U・シンデレラヴィジョン | ナノ



「芽夢…?」


零れた声がかたどったのは、芽夢の名前。芽夢は息を切らしながらも左手で乱れた髪を撫でるように押さえ、病室内に踏み入った。後ろ手に閉めた扉の音は、やはり重い。


「雅人、なんで幸村さんと…」
「だから、彼が訪ねてきたんだってメールしただろ?」
「じ、冗談かと、思っ」
「冗談?それならそれで良かったかもな。おまえ、あれ以来一度も連絡してこなかっただろ」


責めるような口振りに気圧されて、芽夢は口を噤んだ。事実だ。別れを告げられたあの日から、色々なことがありすぎて見舞いに来れなかったのも事実だが、彼を敬遠している自覚もあった。気まずいだとか、彼に迷惑をかけないようにだとか、そんな優しい人の理由ではない。彼に会うのが怖かっただけだ。もう自分は、彼にとって必要でないと思いたくなかった。自分から遠ざけて、連絡の一つもなくてやっぱり不要な存在だった、なんて思ってまた苦しくなることくらいわかりきっていたというのに。

昨日のことだ。河野が、薬物を所持していることが露見して学校を去ったと聞かされたのは。それを話してきたのは、幸村と旧知の仲にある真田、そして柳だった。何故そんなことを知っているかなんて、聞いた自分はどこまでも愚かだ。
幸村と彼ら、そして柳の友人までもを巻き込んで、自ら危険を買って出てくれた。青春学園の出だという河野は、高校時代に評判が良くなかったから友人に助けを乞えば簡単だった、と柳は言ったが、彼らがそんな行動に出ていたことさえ芽夢はそれまでまるで気付かなかったのだ。あの、幸村に呼び出された日にそんなことがあったなんて。どうして話してくれなかったかなんて、そんなのわかりきっている。幸村は、芽夢に優しすぎる。これで問い詰めたとしても、彼は平気で自分が勝手にしたことだからと言ってのけるだろう。けれど、彼をそんなふうにしたのは芽夢自身だ。自分の弱さにかこつけていただけ。本当は、言いたいことも感じたこともたくさんあったはずなのに。幸村は優しすぎるから。それがいけないことだと、ずっと気付かないでいた。

水竿芽夢の心からの感情を言葉にしよう。
過去の自分を妬み、忌み嫌いながらも、ずっとそれを求めていた。あの頃のように走れたら、笑えたら、自分の気持ちに正直に生きれたら。それはもう長い間感じていたことで、実現できない自分の身体にも心の未熟さにも幾度となく理不尽な怒りを抱えた。その不完全な自分を愛してくれる人に縋って、心の拠り所にした。彼らも人間であり、不完全なものを抱えていると、そんな当たり前のことに気づこうともしないで。愛されたから愛したわけではない。けれど、愛してくれない誰かを好きになろうなんて、思おうともしなかった。今だって、もう自分を愛してくれないから雅人を切り捨てようとしているのかと、自分で疑ってしまうくらい。


「雅人っ…あいたかった…っ」


私は未熟だ。誰よりも。
私には彼だけだった。彼しか居なかったのだ。良くも悪くも、彼に盲信していた。それが、どれだけ彼の重荷になっていたかなんて私は死ぬまで分からないのだろう。彼にその痛みを与えたのは他でもない私で、それを与えられるのは後にも先にも私だけだ。そうであって欲しいと思う。雅人は私を恨まない。私が恨まないから。そういう人だ。
終わった関係だとしても思う。水竿芽夢を誰より愛していたのは、日高雅人だった。


「わたしっ、すごく幸せだった…でも、雅人の幸せなんて考えてなかったのっ」
「ははっ、芽夢は不器用だもんなあ」
「っ、ごめんなさい、幸せにできなくて…ほんとに…っ」


泣きたくない。この人より先に泣きたくない。私が泣いたら、この人は最後まで強がるばかりだと容易に分かるから。この人が強がる分だけ、私も強い私で在りたい。虚勢でも、子供じみた意地でも、この人が与えてくれるもの全部、私も返したい。取り入るためじゃあない。見捨てられないように必死になっていた私とは違う。初めて、今になって漸く、私はこの人のために何かしたいと、本気で思って。

だけど、もうそこに愛はない。
私自身の、幼い日々を彷彿とさせる太陽の色をした髪がそう訴えている。


「芽夢」
「……っ」


きっと、どれも間違いではなかった。私と彼にしか有り得ない形の愛が、確かに存在していた。それだけは嘘ではない。
まるで最後とでもいうような、あまりに優しい雅人の声色。ぐらぐらと涙腺を揺るがすみたいで、思わず手のひらで口を覆った。今にも、嗚咽が零れ出しそうで。涙の膜が視界を歪ませる。見せたくなかった涙が零れるのを隠したくて、差し伸ばされた大きな手を通り抜けて彼の首にすがりついた。逞しい肩口に目元を押し付けて、涙で彼を濡らした。
最後の、彼の体温。


「ありがとうな、芽夢」


溶けてしまいそうなくらい、全てが暖かかった。
言いたいことも、聞きたいこともまだたくさんあった。けれど、肩を押して離されれば、すぐそこに優しい笑顔があったから。言えなくなってしまったんだ、何も。


「俺が初めて惹かれた時のおまえと、良く似てる。似合ってるよ」


最後に、ついさっき色を変えたばかりの私の髪を撫でて、彼は私から離れた。私が何を思って、あの頃と同じ自分の姿を求めたのか、彼には分かってしまったのだろうか。似合ってる。そんな簡単な一言だけで、ずっと重荷だった過去の自分を許せるような気がした。……否、そうではない。あの頃の私に、"今"を許されたような。
頬に伝った涙を指先で拭う。ほんの少しだけマスカラの黒の混じった雫。まるで自分の中の汚いものが流れていくようだった。笑顔の彼に促されてゆっくり振り向けば、何も言わず今までずっと見守ってくれた、その人が居る。深い藍色の髪を揺らして切なそうに笑う顔。それでも、彼は逃げも隠れもしない。私の憧れた、とても強くて、脆い人。


「…いいの?」
「ゆき、むらさん」
「俺と一緒に、帰ってくれるの?」


答えなんて分かりきっている。彼もそれを知っているはずなのに、それでも不安げな顔をさせてしまうのは、今までの自分の不甲斐なさのため。大好きな人を安心させてあげることさえ、今の自分には出来ない。一度なくした信用も、深く与えた心の傷も、簡単に埋まるものではない。だからこそ、たくさんの時間をかけて、今まで出すことを恐れていた誠意を全て持って、彼の手を取りたいと、思った。否、たとえ手を伸ばされなくても、自分から駆け出すことは、もう怖くない。


「帰りましょう。幸村さん」


それに頷いて、差し出した手を覆った大きな手のひら。その顔が、どこか泣きそうに見えたのは、間違いではない。

同じ歩幅で歩く。自然とペースを合わせてくれる彼の横顔は、もう病室に居た時とは別人のようにまっすぐ前だけを見据えている。あのあと、すぐに離された手は互いに伸ばすことなく、一言も言葉を交わさないまま病院を後にした。それでも、居心地の悪い沈黙とは違う。


「ねえ」


不意に、立ち止まった横断歩道の前でかけられた声に隣を見上げれば、こちらを見ないまま幸村はほんの僅かに視線を落とす。迷いのない声で相槌をうつと、彼は再び口を紡ぐ。微かな呼吸音が街中の騒音に紛れて聞こえる中、稍あってから幸村は十数分振りに芽夢と視線を通わせた。


「髪、どうしたの?」
「…染めてみました、アッシュは不評だったので」
「そうじゃないだろ」


はぐらかすな。そう言いたげな顔をしていた。
遠い日を思わせる色。今までずっと、忘れていようとしていた世界、記憶。忘れてしまいたかった。叶わない夢なんて、消えてしまった栄光なんて。いつも誰かに賛美されていた水竿芽夢は、今の自分からはあまりにも大きすぎて、ただただ全てに怯えていた。
忘れることで、小さな自分を守っていた。あなたは、もう分かっているのだろう。幼い日を覚えていないのは、思い出したくなかったから。輝かしい功績、多くの人に羨まれた能力、初めて自分とチームメイト以外の誰かのためにプレーした十四の夏。その全てが、自分の中の奥深くでくすぶっていた記憶だ。


「私、馬鹿だから」
「うん」
「一人で考えたら、また間違えるから」
「うん」
「だからせめて、自分を隠すのは止めようって」
「うん」
「受け止めてくれるのは、世界に一人だけじゃないって分かったから……幸村さんが、居てくれたから…分かったんです」


自分を卑下してばかりの生き方も、自分を認められないままでいるのも、止めたいと思えた。誰かに愛されたい。誰かを愛したい。それと同じくらい、本当はずっと、自分を愛して、許したかった。長い間、誰かに守られて殻に閉じこもっていた。そこから引っ張り出してくれたのは、傷付いてでも水竿芽夢を諦めないでいてくれたのは、他でもないこの人だった。
ずっと、怖かった言葉がある。全てを壊してしまうようで、それでも抑えることのできない激情のような、たった一言。


「幸村さん、……大好きです」


本当は、もっと言わなければならないこともあったはずだ。言いたいことよりも、優先しなければならないこと。今まで彼に辛い思いをさせたこと、自分を守ることしか考えられなかったこと、目の前にあるもの全てを天秤にかけることでしか向き合えなかったこと、それ以外にも、まだまだ、たくさん。
だけど、もう未来は限られてはいない。強く望んだ分だけ、立ち向かいたいと訴えた分だけ、道は途絶えない。


「たくさん、ごめんなさい。もう、しないからっ、また、迷うかもしれないけど。でも、もう逃げないから、自分のためにもっ」


だから。


「許して、ください」


そんな一言なんかじゃ、語りきれない。分かっている。けれど、これが最後ではない。これから、一生をかけてでも償うことが、今なら出来る。彼の隣に、並ぶことが出来る。


「…すぐには、許せないかもしれない」


それで、良い。今まで自分がしてきたことを、忘れてしまわないように。


「今も、正直信じがたいものがあるし。ごめん」


謝らないで、ほしい。自分の間違いが霞んでしまいそうになる。だけど、彼の言うことなら全て受け入れたい。


「だから、」


何を迷っているのだろう。何に戸惑っているのだろう。どうか、その全てを明かしてほしいと、我が儘だから考えてしまうのだ。視線を地面に落として、切なげに唇を噤む彼の、その手を迷わず取れたらどんなに良いか。そう、彼の横顔を眺めながら思っていた芽夢の手のひらに、そっと温もりが触れる。体温をなぞるような、頼りない触れ方に指先が僅かに震えた。まるで心の声を読んだみたいなタイミングに、戸惑いが隠せない。それとも、自分と同じように、彼も思っていてくれたのかと、期待してしまう。


「ここに、いてほしい。もう疑う余地もなくなるくらい。芽夢に」
「はい」


迷うことなんて、何もない。


「許してもらえるまで、ずっといます」
「…はは、どうしよう。一生、許したくなくなりそうだ」
「じゃあ、一生そばにいなきゃ、ですね」
「っ」


短く息を呑む声。不意に背けられた顔が見えなくても、ほんの僅かに肩が震えているのが分かる。泣くのを、堪えようとしてくれている。こんな、狡い女のために。愛しいと、思った。しがらみも、それまで怖くてどうしようもなかった他人の目も忘れるくらい、ただ愛したいと思えた。彼を、幸村精市ただ一人だけを。

そっと、触れるだけだった指先を、ほんの少しの力で握ってみる。視線を合わせないまま、長い指が手のひらを滑って絡まる互いの指。そこから伝わる熱の心地よさに、こちらまで泣いてしまいそうになる。


「君が、昔の君を好きになれるように、そばに居させてほしい。昔の君に許してもらえるまで、何でも話してほしい」
「…はい」
「どちらも、俺にとってかけがえのない、大切な女の子だ」
「っ、はいっ」


ありがとう、とそう言いたいのに。それは今は違う気がして、まだ何もかも早すぎる気がして。

まだ、始まってもいないんだ。私たちは。幕を開けないまま、優しい童話に自分たちを重ねて、幸せを探していた。叶わなければ自分を慰めて、辛い思いをしたら絵本の表紙を閉じて、目を背けていた。夢を語るばかりの、幼い子供のように。

だから、私からの本当の「ありがとう」は、物語の幕を閉じるその時に。涙と、何にも代われない笑顔を供にしながら、伝えたい。
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