U・シンデレラヴィジョン | ナノ



中学生の時に、長期間テニスをやらない時期があった。病気に犯され、入院を余儀なくされた時のことだ。常勝立海と称されたテニス部は、全国大会三連覇という目標に向かい進んでいるというのに、毎朝自分が目覚めるのは閉ざされた白い部屋。くすぶる想いをぶつける場所もなく、先を行く仲間たちへの罪悪感や嫉妬心も確かにあった。その中で、心を腐らせず前を見ていられたのは、もう一度コートに立つという希望を抱いていたからこそだった。
だから、あの悪魔の囁きのような医師の言葉は、幸村にとってあまりに耐え難いものだったのだ。もう、テニスが出来ない。その一言が、夢追う少年にとっていかに重く絶望を与えるものだったか、彼は知りもしない。経験したことのない者に、この気持ちが理解できるはずもない。理解なんてされてたまるか。嘘であれと願うのに、その感情は自分だけのものだと頑なに他人の介入を拒絶した。誰にも触れてほしくない、もうあの場所に戻れないなら、あの日々に俺を縛り付けてくれ。ずっと、あの瞬間を生きていたい。真田も、柳も、柳生も赤也も丸井もジャッカルも仁王も、もう隣に並んで、同じ白いラインを見ていた彼らは、どこにも居ない。否、外れたのは俺の方だ。だから、真田を拒絶したんだ。外れ者の俺に向けられる視線が、何であれ許し難かった。

その翌日のことだ。きっとテニス部の連中はもう見舞いには来ないだろうと思っていた。俺ならあんな扱いを受けたら行かない。だから、夕方頃に部屋に響いた小さなノックの音は、看護士か家族かだと思った。その時は声を出すことさえ億劫で、返事をする気にもならなかった。けれど、普段なら返事なんてなくても勝手に入ってくる家族も、「幸村さん、入りますね」なんて言って扉を開ける看護士も、今日は次の行動を示さなかった。おかしい、とぼんやりしたままの頭で考えていると、今度は弱々しく、どこか戸惑っているような調子で二回、扉が叩かれる。どうやら返事が来るのを待っているようだが、相手の予想がつかない。一瞬、赤也か?とも思ったが、やはりそれも違う気がする。はっきりとしない扉の向こうの誰かに苛立つ感情を閉じ込めながら、投げやりに一度だけ短い返事をした。控えめに、扉が少し開く。
その隙間から現れた顔、ゆっくり流れる向日葵の色をしたの髪に、「え…?」と声が上がった。


「こんにちは、幸村君……寝てたかな?」


水竿芽夢。俺のクラスメイトで、ちょっとだけ、というかかなり気になっていた女の子だった。
クラスメイトとは言ってもほとんど話したこともなく、友達とも言えないような関係だった。何せ同じクラスになったのは三年で初めて、自分はテニス部で彼女はラクロス部。共に忙しい身の上であったため、ちゃんと会話したことさえなかった。彼女から自分の名前を聞くのも、初めてのような気がする。
気さくで、運動神経が良くて、だけど勉強は苦手。背中まで真っ直ぐ伸びた金髪に近いアッシュブラウンの髪にオレンジのバンダナをしたオールバックスタイルが特徴の、とにかく笑顔の割合が多い良く目立つ女の子だ。
扉の隙間から部屋を覗いていた彼女は、俺の姿を確認すると少し安心したように病室に踏み入って来た。気になっている子とは言っても、ここ最近は全く思い出すこともなかったのに。久しぶりに見る彼女は教室よりも近い場所に居て、戸惑いが隠せなかった。


「病室、探しちゃった。この病院広いね。あ、私のこと分かる?同じクラスなんだけど」
「…水竿さん、どうして」
「え、ああ。良く分からないんだけど、テニス部の人たちが来てね」


何食わぬ顔でそう言う彼女。その瞬間、意味の分からない混乱も、若干の高ぶりを感じていた気持ちも一気に冷めていくのが分かった。ああ、なんだ。そういうことか。一体誰の差し金なんだか。どうせ柳あたりだろう、あいつにはどういうわけか俺が彼女に抱いている気持ちがばれてしまっているようだし。全く事情も知らない彼女を、こうやって何も分からないまま巻き込んで、俺が喜ぶとでも思ったのだろうか。やり場のない怒りが、自虐心が頭の中をいっぱいに占めていく。


「柳に、俺を慰めてくれとでも言われた?」
「え?」
「テニス部の奴らに、見舞いに行ってほしいって言われたんだろ?」
「あ、うん、それは言われたけど…慰めてとは言われなかったなあ」


じゃあなんだよ、と言いそうになって留まる。あくまで彼女は無関係で、言い方は悪いが良いように使わされてしまっただけ。そんなことで理不尽な怒りをぶつけても迷惑にしかならない。彼女から飛び出す次の言葉なんて、もう聞きたくなかった。好きな子に久しぶりに会えたとかそんなことはどうでも良くなっていて、早く帰ってほしいくらいだ。彼女はおもむろに学生鞄を開けると、中から数枚の紙の束を取り出し差し出してきた。白いプリントの真ん中に大きく記された、中学テニス全国大会の文字。全国大会の案内だった。思わず、目を見張った。


「全国大会決まったんだね。おめでとう。今日テニス部の人が何人か来て、これ届けてほしいって頼まれたの。あの人…多分後輩かな?"本当は俺らで部長に届けたかったんスけど、練習とか備品の調達とか部活日誌とかすんげー忙しくって、本当なら他人に頼んだりしないんスけど今回だけお願いします!"なんて必死に言ってきて、ついOKしちゃった。もっと仲良い人なら良かったのに、私でごめんね」


赤也、か。それにしても良く喋るな、とぼんやり思う。普段から明るい元気な子だとは思っていたが、こんなにも一方的に喋るのはおそらく、俺が積極的に話さないからだろう。気さくな子は案外、沈黙に弱いものだから。差し出された用紙。これを受け取れば彼女も用事が済んで、この質素な病室から出れる。けれど、俺はそれに手を伸ばす気にはなれなかった。


「いらない」
「…なんで?」
「何でもいいから、そう言ってあいつらに返しておいてくれ」
「テニス、やらないの?」


やらないんじゃあない、できないんだ。純粋に不思議そうな顔をする彼女が、初めて憎たらしいと思った。大事そうにラクロスのスティックを肩にかけて、君は俺がここに閉じ込められている間も、思い切りラクロスをやっていたのだろう。だったら仲が良いわけでもない俺になんか構ってないで、ずっとやっていれば良いのに。今の俺には、何もない。君とは違う。


「帰ってくれないか」
「……」
「君には、分からない」
「分かるわけないよ、話してくれないんだから」


今までと違う、凛とした声。急に変わった彼女の雰囲気に顔を上げれば、眉を寄せて難しい顔をする顔があった。小さな手に掴まれた全国大会の用紙にはくしゃりと皺が寄っているのに、表情は怒っているようにも悲しんでいるようにも見えない。俺はその顔から、何も読み取れなかった。


「テニス、嫌いになっちゃったの?」


そんなはずないだろ。嫌いになれるなら、今こんな思いしてない。


「そんなことないよね。もしそうなら、そんな顔しないもんね」


ああそうだよ。俺が今どんな顔しているかなんて知らないけど。


「テニスも、ラクロスも…好きだから本気でやるんだよ」


そう、だったかな。全国大会を三連覇する。俺の頭には去年からずっと、そのことしかなかったけれど。でも、そうだな。確かにテニスを始めた頃は、新しいことを覚えるのが楽しくて、ひたすらラケットを振っていた気がする。立海のテニス部に入った頃も、毎日のハードな練習に息を切らしながらも楽しんでいたのかも知れない。強くならなきゃ。王者立海を担う者として。そう思うようになって、病気で入院してからは何を考えていた?純粋に好きだという気持ちだけで走り回っていた俺は、どこに行った?


「幸村君は、テニスが好き?」
「……ああ、好きだ」
「そっか」


嬉しそうに、彼女は笑った。まるで自分のことを喜ぶみたいに。窓が開いているわけでもないのに、身体が揺れるのに合わせて流れる髪に目を奪われる。もったいないな。もしカーテンが閉まっていなかったら、夕日の色が混じってとても綺麗だったろうに。ゆっくり、彼女の手から紙束を受け取る。大したことないのに、ずしりと重さが伝わってくるようだった。


「水竿さんは」
「うん?」
「ラクロスが好き?」


先ほどの彼女と同じように尋ねる。一呼吸置いたあと、彼女は肩にかけたスティックを強く握りしめて笑った。


「うん、大好き」


彼女の笑顔は、不思議と気持ちが安らぐ。久しぶりに、自然と笑みがこぼれた。好きだからやる、なんて子供みたいなことを言って、それをずっと大事にしている彼女を羨ましいと思った。
大好き、と言った彼女に、それが俺に向けた言葉だったら良いのに、なんて思って。俺の水竿芽夢に対するこの感情は紛れもなく恋なのだと、その時はっきり自覚した。

ふと、息苦しさに目を開ける。そこは先ほどまで居た白い部屋ではなく、見慣れた自分の部屋。ゆっくりと起き上がって、はっきりとしない視界を開くようにまばたきをする。気持ち悪い、と無意識にシャツの襟を掴んでぱたぱたと空気を送れば、自分が汗をかいていたと気付く。もういい加減に掛け布団からタオルケットに変えないと寝苦しくて仕方ない。ていうか、せっかく懐かしい夢を見ていたのに寝苦しさに目を覚ますなんて。まだ六時じゃあないか。まあ、シャワーを浴びれば丁度良いくらいの時間にはなりそうだが。


「あ、つー…」


昨日、うっかりカーテンを閉め忘れたせいで部屋全体が暖まっている気がする。朝日の眩しさが若干煩わしい。ベッドから起き上がって、携帯を開く。新着メールなし、着信なし。閉じる。置く。寝る。…じゃなかった、シャワー浴びないと。今日提出のレポートに追われて寝たのが遅かったせいか、頭がすっきりしない。あー、サボりたい。今日はサークルがあるから行くけど。


「…テニス、好きだしな」


今となっては当たり前に言えるようになった、自分の気持ち。それはあの時病院に来てくれた彼女と、あんまり認めたくないけれどちょっとだけ青学のボウヤのおかげでもある。
それにしても懐かしい夢を見た。もう五年くらい前のことになるのか。昨日、彼女と恋人の話を聞いたから、触発されたのかも知れない。

彼女の恋を、シンデレラみたいだと言った。ラクロスで注目を浴びていた芽夢ではなく、プレーできなくなった彼女を見つけたという今の恋人。何となく、自分と彼女に似ているようだと思った。俺は、結局ずっと憧れたままで終わってしまったけれど。
水竿芽夢は俺の初恋の相手でもあり、同時に憧れの対象でもあった。いつか、ちゃんと話して、あの時のお礼を言うのだと意気込んでいたのに、高校に進学した時にはもう彼女は居なかった。もし卒業する前に、彼女に気持ちを伝えていたらどうなっていただろう。


「…考えるだけ無駄か」


俺は、君の王子様にはなれそうにないし。五年の間に普通に別の子に恋をしたり付き合ったりする時点で、童話に出てくるような王子様なんて有り得ない。
今も昔も、一途な彼女への憧れは未だ消えないままだけれど。
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