U・シンデレラヴィジョン | ナノ



東京の総合病院。いつか自分が入院していた場所ではなくても、その白く聳える外装に全くの不安も感じないと言えば、それは嘘になる。
来たる12月24日。街はすっかりクリスマスムードのイルミネーションに彩られ、子供から大人まで浮き足立つ日。この日ばかりは、この病院という場所も普段とは違った明るさを纏わせている。中学二年の時の自分には、それが随分と煩わしかったことだけはぼんやりと覚えている。笑顔と涙の絶えない場所。ここはいつだってそういう場所だ。少し憂鬱になりそうな気持ちを心の奥底に据えて、その中へと踏み出した。
聞いた通りの部屋番号の掛けられた病室の前。名前を確認して、扉の前で小さな深呼吸。柄にもなく緊張している自分が、少しおかしかった。意を決して控えめなノックを送ると、すぐに低い返事が戻ってくる。そっと引いた扉は、やけに重い。もしかしたら、自分が入院していた時の真田達はこんな気持ちだったのかも知れない。


「失礼します」


それでも、俯くことなく扉を開けば、その先に浮いた白い空間の白いベッドに上体を浮かせて座っているその人は、居た。見覚えのない人間の訪問に、少なからず不審そうな顔をする男に一礼し、幸村は後ろ手に扉を閉めた。区切られた空間に二人。自分も彼と実際に対面するのは初めてだが、自分とはあまりに違う大人の風貌に息が詰まりそうになる。


「はじめまして。水竿さんと同じ大学の、幸村精市といいます」


まるで手本のような社交辞令な挨拶。ベッドに腰掛ける男、日高雅人は眉間に皺を寄せてしばし考える素振りをしたあと、思い出したように「ああ」と言ってみせた。


「君かあ、芽夢にやたらちょっかいかけてた先輩っていうのは」
「…は、」
「本当、あいつのどこが良かったんだ?俺だけかと思っていたんだけどな」


はい?思わず飛び出しそうになった声をすんでのところで飲み込んだ。そんな幸村を余所にけらけらと軽快に笑う彼は、幸村の中の印象とあまりにも似つかない。一瞬訪ねる部屋を間違えたのかとさえ思った。否、彼がおかしいのではない。自分が日高雅人という人間をあまりに知らなすぎたのだ。知ろうともせず、今まで頑なに避けて通っていた。大人で、水竿芽夢の恋人で、自分がどう足掻いても勝てない。そんな曖昧なイメージは、自分で勝手に線引きをして言い聞かせていただけにすぎない。ひとしきり笑い終えると、日高は緩く口角を上げながら幸村に向き合った。どうして、そんなふうに笑えているのだろう。今の口振りからして、幸村が芽夢の"何"なのかは知っているはずなのに。


「今日は芽夢は来ないのか?」
「…はい。話していないので」
「なるほど。それで俺に宣戦布告でもしにきたのかな」


まさか。そんなつもりは始めからない。迷わず首を左右に振れば、少し意外だったのか日高の表情が僅かに動いた。
どうして彼を訪ねたのかと言われれば、明確な答えはなかった。ただ、今を逃したら二度と彼に会うことはないと思った。だから来たのだ。


「俺は彼女を譲ってもらったなんて、そんなふうに思っていません」
「…そんなことか。分かっているよ、俺も譲ったつもりはない」
「だけど、芽夢もあなたを諦めたわけじゃ、ない」


自分で発する言葉を、こんなに重く感じることなんて今までなかった。間違えるかもしれない、自分が言っていることは、とんでもなく彼を侮辱することかもしれない、けれど。
この人に、理不尽な不満を抱いたこともあった。こうしてここに来ても、疑う気持ちを完全に拭うことはできなかった。この人は、芽夢を助けるふりをしてずっと自分に縛り付けていたのではないのか。何年も、ラクロスと自分自身の鎖であの弱い子を繋いでいたのではないだろうか。そう思ったことは何度もあったし、確証のない予想に勝手に怒りを感じたこともある。
だけど、違うんだ。きっと彼は、誰より水竿芽夢を愛していた。人間として、プレイヤーとして、たった一人の女性として。縛り付けていたんじゃあない、この人はずっと、芽夢を守っていたのだ。


「俺はこの先も、日高さんに完全に勝ることはないと思います。芽夢の中には一生、あなたという人間が存在し続けます」
「…買い被りすぎじゃあないか?」
「いいえ。それで良いと、俺は思うんです」


彼が芽夢を見つけなければ、今の彼女はなかった。夢が潰えて、ずっとそのままふさぎ込んでいたのかも知れない。
だけど、そんなことを言いたいわけじゃあない。彼の言葉の節々から分かる、限りなく穏やかな芽夢への愛情。それはきっと、芽夢も捨てられていないもの。彼と彼女の間には、誰も割って入れない。この人が、芽夢を愛してくれて良かったと思えた。ただの皮肉だ、下らない同情だと思われてもだ。自分はきっと、芽夢がどんな辛い思いをしてきたか知っていても心折れた彼女を救うことは出来なかっただろうから。芽夢にこの人が居てくれて、良かった。


「だから、本当はずっと会って話したかった。芽夢を見つけてくれてありがとうございます。俺は、心から彼女を想っています」


これが、今の自分の最大限の本音と、彼女への想いに対するけじめだ。
軽蔑されることも、自分が傷付くことも、怖い。一度全てを失いかけた時から、その恐怖に身を委ねて甘えていた。けれど、今はもう、守りたいものは自分だけではないから。大人な振りをして、本当はあの小さな女の子よりもずっとずっと怖がりだった自分から目を背ける理由も、もうないだろう?なあ、精市。だから、ここに来れたんだ。


「…ふはっ。面白いなあ、幸村君。それは俺に言うことじゃないだろ?」
「俺は、あなたにこそ言うべきだと思いました」
「ああ、そうか。なるほど、俺に一生独り身を決心させただけのことはあるな。幸村精市君」


その時、幸村は言いようのない違和感を覚えた。うっすら細めた目で幸村を見る彼の視線は、間違っても恋敵に見せるようなものでなく、当然のことながら良心的とも言えない。というより、人間と向き合う視線ではない。まるで、思い出でも語るような、視線が合っているはずなのにどこか遠くを見ているような。
何を言おうとしたのか自分でも分からないうちに口を開きそうになって、けれど飛び出しかけた声は突然室内に響いた振動によって呑み込まれた。「失礼」そう呟いて、日高は幸村から視線を外して手元の携帯を開いた。電源、切らないのか。そう思ったものの、自分も入院中の素行はあまり良くなかったのを思い出して妙に納得してしまった。メールが届いたのだろう、彼はしばらく携帯を操作して、それを閉じると小さくため息をついた。それから、再び自分に向き合って、幸村はぎくりと神経が張り詰めたのを感じた。


「実は、俺は君を知っているんだ」
「……え」
「と言っても、最近思い出したんだけどな」


なんだ、それ。そんなこと知らない。突然告げられたら言葉に、理解が追いつかない。思い出した、ということは随分昔のことなのだろうか。しかし、彼は芽夢とアメリカで過ごしていたはずだ。彼が立海大学の卒業生だという話は聞いたことがあるけれど、それも何年も前の話だ。自分のことなんて知るはずもない、のに。疑問と疑惑の両方を抱えて立ち尽くす幸村に、彼は小さく笑って見せると、ベッドの隣に備え付けられた簡易的な机に手を伸ばし、一冊の本を取った。桃色のカバーがかけられて少し古めかしい、いかにも彼らしくないそれに、幸村は訝しげな顔を晒す。


「芽夢が中学生の時の日記なんだ」
「芽夢の…?」
「ああ、入院していた時に私物をほとんど捨ててたんだが、その時に見つけてな」


黙って持ち出した。そう悪戯でもするみたいに笑った彼も、幸村の中のイメージとはそぐわなかった。何を考えているのか、それをそのまま差し出してくる彼に、幸村の戸惑いは深まる。正直、それを手に取るのは躊躇った。けれど有無を言わせず突き出してくる彼に、幸村は半ば諦める気持ちでゆるゆると腕を上げた。彼の手から受け取ったそれは、何だかとても重いような気がした。
七月の中旬、全国大会決勝の前日。彼に指定された日にちを辿ってページを捲る。曖昧な日付が分からず一枚ずつ捲っていく。今もそうだが、彼女の字はお世辞にも上手いとはいえない。汚い、というより下手なのだろう。そのため彼女はあまり他人にノートや手紙を見せたがらない。そのこともあって、余計に悪いことをしているみたいで何だか気が重い。けれど、好奇心が疼いているのも確かだった。そうしているうちに見つけた「明日は全国の決勝」の文頭に、ページを捲る手が止まる。一度顔を上げて日高を見れば、彼は静かに微笑んだまま続きを読むように促してくる。後ろめたい気持ちを拭えないまま、幸村は再び日記の文面に目を落とした。


『明日は全国の決勝。今までの力を全部出し切って最高の結果で夏をしめたい。それで、最高の思い出を残して、みんなとお別れしたい。全国優勝したら、アメリカに留学しようと思う。もしかしたら準優勝でも行くかもしれないけど、まあ今は勝つことだけ考える。ぜったい勝ちたい。このチームで最後の大会、死ぬ気でやる。勝ったらみんなでコーチにご飯おごってってお願いしてみよう。』


そこで一度、二行の空白を置いて文は途切れた。幸村はそっとページを捲って、次に現れた文面、そこに記されたある文字に目を見開いた。


『勝ったら、幸村くんの病室にトロフィー持っていく。余計なお世話だけど、今より嫌な思いをさせちゃわないか少しこわいけど、もしかしたら元気になってくれるかもしれない。テニスがんばってる幸村くんそんけいしてるから、がんばってほしい。私が勝手に思ってるだけだけど、幸村くんがまたテニス大好きになれるといいなって思う。明日は本当にがんばろう。』


なん、だ。これ。
幼い頃の芽夢の日記。その中に居るのは、自分が知らない彼女だった。それが一体誰なのか、本当に一瞬分からなくなった。幸村が知っているあの頃の水竿芽夢は、いつもまっすぐ前だけを見据えていて、自分のことなんて興味もなくて、そんな子だから憧れた。絶対に届かないところにいるから、ずっと遠くから眺めていたのに。この文の中にいるのは、誰だ。


「知らなかったかい?」
「…知りません。だって彼女、トロフィーなんて…」
「それは、君が自分の力でテニスに復帰したからだろう?それの後に書かれてた」


知らない、そんなの知るはずがない。ずっと憧れていた彼女は、まるでブラウン管越しに見ているみたいに遠い存在だったはずなのに。それさえも、間違いだったのか?本当はもっと近いところにいて、勝手に遠ざけていたのは自分の方だったのだろうか。
そうだとしたら、あの子は馬鹿だ。馬鹿、芽夢のばか。そんなの、言ってくれないと分からないじゃあないか。今になってこんなもの見せられて、待っていてなんて格好つけて言ったのを後悔するくらい、会いたくなるに決まっている。


「俺が初めて芽夢に惹かれたのは、その決勝の試合だった」
「え?」
「たまたま観戦に行った大会で、芽夢を見つけた。誰より小さくて、誰より輝いているプレーに一目惚れしたんだ。どうしてそんなに輝いているのか、何のために走ってるのか、俺はアメリカで再会してからもずっと、知りたかった」
「……」
「だから、芽夢が捨てようとしていた荷物の中からそれを見つけて、芽夢が誰のためにプレーしたのかを知った。うらやましい、って思ったね」


芽夢の中学最後の夏は、少なくとも幸村君のためのものでもあった。
そんなことを言われて、平然としていられるものか。
あの年の夏、幸村が戦ったのは自分と、自分を支えてくれた仲間のため。そして、芽夢の言葉に応えるため。それと同じように、彼女も少しでも自分のことを想って試合に臨んでくれていたのだろうか。結果的に噛み合わなかった遠い日の感情が、何年も経った今になって。


「俺は今までコーチとして、恋人として芽夢の全てを受け入れてきたつもりだ」
「……はい」
「だが今は違う。もしこの先、またあいつのコーチとして支えることが出来ても、寄り添うことはない」
「……はい」
「ラクロスを失いかけている俺から、芽夢まで奪った責任を、君は取れるのか」


言うまでもない。そんな覚悟を、出来ないままこの場所に来るはずがない。


「芽夢は俺の最初と、最後の女性です」


随分と遠回りな道のりだったけれど、その思いに偽りはない。最初の感情を教えてくれたのは芽夢で、手を伸ばしても届かない焦燥感、突然消えてしまった喪失感。離したくないくらい愛しい熱も、自分が自分でなくなるような熱情も、与えてくれたのは彼女だ。もう彼女の面影を追うのも、忘れることに必死になるのも止めよう。最初で最後にはならなかった。けれど、その全てをこの身に抱えて、彼女にとっての最後の男で在りたい。


「幸村君。芽夢を見つけてくれて、ありがとう」


幸村の言った言葉をそのまま返して、日高は微笑んだ。その意味を理解したら、こんな歳にもなって泣きそうになる。胸の底から込み上げてくる感情を押し込みながら、幸村はそっと口を開きかけた。
言葉にならなかったのは、突然飛び込んできた物音を感じ取ったからだ。ばたばたと、廊下を駆ける足音。稍あって、ノックもなしに勢い良く開け放たれたドアの音に、幸村は肩を跳ねさせて振り返った。


「、……え…」
「っ、は…はぁっ……ゆき、むらさ…」


飛び込んできた小さな影に、幸村は言葉を失った。息を切らせて自分の名前を呼んだのはたった今強く恋い焦がれたばかりの、雨露を浴びたひまわりのように艶やかに滑る髪を靡かせた、彼女だった。
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