U・シンデレラヴィジョン | ナノ



あの…という控えめな声をかけられて立ち止まる。一瞬、別の誰かに向けたものかと思い振り返れば、その声の主と思わしき女性はまっすぐこちらを見ていた。背の高い、モデルみたいにスタイルの良い人だった。落ち着いたダークブラウンのロングヘアーが清楚な雰囲気を漂わせて、着飾りすぎない膝丈の白いスカートが良く似合う。


「少し、お時間もらえませんか」


気弱そうに、不安がる仕草でそう尋ねられ、芽夢はすぐに頷いた。
彼女は一つ上の学年で、芽夢と同い年だった。高校から立海に通うようになったらしく、芽夢と対面するのはこれが初めてだ。自分と一切接点のない人が、一体なんの用事かと疑問が浮かぶ。校内のラウンジ、二人の他には誰もいなかったのに、偶然にもそこは芽夢と幸村が以前座ったテーブルだった。「あの」と先に声を上げたのは彼女の方だ。なるべく威圧的にならないよう、落ち着いた声で返す。少し俯き気味な彼女は、最初に声をかけてきた時以外に一切目を合わせようとはしない。


「…精市君の、ことでお話しがあります」
「幸村さん?」


小さく、彼女が頷く。どうやら、彼女は幸村の知人らしい。それがどうして自分のところに、と思いつつもまくし立てるのは何だか気がひけて、彼女が話し出すのを待った。


「私、つい一カ月くらい前まで精市君と付き合ってたんです」
「え…あ、はい」
「だから、どうしてもあなたに言いたいことがあって」


驚いた。彼女が、幸村が別れたと言っていた人だったようだ。とても女性らしい、可愛らしさと清楚な雰囲気を持った人だ。幸村に良く似合う、そんなイメージを抱いた。以前ここで彼と話した時には、恋人に怒られてしまいそうだと言っていたが、とてもそんなふうには見えない。そんな勝手な想像をしている芽夢を、彼女は恐々としながらもゆっくり見つめた。視線があったのは、二回目だ。小さく息を吸って、意を決したように話し出す。


「精市君が好きなら、付き合わない方が良いと思います」
「…え?」
「多分、好きになればなるほど、辛い思いをします」
「どうして、ですか」


言いたいことは別にもあった。自分は彼と付き合っているわけでも、好意を寄せているわけでもない。それどころか、もうずっと付き合っている恋人がいる。彼女が変な誤解をしていることは明らかだった。しかし、それを訂正するより、彼女が続けた言葉の方が気になってしまったのだ。だって、彼はいつも優しくて、冗談でからかってくることはあっても本気で嫌がることはしない。良く気が利いて人に好かれる、芽夢の中の幸村はそういう人物だったからだ。そんな彼が、誰かに辛い思いをさせるなんて、芽夢からすれば現実味のない話だったのだ。けれど彼女は限りなく真剣な面持ちで、一度は躊躇うように開きかけた口を閉じる。そして、僅かに肩を震わしながらもはっきりと告げたのだ。


「彼は、誰かを好きになったりしない人です」


それを言い切ると、今にも泣き出しそうな顔をして彼女は席を立った。すみません、という意味の分からない謝罪を残して駆け足でラウンジを出て行ってしまった彼女を追いかけるでもなく、芽夢はずっとその背中を眺めていた。


「…そんなこと、言われたんだ」
「はい」
「それって、茶髪でロングヘアーの、背高い人?」
「ええ、その人だと思います」
「そっか、あいつが…」


それから、悩んだ末に芽夢は幸村にありのままを話した。どうやら例の彼女が以前幸村と付き合っていた女性ということに間違いはないらしい。何やら難しい表情をする彼に、芽夢はやはり言わない方が良かったのではと不安を抱く。


「あの…幸村さん、このことは…」
「ああ、分かってる。別に本人に問い質すつもりはないから、そこは安心して」


小さく息を吐いて、安心。告げ口が本人に知れないように口止めをするなんて、卑怯な自分が少し気持ち悪かった。ただ、どうしても気になってしまったのだ。彼女は、芽夢の疑問を一つも取り払ってくれなかった。自分の知っている彼と、彼女の言う幸村精市はもしかしたら別人なのではと思うくらいには。「前に、何で彼女と別れたかって聞いたよね」そんな小さな問いかけに、そっと頷く。幸村は眉を下げながら、寂しそうな顔をして笑う。それは、彼女に向けた表情なのだろうか。


「俺が、ちゃんと好きになってあげられなかったんだ」


最初は、特別なことなんて考えていなかった。ただ、今まで言い寄ってきた子たちとは違った大人しい雰囲気や、俺の負担にならないようにと努力してくれている姿に何となく惹かれて、ああ、この子ならと思った。少なくとも、テニスコートを囲って甲高い声を上げている子よりずっと好印象だし、好きかと言われればイエスと答えるだけの気持ちはあった。でも、それが良くなかった。
そこで一拍置いて、目を閉じて深く息を吸う幸村に、芽夢は不思議と目を奪われていた。


「俺は彼女とテニスを天秤にかけて、いつだってテニスを選んだ。彼女に応えるだけの気持ちがなかったから、嫌な思いをさせてしまった」


意外にも、芽夢の予想は外れた。先に別れを告げたのは、彼女の方だったという。交わらない思い、幸村は彼女がどんな気持ちを抱えていたか、別れの瞬間までまるで気付かなかったと自嘲した。


「俺は多分、一生こうなんじゃないかな。誰かを好きになったりしないっていうのは、正しい」
「…私は、違うと思います」
「……どうして?」


小さく首を傾げて、幸村の瞳が芽夢を映す。優しいけれど、いつものような輝きはなかった。それは、諦めてしまった人の目だ。彼には似合わない。否、彼にはそんな目をしてほしくはなかった。


「幸村さんは、その人の良いところを見つけてあげられなかったんじゃないですか?」
「…うん、そうだね」
「ガーデニングと一緒、って言っちゃ失礼ですけど…魅力に気付けば、その人のことを何倍も好きになりますよ、きっと」


優しい人、可愛らしくて、清楚で、献身的で。けれど、それは表面上の長所をそういう言葉で表したに過ぎない。人間の中身は、本来は言葉では表現しきれるものではないのだ。彼は、まだそれを知らないだけ。恥ずかしいことに、芽夢からした幸村も、そうだった。優しくて、時々意地悪で、幸せそうに笑う人、他人に愛されそうな人。そんなふうにしか彼を捉えられないから、彼女の話を信じてあげられなかった。自分なんかより、彼女の方が幸村精市という人物を良く知っているはずなのは一目瞭然なのに。


「君は」
「はい」
「そうやって、あの人を想ってきたんだね」


あの人、というのは十中八九、芽夢の恋人である彼のことだろう。少し考え込んで、芽夢は小さく頷いた。「羨ましいな」と目を細める彼を、芽夢はどうしようもなく応援したくなった。誰かを好きになれないで、苦しんでいるのはあの女の子だけではないのだと、気付いてしまった。


「ねえ、水竿さん」
「はい」
「嫌じゃなかったらさ、聞きたいんだ。君と雅人さん、の話」


雅人さん。そう呼んだのはおそらく芽夢の真似をしてだろう。彼のことを話す時は、名前かコーチという二択だった。
正直、躊躇う気持ちはあった。自分と彼が恋人という関係なのは周知のことではあったものの、深く込み入った話を自分たちからすることはなかったのだ。自分たちの話が彼にとって良い影響を与えるということも、おそらくはないだろう。けれど、幸村はまっすぐと芽夢を見つめる。茶化したり、冗談が混じっている様子は微塵もなかったのだ。彼のあまりに真剣な様子に、この人なら大丈夫だという確証のない自信を生んだ。
少しずつ、思い出を振り返るように話し始めた芽夢の声に、幸村は真剣に耳を傾けた。
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