U・シンデレラヴィジョン | ナノ



うっかり恋人の匂いを纏ったまま登校してしまった日から、幸村は芽夢を見つけるなり出会い頭に匂いを確認してくるようになった。おそらく同じ香水の匂いなんて感じさせたら、またあの厭らしいいじめっ子の顔でからかわれるのだろう。芽夢にしては珍しく、細心の注意を払うようになった。というか他人の濡れ場の残り香なんて探して、何が楽しいのか。言い方は悪いが、そういうことだろう。聞けば、彼はその香水の匂いが苦手らしい。そういえば、自分も最初はあの匂い、というか香水自体が駄目だったのを思い出す。長い時間を過ごすうち、気にならないどころか心地良いとさえ感じるようになったのだから、自分で思っている以上に心酔しているのかも知れない。
そんなこんなで、幸村精市と再会してから一カ月が過ぎようとしていた。


「もー本当ありえない」


自分でもあからさますぎると思うくらいの不機嫌な声。電話口から何度も謝罪の言葉が聞こえる。ごめん、埋め合わせは必ずする。って、それ何度目よ。
久々の休みだったのだ。芽夢ではなく、彼が。二週間前から企画していた二カ月振りのちゃんとしたデートのはずだった。しかし、約束なんてあってないようなものだと芽夢は重々承知している。
彼は大学時代、有名なラクロスのプレイヤーだった。卒業を機にコーチへと転向し見事に成功して、今では日本に留まらず海外でもそれなりに名の知れた人となった。そんな彼が、今は日本の学生を指導しているという事実がまず普通ではない。立海大学ラクロスサークルを受け持っているのは、言い方は良くないが大半は芽夢のためである。本来のコーチの仕事の都合で、一週間後に控えている試合の対戦相手側で不祥事があったとかなんとか。だから今日は行けなくなってしまった。と連絡を貰ったのは芽夢が既に待ち合わせ場所に到着した後だった。いくらなんでも直前すぎる、と多少は苛立ったものの、電話口で何度も謝られると怒る気にすらならないあたり、彼のそういった部分を受け入れられているのだと自覚する。芽夢が好きなラクロスにまっすぐに向き合う、彼が好きなのだ。


「うん…うん、分かった。大丈夫、適当に時間潰して帰るから」


それを最後に彼の声は遠のき、通話が切られる。いつもならこちらから切るまでは繋いだままなのに、どうやら声から判断する以上に焦っていたようだ。建て前とはいえ文句なんて言って時間を取らせてしまって、悪いことをした。
しかし、怒っていないとはいえ楽しみにしていたのは事実である。まだ誰にも見せていない今夏新作のロングスカートを着て、いつもは自然なままの髪も編み込んでみたり、ネイルをちょっと凝ってみたり。大人な彼に釣り合うように頑張ってみたのに、まさか見られることすらないなんて。この日のために有名な水族館のペアチケットをキープしたのに、それも無駄に終わるのかと思うとどうも虚しい。何が悲しいって、こんな待ち合わせスポットでもう二十分近くも立ち尽くしたままなのにナンパの一つもないのが無性に腹立たしいのだ。ナンパされたらされたで不快なのは確かなのだが。どんなに背伸びをしても、実年齢より幼く見えてしまう現実。普段はあまり気にしないそんなことにセンチメンタルになるなんて、思ったよりドタキャンのショックは大きいようだ。


「…あれ」


このまま帰るのも馬鹿らしいし、どこで時間を潰そうか。そんなことを考え出した矢先、人混みのざわめきの中で澄んだ声がまっすぐ飛んできた。


「水竿さんだ。おはよう」
「幸村さん…?」


声のした方を振り向けば、にこにこと笑顔を振りまく幸村精市がいた。シンプルなシャツにストールを巻いていて、普段とは少し違う雰囲気を放っている。彼は人混みを避けながら、まるで最初から待ち合わせていたみたいに芽夢の隣に並んだ。


「奇遇ですね。デートですか?」
「いや、バイトに行くとこだったんだ。どちらかといえば、君の方がデートだったんじゃない?」
「あはは、そのはずだったんですけど…」
「うん?」
「ドタキャンされちゃって」
「ふうん…せっかくおしゃれしたのに、勿体ないね」


おお、と声を上げそうになった。頑張った甲斐あって、やはり気合いを入れているのが分かってもらえたようだ。まあ、そうでなくても彼は人の差異にすぐ気づきそうなものだが。しかし、いくら見抜いてもらっても肝心の見せる相手にすっぽかされたというのは何とも恥ずかしいものだ。


「あ、幸村さん、水族館とか行きます?」
「水族館?」
「はい。ペアチケットなんですけど、今週末までしか使えないので良かったらいりませんか?」
「うーん…」
「あ、嫌いなら良いんですけど」
「ああ、いや、水族館は好きだよ」


それは良かった、と芽夢は鞄から財布を取り出し、チケットを抜き取ると幸村に差し出した。今日を逃したら自分はどうせ行く機会がないのだから、誰かに使ってもらった方がずっと良い。彼が水族館を好きというなら尚更だ。しかし、彼は差し出され二枚の紙を受け取るでもなく、ただそれを見つめて難しい顔をしている。もしかして、気を遣わせてしまっているのだろうか。


「あの、本当にいらないなら…」
「水竿さん、ドタキャンされたってことは今は暇なんだよね?」
「え?ああ、まあ…ヒトカラ行こうか悩む程度には」
「じゃあ、今から行かない?」
「はい?」


水族館、とチケットを指差す幸村の手を、芽夢は凝視した。え、まさかの切り返し。予想しないお誘いに目をぱちくり。


「…やっぱり彼氏じゃないとやだ?」
「そういうわけじゃ…でも幸村さん、バイトは…?」
「うん、そのはずだったんだけどさ、なんか馬鹿みたいに暇らしくて今日休んで良いって。むかつくよね、人件費削減したいならそう言えば良いのに、休んで良いって何だよって感じ」
「はあ…」
「だからさ、ね?俺もその水族館気になってたんだ。あ、でもこれってデートになるのかな?浮気とかになったりしない?」
「いえ、私の彼はそういう概念はあまりないので…」
「良かった。じゃあ、行こうよ」


今日の彼はやけに饒舌だな、なんて。ぼんやりとそんなことを考えいたら、いつの間にか彼の中で水族館に行くことは決定していたらしい。今まで見つめるだけだったチケットをひょいと持ち上げ、楽しそうに笑う彼を見て初めて事態を把握する。恋人とのデートのはずが、何がどうしてこんなことに。しかし、よほど水族館が楽しみなのかふわふわと笑う彼を見たら、とてもじゃあないが行かないなんて言えるわけがなかった。正直、自分もあの水族館はかなり楽しみにしていたのだ。ほら早く、なんて急かす彼に芽夢は苦笑を浮かべ着いて行った。


「空いてるね、さすが平日」
「ていうか、カップルしかいないですね…」
「俺たちもカップルだろ?」
「幸村さん」


咎めるように見上げれば、何がおかしいのかくすくすと笑われる。別に手を繋いでいるわけでもなく、互いの距離だってしっかり一定を保っている。周りからはどう見えているのだろうか。どうせまた、兄妹だとかそんなところだろうけれど。


「タカアシガニってさ」
「はい」
「どこ行っても脚一本足りないやつ絶対いるよね」
「…食べられちゃったんですかね?」
「共食い?」
「…怖いですね」
「うん。あ、カクレクマノミ」
「私はナンヨウハギの方が好きです」
「そういうつもりじゃなかったんだけどな…ほら、ナポレオンフィッシュがいる」
「…この水族館、コンセプトが謎すぎません?」
「確かに」


タカアシガニは深海に生息するのに、ナポレオンフィッシュとカクレクマノミは太平洋に生息する魚。しかも片方は熱帯魚で、同じコーナーに水槽が配置されることなんてあまりないのだが。タカアシガニのそばには、タコだかイカが並ぶことも多いが、熱帯魚と近い位置に置かれているのは初めてだ。けれど、逆にそれが面白いかもと笑う幸村を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくるのも事実。


「幸村さん、クラゲ」
「本当だ。…ミズクラゲって突っついたら破けそうだよね」
「刺されますよ?」
「ふふっ。俺はブルージェリーフィッシュの方が好きだから」
「あのカラフルなクラゲですよね」
「うん。必死に泳いで仲間同士で衝突してるのが可愛くてね」


これは、愛でるというより面白がっているに近いのだろうか。幸村は「君も見れば分かるよ」とブルージェリーフィッシュの水槽を探すが、どうやらこの水族館では飼育していないらしく少しむくれていた。
幸村は魚、というか水族館に少し詳しかった。芽夢は好きで調べたりしていた時期があったのだが、話を振っても大体は難なく返してくる。もしかしたら魚について調べるのが趣味なのかと思い尋ねれば、何食わぬ顔で趣味はガーデニングだと返された。意外、ではなかった。駅で出会った時から、何となく花が似合う人というイメージを抱いていたからだろうか。


「でも、花にしろ魚にしろ、自分が育てたものが成長していくのを見るのは好きだな」
「素敵ですね。私は飽きっぽいから、あまりそういうのに向かなくて」
「それはきっと、まだ本当の魅力に気付いてないからじゃないかな。ラクロスはその魅力を知っているから、ずっと続けているんじゃない?」
「…そう、ですかね」


ふわりと笑って頷く彼は、やはり花のようだ。暗がりで良く見えないけれど、優しい表情をしているのが分かる。人をからかうのが好きで、大人のくせに子供みたいなところがあって。けれど、時折こうして感じさせる一面に、とても安心できる。今日、彼とここに来れて良かった。


「色んな魚がいて楽しいですね」
「そうだね」
「本当は今日は海に行きたいって言ってたんですけど、水族館も良いですね」
「海?」
「はい。でも、海はまだ早いし遠いからって言われちゃって」


彼は忙しい人だから、水族館が精一杯の我が儘だったのだ。きっとシーズンになれば、混んでるからと言って海には行けず終いになるのだろう。それでも、いつか行ければ良いなんて思ってしまう悠長な自分が原因でもあるのだが。少し、寂しいのを我慢すれば良い。それだけの問題なのだ。


「何で早く言わないかなあ」
「?」
「出るよ」
「え、でも、今からアシカショーが…」
「そんなのいつでも見せてあげるから、ほら」
「ちょ、え?一体どこに…っ」
「海」
「ええ…!?」


急に手を取られたかと思えばぐいぐいと引かれ、転びそうになりながら着いていく。ていうか海、海って。まさかこの人、自分の我が儘を聞こうというつもりなのでは。いくら何でもそこまで迷惑はかけられない。「こんなことなら車出せば良かったなあ」なんて独り言を言う彼は、振り返りもせず歩いていく。どうにかして止めたいのに、言葉が出ない。すると、いつまでも引っ張られるままの芽夢を彼が振り返る。


「俺は暇人だから、どこでも行きたいところに連れて行ってあげる」


そう言って不敵に笑う彼に、悔しくも何も言い返せなくなった。なんてずるい人なんだろう。
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