U・シンデレラヴィジョン | ナノ



さあ、何分保つだろうか。状況と思考に反して、幸村の本能はその瞬間を楽しんでいるようだった。大切な子を取り戻せる喜びでもなく、圧倒的な力の差に優越感を覚えるわけでもなく。ただ、この男に対して本気で潰しにかかれるこの状況が、楽しかった。


「…はっ、はあっ…っう……」
「呆気ないな。もう少し食いついてくれば良かったのに」


なんて、聞こえてないか。
ひれ伏すようにコートに膝を付いて小さくなっている男。そしてそれを見下ろす幸村に注がれる周りからの視線が、限りなく恐怖に近いものだと分かる。たった一度のポイントも譲ることなく、試合は幕を降ろした。それは河野にとって最悪の形だっただろう。大学に入ってから、五感を失う恐怖を味わった初めての人間だ。その恐ろしさはとても言葉で言い表せるものではないだろう。


「…ちょっと、やりすぎなんじゃないか?」
「うん…河野はほとんど初心者なのに…」


ああ、ほら。きっとそんな言葉が投げかけられると思っていたのだ。だから、今まで真田や柳以外に対等に向き合えなかった。ここは、勝つテニスをする場所ではない。中学三年のあの大会以来、勝つだけが全てだという考えは変わった。けれど、勝利への貪欲さを捨てたわけではない。だからこその、高校インターハイの三連覇がある。それが、この場所では通用しない。本気になれないことへ感じていた苛立ちだとか、不満をさらけ出すことも出来ないまま二年が過ぎようとして、もうあの頃のようなテニスは出来ないと思い始めていた。
笑える話だ。今も自分は、大好きなものに対してどうしようもないくらい貪欲だ。


「っは、意味わかんね…化け物かっつの…」
「…負け惜しみかい?往生際が悪いな」


見下ろした状態のまま、未だ荒く呼吸を繰り返す河野に投げかけるのは氷のように冷たい言葉。がちがちと震えている拳を握りしめ、ゆっくり顔を上げた河野の視点は危なげなくゆらゆらと揺らいでいる。徐々に五感が戻りつつあるようだったが、まだ立ち上がることさえ出来ない。


「バッカじゃねえの、テニスで勝ったらどうにかなると思ったわけ?どんだけ幼稚なんだっつの、俺は…っ」
「そこまでだ、河野」


減らない口だ。呆れかえってため息をつくより早く、河野を遮ったのは第三者の声。何とか聞き取れたらしいそれに、河野は訝しげな表情で振り返る。コートの外、フェンスの前に佇む男、真田弦一郎は河野を静かに見据えると、静かにその手にある携帯電話を折り畳んだ。


「たった今、蓮二から連絡が入った。おまえの自宅から、複数の薬物らしきものが見つかったとな」
「……は」
「年貢の納め時だ、河野」
「っざけんな…勝手なことしやがって、不法侵入なんて立派な犯罪じゃねえか…!」
「っ…ふふっ、いやだなあ河野」


立てるなら今にも殴りかかってきそうな形相の河野を前に、小さく肩を震わせて笑いを零せば、そのままの表情が真田から幸村に向けられる。


「もちろんご両親からの許可は貰っているさ。おまえは、俺たちの可愛い後輩…だろう?」


その瞬間の、そいつの絶望に満ちた顔をこの先忘れられないだろうと思った。

結局最後まで立ち上がることの出来なかった河野を一瞥し、幸村は真田に背を押されコートを去った。向かうはただ一人、約束を果たしたことを伝える人のもとへ。


「ゆきっ、むらさ」


一方的なメールで呼び出して、律儀にその場所で待っていた彼女の姿を見つけた。こちらに気付いて名前を呼んだ彼女の腕を掴んで、そのまま目の前の教室に引っ張り込んだ。急な方向転換に彼女が足をもつれさせているのにもお構いなしで、慌てたように何度も名前を呼ぶ声ごと、抱え込んだ。小さく息を吸って黙り込む小さな身体。前々から思っていたけれど、この子は驚くといつもがちがちに固まってしまう。


「…ゆ、幸村さん…?」


それでも、馬鹿正直な芽夢は背に手を回してくれるから、その温もりから逃げられなくなる。逃げるつもりなんて、もう少しもないけれど。自分よりずっと小さな身体をぎゅうぎゅうに抱き締めて、潰れちゃったらどうしよう、なんておかしなことを考えて。


「ごめん」


縋るように灰色の頭を抱き込みながら呟く。多分、彼女はその意味なんてわかっていないのだろう。悪いのが自分だけだなんて思っているであろう彼女には。馬鹿で素直で怖がりで、だけどひねくれ者な寂しい子。


「ごめん。芽夢」
「な、なんで幸村さんが…」
「今まで、嫌なことは全部君に押し付けてきた。逃げていたのは俺の方だったみたいだ」


自分でさえ気付かなかった。良い人の振りをして近付いて、被害者面して都合の悪いことは全部彼女に背負わせた。一番安全な場所で、一番大切にしたかった女の子が傷付くのを傍観するばかりだった。気持ちを伝えたことで苦しんだのは誰だった?恋人を裏切った時に罪悪感に苛まれたのは、逃げ出した俺の分の罪まで背負って必死になったのは、自分を省みなくなるくらい追い詰められていたのは。そんな彼女に甘えて自分が加害者であることさえ知ろうとしなかったのは、俺じゃないか。


「もうしない。自分の気持ちを隠さない。胸を張って、君に好きだって言えるように、俺も頑張るよ」


だから、もう少しだけ時間をくれないか。
離すのが惜しい身体と両手で距離を置いて、そう言えば芽夢は視線を逸らすことなく頷いた。一体どれくらい、何を待てば良いのか分かっていないのだろう。それでも、信じてもらえる。その事実を感じさせる芽夢の迷いのない返事が心地いい。だから余計に、もう甘えてばかりはいられない。自分が苦しくても、柳や真田を巻き込んででも、偽善者の皮を被って彼女に接するなんて出来ない。誰に疎まれても、だ。好きだから向き合う。幼い頃の君が、俺に教えてくれたことだ、だから。

もう、迷いはない。俺自身にも。
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