U・シンデレラヴィジョン | ナノ



駅で買ったおにぎりやら何やらを頬張りながら電車に揺られ、目的地に到着したのは昼過ぎのことだった。海、だ。眼前に広がる光景と波打つ音、潮の匂い。目を瞑っていても分かる。まさか、本当に海に連れて来てもらえるなんて。隣に並ぶのは、本来なら一緒に居るはずのなかった人。「やっぱり少し寒いな」なんて微笑む彼に、ぎこちなく頷く。


「大丈夫?寒くない?」
「はい、大丈夫です」
「今日は上着持って来なかったからな…とりあえずこれ貸すよ」
「幸村さん…本当に寒くないですから」
「万が一にも風邪をひかれたりしたら、無理に連れてきた俺が嫌だからね」


無理に、なんてとんでもない。うっかり零してしまった我が儘を、彼の方が拾ってくれたというのに。幸村は巻いていたストールを取ると、それを広げて芽夢の肩にかけた。潮風に飛ばされないよう両手で押さえる。まだ海開きもしていない海水浴スポットに、二人以外の人影はなかった。さすがに寒いからと、海水に触れることなく波が押し引きする様子をただ眺めるばかり。


「人がいない海って初めてかも」
「シーズン中は人ばかりですからね」
「ああ。こういうのも、穏やかで良いものだね」


つまらない思い、をさせていたらどうしようと思っていたが、どうやら杞憂だったようだ。彼なりに、この風景を楽しんでくれているようで安心した。


「うーん…でも、やっぱりこういうところはカップルで来るものですよね」
「俺たちが手でも繋げば、それなりの雰囲気になるんだろうけどね」
「もう、幸村さんってば……って、あ…」
「ん?」
「幸村さん…!」
「え、何?どうしたの急に」
「彼女さん!いるんですよね!駄目ですよ私とこんなとこに居たら…!」


そうだ、どうして失念していたのか。もともと水族館のチケットを譲ろうとしたのだって、幸村とその恋人にと思っていたはずなのに。いつの間にか雰囲気に流されていてすっかり忘れていたなんて、あまりにも不甲斐なさすぎる。しかし、急に顔面蒼白になる芽夢を幸村はまばたきを繰り返しながら見下ろす。今にも掴みかからん勢いで叫べば、ぽかんと口を丸く開けた。そして、何を思ったか小さく吹き出すと、俯いてくつくつと笑い出した。何がおかしいのか、とにかく芽夢は彼の恋人に無実の罪で怒りを買うのは御免だった。いや、実際二人で遊びに出かけてしまった以上は無実とは言えない。余計に危険だ。目の前で肩を震わせている彼を、はらはらしながら見つめる。あのさあ、と声をかけられて、思わず上擦った声で返事をした。


「必死なところ悪いんだけど」
「はい」
「彼女とは別れてるよ」
「……はい?」


別れ、てる?芽夢が首を傾げ、幸村が頷く。そんなの初耳だ。確かに彼から恋人の話を聞くことはほとんどなかったが、確かに一カ月前までは付き合っている人がいると言っていたはずだ。一体いつの間に、と彼を見つめる視線で悟られてしまったのか「三週間くらい前にね」と付け加えられる。三週間なんて、まだ二人が会うようになってすぐの頃ではないか。しかし、これで納得した。水族館のチケットを差し出した時に難しい顔をしていたのも、芽夢を誘ったのもそれが理由だったということか。


「あの」
「なんだい?」
「…どうしてか、聞いても良いですか?」
「……」
「あ、すみません!失礼ですよね、そんな」
「いや、構わないよ」


優しく、彼は微笑む。単純に、不思議だったのだ。彼は、とても優しい人だから。こんなふうに笑顔を向けられて、相手の方から彼を見限るというのは全く想像できなかった。きっと別れを告げたのは彼の方なのだろうと、勝手ながら芽夢はそう思った。


「……水竿さんに、また会えたから、かな」
「、え…」
「なんてね」


びっくりした?なんて言って、彼はまた笑う。ああ、またからかわれたのか。そして、そうやってまた流されるのだ。彼が話したくないのなら、無理に詮索をしようとは思わない。自分が踏み込んではいけない、他人のプライベートの領域なのだから。だから、細波を見つめる顔が寂しそうだなんて、思っても口に出してはいけない。

そろそろ帰ろう、と彼が言い出したのは海が紅に染まり始めた頃だった。地元駅からここに来るまで、約二時間。帰る頃には夜になっていることだろう。
あれから、彼は別れた恋人のことは一言も口にしなかった。砂浜で小さな城を作ってみたり、それにきらきら光る小さな貝殻を飾ってみたり。どこで見つけたか知らないナマコを両手に持って差し出された時は、思わず悲鳴を上げた芽夢を見て彼は本当に楽しそうに笑っていた。結局、ジーンズの裾を無理やり折って海に足をつけたのは彼が先だった。浜の方まで流れてきたクラゲに刺されそうになって慌てている彼に笑えば、顔に水を飛ばされた。帰りの電車で、一日を思い返すように話題に花を咲かせる。


「結構遊んだね」
「はい、楽しかったです。今日はありがとうございます」
「ふふ、喜んでもらえたなら良かった。彼氏の代わりで良ければ、また付き合うよ」
「代わりなんて、そんな」


そんなこと、思ってないです。それは芽夢の本音だ。彼氏と行けなかったから、なんて理由で幸村と一日を過ごそうと思ったわけではない。幸村でなければ、ガーデニングの話なんてしなかったし、こうして海にも来られなかった。あの時、幸村が待ちぼうけを食らった自分を見つけてくれて、良かったとさえ思える。
と、その時、芽夢の鞄から微かな振動が伝わる。メールを知らせるそれに、芽夢は会話を中断させ鞄から携帯を取り出す。意外なメールの送り主に、首を傾げて文面を開く。


「…彼氏?」
「はい。用事が済んだから、夕食だけでも一緒にどうか、って」
「そう。じゃあ、駅からは送らなくても大丈夫だね」


彼が家まで送ってくれるつもりだったと、その時初めて知った。いくらなんでも、そこまで手間をかけさせるわけにもいかない。タイミングの良い恋人からの誘いに心の中で感謝した。
数時間前にも居た駅に到着すると、もうすっかり夜になっていて街頭に光が灯っていた。先ほどの風景とは一変した都会の雰囲気に、まるで夢でも見ていたような気になる。別れ際になって、そういえば彼のストールを借りっぱなしだったのを思い出して慌てて返した。ずっと人のものを身につけていたなんて、何だか恥ずかしくて少し目が合わせずらかった。


「じゃあ、また明日」
「はい、ありがとうございました。お気をつけて」
「君もね。ちゃんと見送りたかったけど、邪魔しちゃいそうだし」
「大丈夫ですよ、心配しないでください」


じゃあ、と踵を返した彼の背中を、見えなくなるまで見送った。恋人に約束をすっぽかされて暇になったかと思いきや、予定以上に充実した一日になった。何となく、自分の髪から潮の匂いがする気がして心地良い。また明日、会えたら改めてお礼を言おう。そう決めて、芽夢は待ち合わせ場所である駅の壁に寄りかかった。あと十分もすれば、現れた恋人と何でもない日常に戻るのだ。
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