U・シンデレラヴィジョン | ナノ



その冬一度だけ降った雪もすっかり溶けきり、春の陽気とはまだ程遠い肌寒い空気が流れる季節。
あの日から約ニカ月。三月に差し掛かり長く感じていた休暇も終わりに近づいていた。意外とあっという間だった、と思うのは、この冬と春を通した休暇中に様々なことがあったからだろう。苦ではないけれど、少なくとも浪人していた一年に比べればはるかに多忙だった。


「芽夢」
「あ、おはようございます」


待ち合わせの時計台の下。言わずもがな、彼と初めて遊んだ日に偶然出会ったあの場所だ。あの時は、こんな偶然もあるものだと思っていたのだけれど、今となってはそのことさえも運命のようなものに思えてしまうのだから、煩悩とは恐ろしいものだ。彼はあの日よりも落ち着いた足取りで、より自然に芽夢の隣に並ぶ。けれどその表情は、芽夢を呼んだときよりどこか不満げというか、拗ねる子供のようにむくれている。何か、気に障ることでもしてしまっただろうかと首を傾げれば、一拍置いて彼の短いため息が鼓膜を掠める。


「敬語」
「あ」
「慣れなよ、早く」
「……はあい」


間延びした返事。それも彼は少し気に食わないようだ。危ない危ない、あんまりにも子供みたいな態度は控えなければ。どう見ても今のは、約束を守らなかった自分に非がある。
彼と、幸村と改めて互いの気持ちを通わせた日のすぐ後に、彼が一つの「お願い」をしてきたのは鮮明に思い出せる。まずは「敬語を止める」こと。もう先輩と後輩というだけの関係でもないから遠慮してほしくない、とのことだった。彼自身がもどかしさを感じてくれていたのを自白するような発言が嬉しくないはずもなく、それにはすぐさま頷いた。それから、もう一つは。


「精市君、時間」
「ああ、そうだね。行こうか」


時計台を見上げて、彼はごく自然に芽夢の左手を取った。歩き出す彼に腕を引かれるように隣へ並び、その横顔を見上げれば「ん?」と首を傾げる。なんでもない、と曖昧な返事と笑顔。けれど彼は気にする素振りもなく小さく頷いて笑った。
二つ目のお願いは、「幸村さん呼びをしない」こと。
色々なことがあって、自分のことをほんの少し認められるようになった。そうしたら、今まで分からない、覚えてないと一点張りだった過去の話が、面白いくらい簡単にできるようになって。忘れたわけではない、思い出さないよう、自分で遠ざけていただけだ。
「中学生の頃みたいに呼んでよ」面白がるようにそう言われたのは、そのことを話したすぐ後だった。冗談めいた言い方ではあったけれど、きっと本心からの言葉だろうと、何故か分かってしまった。ぽっかりと空いてしまった四年間の溝を、どうにかして埋めたいと思っているのは自分だけではないのだと分かって、思わず笑ってしまった。「精市君」と、不意をつくように呼べば、少し驚いた後に珍しく照れたような顔。それが、そんな些細なことが本気で嬉しくて、それ以来ずっと彼をそう呼んでいる。


「何時からだっけ?」
「十時半だよ」
「じゃあ昼食は…そのあとで良いか。たしか中にカフェみたいなお店あったよね」
「うん。…ふふ、楽しみだなぁ、アシカ」
「俺も、この前の埋め合わせが出来て良かったよ」


微笑んで首を傾げるその仕草は、身長の低い自分のため。そう思うと、なんだかくすぐったいような気持ちになる。手の繋ぎ方も自然で、まるでもう随分長い間寄り添っていたように錯覚する。現実は、実は彼と会うのはこの長い休暇に入って初めてだ。

芽夢がラクロスサークルに復帰することはなく、その代わりに持て余した時間の殆どをアルバイトにあてることにした。当面は、最低限身の回りの金銭的なことで自立するため。ゆくゆくは、今まで両親に与えてもらっていたお金と時間、それから信頼を返すためにと少しずつだが貯金も始めた。一度目の挫折とは違う、自分の意志での辞退を、両親はやはり快くは思わなくとも反対はしなかった。ラクロスのためにその他の全ての時間を割いたこと、勝手な我が儘を通して留学させてもらったこと、感謝するべき事は両手の指を全て折っても数えきれない。けれど、どれも形で表せるものではない。だから、少しでも何らかの方法で謝罪と、今までの感謝を伝えたかったのだ。
そんな芽夢と、相変わらずテニスに学業にアルバイトにと多忙な幸村が時間を合わせる機会など、そう簡単に取れるはずもなく。気付けば約一カ月も電話とメールだけで連絡を取る日々だった。
だから、そのせいもあって、今日は少し緊張もしている。

彼と訪れた二度目の水族館。もう半年以上も前に見逃したアシカショーを見るためだった。いつでも見れる、なんてあの日の軽い約束にもならないような言葉を守ってくれることに、嬉しさと気恥ずかしさが混ざり合う。


「さて、この人懐っこいミック君なんですが、実は輪投げが大の得意なんです!せっかくなので会場のお客さんにお手伝いしてもらいたいなー……じゃあ、そこの眼鏡のお姉さん!手伝ってくれるかなー?」
「…え、へっ?」


両手を叩く音が止まる。ついさっきまで鼻先でボールを回してしたアシカと、その隣に立つ調教師の女性の目が芽夢に向く。え、まさか、と無意識に手のひらを頬に当てれば、指先にいつかの黒縁伊達眼鏡が当たった。指名された芽夢の元に素早くスタッフが駆け寄り、にこやかに三本のカラフルな輪を手渡してくる。目をぱちぱちと瞬かせる芽夢に、幸村は「頑張りなよ、お姉さん」と悪戯っぽく笑った。くそう、腹をくくるしかないのか。助けてくれない彼氏様にため息でもつきたい気持ちで、芽夢は客席から立ち上がった。


「やー、面白かったね!」
「…やめてください、幸村さん」
「け、い、ご。…拗ねなくても良いじゃないか、俺は楽しかったよ。アシカも楽そうだったしね」


くすくすと口元に手を当てて笑う幸村。綺麗だけれど、格好いいというより麗しいくらいだけれど、彼は本気で面白いと思っている時にこんな笑い方をする人ではない。からかわれているのが嫌でも分かる。ショーのアシスタントだなんて、緊張していたのだ。気を張るあまり慎重になってしまい、投げた輪は三本とも見事にアシカの首にかかった。そう、あまりの正確さにアシカが一歩も動く必要がないくらいに。後になって思えば、ショーにしては何て退屈な瞬間だったのだろう。それを一番近くで見ていた幸村は、その後ずっと含み笑いを零していたし、芽夢も恥ずかしいやら申し訳ないやらでまともにショーを見るどころではなかった。それを知っていてからかってくるのだから、彼も随分意地の悪い性格をしている。

けれど、そうやって笑っている彼を間近で見る度に、互いの心が近づいているような気がした。ただの錯覚かもしれないけれど、そうなら良いという芽夢自身の願望も、確かにあったのだ。


「芽夢、課題は終わった?」
「あー…あとちょっと」
「…バイト、頑張るのは良いけど無理はしないって約束、忘れてないよな」
「大丈夫だよ。精市君だって、テニスばっかりやってるくせに」
「ふふ。まあ、この間まで河野の件もあってあまりサークル内の雰囲気も良くなかったから。最近漸くいつも通りになってきたんだ」


テニスのことを話す幸村は、芽夢が知るどんな彼とも違う表情をする。それを、羨ましく思うのは初めてのことではない。もう慣れてしまうくらいに、以前の自分にとってのラクロスのように、彼は今もテニスを愛してやまない。
河野は麻薬常用と芽夢への脅迫が露見し、そのまま都内の精神科への入院を余儀なくされた。度重なる無謀な言動や極端な感情の起伏は、麻薬による作用だと診断されたためだろう。事実、彼は実に三年も前からその手の薬を服用していたようだ。あの言動の理由の全てが果たして薬のせいなのかは、芽夢の知るところではないけれど、そう言われてしまった以上、同情の念もあるのか自分の受けた被害を声高に訴える気にもなれなかった。ただ、もうあの男に会うことは二度とないのだろうと、漠然と思うくらいだ。そのことさえも、最近では思い出すことはなかったのだが。

幸村と互いの気持ちを確認してからの約二ヶ月の間、本当に色々なことがあった。
まず、日高の頭部の怪我が回復し抜糸が行われた。まだ手足は自由にはいかないまでも、少しずつリハビリが行われるようになっていた。週に一回ほどのペースで見舞いに行くけれど、いつでも彼の瞳はラクロスへの復帰に熱い炎を燃やしているかのように希望に満ちている。「絶対私よりラクロスの方が好きだったでしょ」「どうかな」なんて、今では冗談を交わせる仲になっていた。それでも、彼は自分以上にラクロスしかなかったのだと、今も昔も変わらず思う。

もう一つ、これは幸村にも打ち明けていないことだが。芽夢は越知に二度目の平手をもらった。あの時の感覚は、一度目よりはるかに忘れがたい。


「なんでっ、戻らないとかいうのっ」
「ごめんなさい」
「私もう怒ってないし、誤解だってコーチにも聞いた!謝るっ、から…っ、…ラクロス、やめないでよぉ…」
「…ごめんなさい」
「ごめんじゃ分かんないよ馬鹿!」
「……越知さん」
「な、によっ」
「ありがとうございます」
「っ、……う、わぁあああ、ばかあああっ」


自分よりずっと身長の高い越知に泣きつかれて、背中をぽんぽんと撫でながら芽夢も少しだけ泣いた。越知が泣いた理由は、日高への想いと、芽夢がサークルをやめたこと、それから自分に対する自己嫌悪が溢れ出た形のようだった。以前と同じように赤くなっているであろう頬は、あの日よりもじりじりと焼けるように痛んでいる。誰かに想われることは、痛い。それでも嬉しいと感じてしまうのは、自分がマゾヒストだからではないと信じたい。平手一発で彼女の気持ちを知り得るというのなら、安いものだとは思うが。

ラクロスを嫌いになったわけではない。日高や越知に恨み言を零す気もない。そして、今回の出来事のこの些細な一部分の話を、幸村に打ち明けるつもりもない。否、いつか話せれば。そう心のどこかで思ってはいるような気はする。だが、そんな自分でも確証の持てないような気持ちを、彼に打ち明けることはないと直感的に思ったのだ。数えきれないほどの嘘をついて、自分を偽って。それはいつか、仁王雅治に指摘されたペテン、そのものだった。あの夏祭りの日以来、彼に会う機会はなかったが、今の自分を見たらどんな顔をするだろうか。少しだけ、想像しようとして諦めた。自分はあまりにも仁王という人間を知らなさすぎる。


「そういえば、仁王がさ」
「えっ」
「えっ」
「あ……なんでもない」
「…ふうん」


何、その含みのある笑い方は。そう思ったものの、口には出せなかった。後が怖い。幸村はどこかいやらしい笑い方をしたまま、すっと青い髪を揺らしながらごく自然に芽夢の眼前にその整った顔を近付けて見せ付けた。思わず、小さく肩が跳ね上がる。


「……浮気?」
「…そんなわけないでしょ…」
「だよな、知ってる。うん…ふふっ」


何がおかしいのか、はたまた嬉しいのか。彼はいつものように花が綻ぶように柔らかく、虚空に鮮やかな花火が開くように唐突に、芽夢には眩しすぎる笑顔を見せるのだ。その笑顔を見せられる度に、その笑顔があった時を、場所を、気持ちを思い出してどうしようもなく切なくなる。付き合い出してから三カ月が倦怠期に入る目安というが、こんなに切ない思いを会う度にするくらいなら、早く訪れて欲しいとさえ思ってしまう。いや、彼と険悪なムードになりたいわけではない、断じて。
気を取り直すように、誤魔化しをきかせながら「仁王さんがどうかしたの?」と尋ねれば、幸村は満足したのかあっさりと顔を離した。というか、こんな公共の場であんなに接近して恥ずかしくないものなのだろうか。デートスポット内のカフェということもあって、周りはカップルや親子連れだらけで気にならないといえばそうかも知れないが。ふう、と短く息をついて、幸村は深く椅子に腰掛けるとテーブルに肘をついて姿勢を崩した。たまにこういうだらしないところがあるのは、この人ならではの特徴である。


「仁王がさ、君は変わったって言ったんだ」
「はい?…えっと、私仁王さんに会った覚えないけど」
「おまえはね」


あ、口悪くなった。というより素が出たのか。一見、メッキが剥がれたように思えるそれも、彼が自らの本質をさらけ出しているのだと分かるとさほど気にならない、というか嬉しいくらいだ。


「気付かなかったろ」
「え?」
「こないだ、金曜だったかな。電話かけたの俺じゃないから」
「…えっ」
「……鈍感」
「え、じゃあ、今日の約束」
「約束を取り付けたのは仁王。まあ、元々誘うつもりだったし、それを話した俺も悪いんだけど」
「う、うん」
「気付いてほしかったなあ」
「ごめんなさい」


とりあえず謝っておけ。頭の中の小さい自分がそう訴えていたのを素直に受け入れて、謝罪の言葉を述べた。話している間に、だんだんむくれていく彼の様子にそれ以外の選択肢が見つからなかったのだ。いくら彼がコートの上の詐欺師と呼ばれるほど他人に成りすますのが上手くても、恋人かそうでないかを聞き分けられないなんて、確かに情けない話だ。


「まあ、良いんだけど、それは」


ならどれが駄目だったのだろう。続いて浮かび上がる不安要素は、言葉にはならなかった。不機嫌、かと思えば、どこか切なげに瞳を細める幸村に、自然と胸がとくりと音を立てる。


「芽夢、多分、仁王はね…」
「う、ん?」
「…………なんでもない」
「え?」
「やっぱり良い。忘れて」


何なんだ一体。今日の彼は口ごもったり発言に自信がなさげだったり、あまり普段の彼のイメージとそぐわない気がした。だからどうしたというわけではないが、何か不安を抱えているのかと心配になってしまう。
何故なら、彼の言葉には、行動には、いつだって意味があった。真意とまでいかないまでも、その一部だけでも芽夢は目の当たりにしてきたのだから。今の彼を見て、不思議に思わないはずがないのだ。けれど、言いたくないというのならば、問い質すような無粋な真似はしたくない。彼が芽夢に対してそうであるように。
それでも、心配までは拭えないものだ。


「ふふ、分かりやすい顔してるなあ」
「…わざと」
「うわ、性悪」


くすくすと笑みを絶やさないで話す彼に、募る不安は拭えない。それにも、もう慣れてきているけれど。その軽口が冗談だということもわかっている。


「移り気」
「?」
「聞いたことない?」
「…なにが?」
「芽夢の誕生花。ダリアの花言葉」
「へえ…」
「移り気。ぴったりだよね」
「嫌味だね」
「そうだね」


笑顔で何を言うかと思えば、小学生でも分かるような貶し言葉。誕生花だの花言葉だのといったことは初めて知ったものの、なるほど。その一言だけで彼が何を言いたいのか痛いくらい分かってしまう。話した覚えのない誕生日を何故知っているかなんて、彼の背後に潜むデータのエキスパートの存在を忘れない限り、彼に尋ねるような間抜けなことはしない。
それにしても、今のは少し、本当に少し傷ついたかも知れない。断じて強がってなんかいない。


「季節が移り変わるにつれ色を変えていく花のように、君はいつもいろんな色を纏っていたね」
「、は…」
「決して触れられないよう水辺を泳ぐ魚みたいに、君は俺にとって尊い存在だった」
「……」
「それが、こうして触れられる場所にいる。捕まえてしまおうとすれば、簡単にできるくらいの近さに。今でも、夢のように思いそうになるんだ」


そっと、本当に壊れ物でも扱うみたいに指先に触れられて、芽夢は反応らしい反応を返せなかった。ただ呆然として固まって、漠然と彼の言葉を理解するのに精一杯で。否、理解できたのかさえ分からない。あまりにも唐突に、想像もできないようなことを言うものだから。嬉しいのか、切ないのかも自分で分からなくなってしまった。


「仁王に電話されたのも、俺がうじうじ迷ってたからだし」
「…精市君が?」
「意外?うん、俺も自分で驚いた。こんな度胸ないなんて全然思わなかった。仁王はさ、誰かに成りすますためにいつも誰かを見ていて、だから分かってしまったのかもしれないけど。それでもそんなこと、今まではなかった」
「私が、精市君の弱みになって、る…?」
「うん。だけど、それが俺は嬉しい。弱いことは駄目だと思っていた自分が、その事実を自然と受け入れることができているのが」


芽夢だからだよ。そう言われたのかも知れないし、違うかも知れない。だけどそんなの、些細なことだ。芽夢には確かに、そう聞こえたのだから。
泣いてしまえば、簡単だと思う。一番手っ取り早く感情の伝達ができる。けれど、そうしたくなかった。それは、自分自身の言葉と態度で、彼がそうしてくれたように、対等の立場で伝えたいと思ったからだ。だけど、いざ伝えようとしても、言葉にならない。浮かばない。彼が与えてくれた喜びを、愛しさを、何を持ってすれば余すことなく表現できるのだろう。
けれどすぐ、そんなものは必要ないと気付いた。これから先、いくらでも時間はある。だから、彼への「ありがとう」を先延ばしにしているのではないか。それは祈りであり、誓いだ。この気持ちが、"移り気"の名を持って生まれた自分が、たとえ何度揺らごうと、彼と自分自身を苦しめようと、彼にその言葉を伝える日が自分たちの最後の日になるように。互いが最後の相手になるように。今は描けぬ未来に、彼にも秘密で誓いを馳せた。
だから、焦らないで良い。


「精市君、知ってる?」
「うん?」
「金魚はね、大切に何年も育てると鱗の色が剥がれ落ちて金色に光る身体になるんだって」
「へえ、初耳だ」
「だからね、一度見てみたいの」
「うん、見れるといいね」


目に見えないほどゆっくり、心地良いくらいたおやかに、着々と育っていく気持ち。そんな小さな言葉でさえも、まるで十年後の約束をしたように胸に落ちて溶け込む。
忘れてなどいない。自分が彼を花火みたいだと思ったこと。代わりに彼が芽夢を金魚のようだとたとえてくれたこと。けれど、彼は気付きはしないだろう。どうか気付かないでいてほしいと思う。もし、今あなたのそばに一匹の金魚がいるとするなら、それは金色に輝くその日まであなたの後ろをついて回るのだろうと。あなたのそばに立って、笑って、それこそ死ぬくらいの時間をかけて、なんて。夢見がちな子供のように、思うのだ。だから、どうか気付かないで、まだ。


「精市君、私は精市君が好き」
「、…芽夢ってそういうところ遠慮がないというか、図太いよな」
「そうかなあ」
「そうだよ。……あんまり、困らせないで。俺、まだ自信ないから」
「なんの自信?」
「おまえの直球に耐えられる自信」


なにそれ、と笑えば、真剣な話なんだけど、と呆れたように返された。けれど逆効果だ。いつも余裕綽々な彼がそんなふうに戸惑っている姿なんて、貴重だから嬉しくなってしまう。ああ、これじゃあまた性悪なんて言われてしまいそうだ。


「私も、自信ない」
「なにが」
「精市君の、良い彼女になる自信」
「なにそれ、そんなの要らないし。それこそ俺だってないよ」


頬を緩ませながら、おかしそうに言う彼。そんなに面白いことを言っただろうかと疑問に感じる。かと思えば、不意に指先から離れた手がそのまま上に逸らされて、二カ月前よりほんの少し長くなった金色の髪を一房、包み込むように握った。毛先をこすりあわせるように触られるのを、抵抗するでもなく眺めた。


「大切に育てたら、金魚もこんな色になるのかな」
「…どう、かな」
「見れるの、楽しみだな」


それは独り言なのか、それとも問い掛けなのか。どちらにしても応えられる気がしなかった。あまりに甘い顔をした彼が、予想以上に期待をさせるようなことを、言うから。
ああ、どうしよう。好きだ。本当に好き。だけど言葉にする余裕もなく、その手の上に触れることしかできなくて。相変わらずテニスを頑張る、たこが固くなった大きな手に胸が切なくなる。自分の知らない時間を生きた彼でさえも、愛おしく思える。それでも、こうして巡り会ったのが大学で良かったと思える。ほんの数ヶ月前まで自分を戒めていた過去が、道のりが、振り返れば小さな花を咲かせているような、きらきらと輝いているような気さえしてくる。


「ね、精市君」
「うん?」


夢のない話だ。
もし私がシンデレラなら、ガラスの靴を落とすのは偶然でも王子様に見せしめるわけでもなく、それを与えてくれた素敵な魔法使いにまた助けて欲しかったからかも知れない。

夢のような話だ。
もし私が小さくか弱い金魚だったとしても、夜空に瞬く花火を焦がれて水辺から顔を出せるような、そんな気さえするのだ。

私とあなたの話をしよう。
もし私たちが中学生の頃に互いに惹かれ合い、結ばれたとしても今の関係はないかも知れない。けれど、今この瞬間だって確立された結果ではない。この先だって分からない。ただ、長い時間をかけて、人より多くの困難を超えて繋がれたこの手は、私とあなたに特別な絆を授けたように思えた。それが魔法の延長上の錯覚でも、恋焦がれた者の陳腐な理想論だとしても、そう在りたいと強く願う心には、もう偽りは一片たりともない。笑顔につられて、私も笑う。そんな関係のために、何度も泣いたことを、私は決して後悔などしない。私が幸せになって誰かが苦しむ世界より、私が苦しんで幸せになる。そんな物語を、拙い指先で描きたい。覚束無い足取りでも歩みたい。もう子供でいられなくても、言い訳しなくていい。もう、大丈夫でしょう?私が歩んだその先には、隣には、恋した人がいる。


「お誕生日、おめでとう。精市君」


午前十二時。祝福の鐘が鳴った。
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