弧を描き欠けた月が波間で揺れるような、そんな頼りない印象として映った。おかしな話だ。夜の海なんて、一度も見たことなどないのに。
波に浚われて溶けてしまう。この柳蓮ニにとって、その少女はそれほどまでに尊い存在だった。


融解する紅月

形のないそれに、恋をした。





中学三年に進級したばかりの頃、柳には何より優先すべきことがあった。自分が所属している立海大附属中テニス部で、三度目の全国制覇を果たすための練習、そして情報だ。運動部に所属している者ならば誰しも、希望と焦りを抱いて奮闘する時期だろう。もう淡い色を散らせた桜の木には、青々とした葉がじきに顔を出す頃だ。昨晩降った雨のせいで湿った空気は、その成長を促すことだろう。そんな季節の変わり目を肌で感じることもなく、忙しないという表現が一番合っているであろう自分、柳蓮ニはその日も遅くまでの練習を終えて一人帰路を進んでいた。勉学、部活、進学。最高学年になれば当然ぶつかってくるであろうそれらの壁は、柳の予想と寸分の狂いもなく、大変なものだった。中学校に入学した当初から学年首位の成績をキープし続けた柳にとっては、何の支障もなく学生生活を送ることなど何の問題もないのだが、自分でも他人からも求められるレベルはそんなものではない。立海テニス部を全国三連覇に。主席を守ったまま三年間を過ごす。勘違いされがちだが、柳は別に万能人間ではない。確かに一般的な中学生より勉学や他人の動向に興味があったり、スポーツのセンスもそれなりに長けている自覚はある。ただし、それも磨いてからこそ。潜在的能力にかこつけて手を抜くようでは、今の柳蓮ニは有り得ないのだ。
そんな柳にも、長年の疑問というものはそれなりにあるものだ。それはもちろん、人の魂はどこから来てどこへ行くのか、なんて非科学的かつ夢見がちな子供はたまた博識な学者のような逸脱したものは含まれない。例を上げるというのなら、そう、たとえば、今ちょうど通っている道に聳える洋風の屋敷、だとか。
柳は小学生の頃に一度だけ父親の転勤というものを経験しており、今は神奈川に住んでいるが幼い頃は都内の学校に通っていたのだ。神奈川に越してきてもう二年以上になるが、その頃から変わらず、柳の通学路の途中には一軒、周りの雰囲気とあまりにも場違いな屋敷が建っていた。毎日この道を通っているものの、人が出入りしているところは見たことがない。窓のカーテンはいつも締め切られているが、庭の手入れが良く行き届いているのが窺えるため、少なくとも誰かが暮らしているということだけはかろうじて分かる程度だ。氷帝学園の跡部の家には遠く及ばないが、それは比べる対象としては明らかに間違っているだろう。一般的に見れば、小説の物語の舞台にでもなっていそうな綺麗な屋敷だ。
一体誰が住んでいるのだろう。不意にそんな疑問を抱いたのは、中学生になった頃だった。それから二年、毎日通る道にあるこの屋敷を眺めることが多かったが、先ほど述べたように人影は一度も見たためしがない。単なる興味本位で、別にどうしても知りたいというような疑問ではない。このまま真実が分からなくてもさして困りはしないし、偶然人の姿を見かけても「やはり人が住んでいた」という事実が確立されるだけで柳自身の生活には一切の影響も出ないのだから。

今日も今日とて、半分習慣になってしまったほんの数秒の屋敷観察。綺麗に雑草が処理された庭にはまだ背の低い桜の木。洋風な外装は白を基調とした造りで、締め切られた窓のカーテンは淡い水色。勝手に頭が覚えてしまった情報だ。当たり前のように眺めて、今日も変わらず過ぎ行く。可能性はゼロではないのに、何故自分がそう思っていたのか柳は理解していなかった。

見覚えのある水色が揺らぐ。屋敷の二階の窓の一つが、開け放たれている。思わず柳はその場で足を止め、眼前の光景に言葉を失った。

人がいた。開け放たれた二階の窓から、長い黒髪を靡かせた少女がこちらを見ていたのだ。向かいの木の枝に引っかかりそうなくらい長い髪と、白い肌にくっきりと映える大きな瞳。まるで怪談話で聞く呪われた日本人形のようだと思った。彼女は一度、視線のあった柳に微笑むと、すぐ誰かに呼ばれたのか慌てたように振り返って後ろ手に窓とカーテンを締め切ってしまった。
それまでの自分ならば、誰かが住んでいたという事実だけを記憶にとめて、その情報以上の感情など抱かないと思っていたはずだ。それなのに、実際ほんの数秒間だけ視線の交わった少女が、その屋敷の外装に映える漆黒の髪が、記憶に張り付いて消えなくなってしまったのだ。

翌日になって、柳はひとまず自分の気持ちを落ち着かせることはできた。週末のため学校は休みだが、相変わらず朝からの部活のため柳の生活サイクルは平日と何ら変わりない。ただ、週明けから定期試験があることもあり、その日の活動は昼過ぎまでで切り上げられた。通常ならば試験期間中の部活動は一時的に停止されるのだが、常勝といわれるテニス部にはそのような規則に縛られる理由はない。成績自体に支障が及ばなければ部活動は許可されている。そのため、毎回後輩の切原の要領の悪さがために自分たちが臨時家庭教師として派遣されるのだが。

その日、柳は人知れず感じていたものがある。予感、というにもあまりに漠然としたものだったけれど。データに基づき、計算から結果を見いだす自分にしてはずいぶんと頼りない感情だ。
また、会うような気がしたのだ。昨日の少女に。だから、その日はいつもより早く着替えて、けれど怪しまれないよう平静を装って部室を後にしたのだ。普段よりも早い足取りで、いつもならば二十分はかかる路地に十五分とかからず差し掛かった。名前も知らない。顔を見たのも一瞬のことで、黒く長い髪以外はほとんど印象に残っていないくらいなのに。

だから、自分らしくもない頼りない予想より、そんなものが正しいと照明されてしまった現実に、柳は酷く動揺するほかなかったのだ。
長い、長い黒髪。カーテンの隙間から風に靡くそれは、庭の桜に届きそうなほど伸びて揺らいでいた。
彼女は空を眺めていた視線を落とすと、門前で立ち尽くしている柳を視界の端に捉えたようで、一つ、瞬きをした。大きな黒目に自分が映るのが分かった。明らかに、柳を見て驚いたような表情。

「ちょっと待っててっ」

一瞬、それが誰の声なのかを疑った。けれど、視界に映った彼女の唇の動きとすぐに姿が見えなくなってしまったことで、それがその少女の発した言葉だと悟る。柳は待て、と言われたから大人しく言うことを聞くような性格ではない。だが、何故か自然とその場に留まろうと思ってしまった。少女に促されたからではない。仮に彼女が黙って窓際から姿を消したとしても、自分はそこに立ち尽くしたままだっただろう。
しばらく待って、ゆっくり開いた屋敷の扉に重苦しい印象を抱いた。中から顔を覗かせたのは、やはり窓際のあの少女だった。昨日見た時には、白い肌と長い艶やかな黒髪から日本人形のようだというイメージを抱いたが、姿を現した彼女は純白に限りなく近いワンピースを纏っており、その第一印象とは異なったものだった。考えてみれば、洋風の屋敷から着物を着た少女が出てくるはずもないのだが。
少女は重そうな扉をそっと閉めると、門のそばまで駆け寄ってきた。良く見れば、靴を履いていない。裸足で飛び出すほど、慌てるような用事が自分にあるとはとても思えず、柳は不審に思いながらも彼女が自分のところにたどり着くのを待った。

「ねえ、昨日の、ひと?」

彼女が柳に向けて発した、二度目の言葉だった。柳は一瞬返答に悩みつつも、素直に首を縦に振って肯定の意を表した。それを見るなり、少女の表情は花が咲いたように明るくなる。小さな細い手が屋敷の門を開けて、屋敷と外の境界線を隔てて立つ柳にふうわりと微笑んだ。

「うちに、上がっていって?」

一般常識から逸脱したその問い掛けに、柳は好奇心のみで了承した。普段なら、有り得ないことだというのに。
また会う気がした。そして会えた。その事実だけで、十分だった。
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