U・シンデレラヴィジョン | ナノ



がしゃん!
あ、今の隣まで聞こえた。なんてぼんやりとした頭で考えながらも、振りかざした手は止まることを知らない。遠慮なく投げられた鞄は机の上の物を巻き込んでひっくり返り、部屋一面に筆記用具やテニスボールが転がる。走ったわけでもないのに乱れた呼吸を繰り返した。苦しい。あれからずっと、息が出来ない。ふとベッドを見れば、枕元には中学生の頃に買ったテニスの専門書や母が「精市が載ってたのよ」と言いながら押し付けてきたテニス雑誌が積み上げられている。ついこの間、中学生の時を懐かしむように眺めていたそれらが、無性に腹立たしかった。そう思ったらもう手は止まらなかった。片手で殴るように本の山を崩せば、もう部屋は空き巣にでも荒らされたような惨事に変わった。そんな光景を部屋の真ん中に突っ立って眺めていると、不意に控え目なノック音が飛び込む。振り向いて扉を見つめれば、ほんの少し開かれたそこから小さな顔が覗く。


「おにぃ…どうかした、って…何これ」
「…美里」


幸村美里。二つ下の、氷帝学園に通う妹だ。高校生らしい多忙さに追われる彼女の顔をちゃんと見るのは久しぶりな気がしたものの、この部屋の有り様を見て動揺している彼女に、僅かな煩わしさを感じた。昔から変わらない「おにい、ねぇおにい」という呼び名を聞くだけで身体の奥がじりじりと焼けるようだった。「ちょっと躓いたんだ」そう、自分らしくもないあからさまな言い訳をして、妹がそれに気付いて不満そうな顔をしたのには知らない振りをした。無理やり納得したように頷いて部屋を出て行く妹を見送って、幸村は一拍置いて深く呼吸をしようとして、詰まった。息が苦しいのに、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったみたいにどうしても上手くいかない。割り切れよ。そう、心の中で冷静な自分が訴えているのに、そんなに簡単なら苦労はしないなんて自分自身に言い訳している。
大好きな子が、ずっと諦めていた子が、やっと自分を見てくれて、一番近いところに行けたと思ったのに。それは思い過ごしで、勝手に舞い上がって。それどころか、騙したと言った彼女に怒ることさえ出来なかった。彼女の言うことの何が本当で何が嘘なのかなんて、そんなこと考えることすら馬鹿馬鹿しい。あの子は、自分の意志で俺を捨てたんだろ。


「、…っ」


苦しい。息の仕方が思い出せない。助けて。そばで、背中を撫でてよ。芽夢。
ああ、違う。駄目だ、忘れないと。やっと、あの子への気持ちを誇れると思ったのに。そんなふうに縋っているから、何も見えないんだ。あんな、あんな最低な女、さっさと忘れないと。
考えてみれば最初からそうだったじゃあないか。あいつは誰だって良かったんだ。自分を慰めて、馬鹿みたいに弱いところを隠してくれる人なら、誰でも。そんな簡単なことにも気付かないで、振り向いてもらいたいなんて中学生の初恋のままみたいな青臭い理由でしつこいくらいに構って、好きになってくれたものだと思い込んでいただけ。馬鹿なんてものではない。愚かだと笑われても何も言えやしないではないか。馬鹿らしい。彼女のせいで傷付くのも、悲しむ時間も無駄でしかない。最初から、何一つ交わってなんかなかった。


「…………片付け」


しないと。と、そこまで言葉にするのも億劫だった。ふと部屋を見渡して、さすがに奇行としか思えない状態に頭が重くなる。物に当たってどうにかなるわけでもないのに。もともと部屋を綺麗に保つ方ではなかったにしても、この有り様は妹に引かれても文句は言えまい。けれど、何か物に当たる以外に鬱憤を晴らす方法が浮かばなかったのも事実。今になって、気分が少しも軽くなっていないことに後悔した。手間は増えるし、気分も悪いまま。こんなことなら勢いに任せた行動なんてするんじゃあなかった。とにかく、こうやって突っ立っているわけにもいかない。浅はかな自分にため息をついて、膝を曲げた。とりあえず、散らばった本をかき集めて小脇に抱える。タイトル順に合わせるのは、また今度で良いからとにかく片付けてしまおう。


「あ」


そう思って、数日前までその本が収まっていた本棚の前に立って視界に入ったものに思わず声が上がった。本棚の上に、見えた白。本の角のようなそれには見覚えがあった。
…中学生の、卒業アルバム。そういえば本棚に入らないからとその上に乗せていたのを思い出した。卒業した後には良く眺めていたそれも、年を重ねるごとに忘れていって最近では年末の大掃除で発掘するくらい記憶から薄れていたものだ。今、そんなものを見たところで傷は深まるだけだ。そんなこと、考えずとも分かるはずなのに。自分はあの子から逃げたいのか、それとも縋りたいのか。分からないから、だから自然と手がそれに伸びていった。少なくとも、一年近くは放置されていたアルバムは埃を被っていて、本棚から下ろすとそれが少し舞った。その表紙が、まるで何年もずっと見ていなかったみたいな懐かしさを感じさせるのは、もう二度と会えないと思っていた彼女にまた巡り合ったからだろうか。
もう、昔のことだ、だから。そんな、自分のためだけの言い訳を並べて、そっと指先で表紙を開いた。ゆっくり、探るように自分のクラスまでページを捲って、自然と視界に入る眩しい金色に触れた。水竿、芽夢。そこに刻まれた名前をなぞって、またページを捲れば集められた思い出の写真の中には、あの頃にひたすら目で追っていた笑顔があった。まだ挫折も、試練も、苦しいことを何も知らなかった頃の、太陽のような女の子。何年も前の幼い自分は、この笑顔に、小さいながらにも真っ直ぐ凛と伸びた背中にどうしようもなく憧れた。いつしか恋に変わったそれは、散ることもなく心の中で色褪せていって。もしも、彼女がこの写真に写る太陽のような姿のまま再び出会っていたら、あんなに近くに居れたのだろうか。頼られることがあったのだろうか。こんなに、あの子を好きになることが…。


「っ、」


また、息が詰まる感覚。無意識に揺れた肩と震える指先。その振動で、開いたページの隙間からちらりとオフホワイトが覗く。それは幸村の視界で、軽やかに舞ってかさりと音を立てて床に落ちた。二つに折り畳まれた紙。切り取ったスケッチブックのページのようだった。こんなもの、いつ挟んだのだろう。そっと床に膝をついて、何気なく開く。それから、後悔した。
2003年3月1日。そう記された小さな日付。それと、その中央に描かれた小さな少女の横顔。耳にかかって肩から流れる長い髪、少し丸まった背と、頬杖をついて膨れた頬。決して振り向かない、ガラス玉のような瞳。全部が全部、あの頃目で追っていた水竿芽夢のものだ。白黒のまま、命を吹き込まれることのなかった古ぼけた一枚のスケッチ。卒業する前、最後に描いた芽夢の姿だ。こんなもの、まだ残っていたなんて。こんなストーカーみたいな行為、誰かに知れたらと案じて捨てたつもりだったのに。この一枚だけ、まだ家に残っていたのだろう。それとも、捨てられなかった?
こんなもの、何の意味がある。今すぐ握りつぶしてしまいたくなって、けれど手に力が入らず紙にはいびつに皺がつくだけ。忘れたい、依存したくない、失いたくない。なのに、どうしてこの手は思うように動いてくれないのか。自分の中でぐちゃぐちゃに混ざる葛藤も、容易に浮かぶあの子の笑顔も煩わしい。さっさと消えてしまえばいいと、思うのに。自分じゃあどうしようもないなんて。
あんな女、忘れてしまえ。慰めてくれる男なら誰でも良いような最低な尻軽女じゃないか。今まで馬鹿正直に想っていたのがおかしいんだ。気持ち悪い。もう顔も見たくない。本気でそう思った。だから。


「幸村。急に家に来るとは、何かあったのか」
「うん、ちょっと。庭貸してくれないかな」


あれから、すぐにひっくり返った鞄から携帯を取り出して真田に連絡を取った。今から行くから、家に居てくれと。夕飯時に迷惑かも知れないという考えは、慣れ親しんだ彼だからだろうか、頭から飛んでいた。律儀に玄関先で仁王立ちして待ち構えていた真田に、手短に要件を伝えれば「庭?」と訝しげな表情でオウム返し。


「焼きたいものがあるんだ。昔やっただろう?いらなくなった絵本とか服とか供養代わりにさ」
「…それは、その紙袋の中のものか?」
「ああ。だからちょっと借りるよ」


玄関の前に立ちはだかる真田の脇をすり抜けて、幸村はまっすぐ庭へと向かった。がさりと音を立てる紙袋に真田の視線が集中していると気付いても、振り返らない。庭の真ん中に立って、紙袋の中身を取り出せば真田の目の色が変わった。


「卒業アルバムではないか。そんなものを簡単に焼くなど、俺は賛同できんぞ」
「良いんだ。俺なりのけじめだから」
「けじめ…だと?」


理解できないといったふうな真田。この男は、いつもこうだ。無意識で人に干渉してくる。それが心配や親切心からだとしても、だ。真田のこういう態度は馬鹿と言っても良い。馬鹿正直な人間だ、真田弦一郎という男は。だから、こちらまで馬鹿正直に向き合わないといけないような気にさせられる。短く息を吸って、幸村は真田に笑ってみせた。


「水竿芽夢のことは忘れる。無駄な足掻きは止める、もう関わらないことにしたんだ」
「…それは、どういう意味だ」
「別に。俺が惚れたのはどうしようもない奴だったって、やっと気付いただけだよ」
「幸村」


うん、なに。そう、なんでもないふうに返した。実際、その心構えに抜かりなんてないつもりだ。けれど、幸村の名を呼んだ真田の方は困惑しているのが良く分かる顔をしていた。中学生の時も、今も、幸村が誰かを追いかけていたことはいつの間にかこの男に知れていた。直接的なことを言わなければ絶対に分からなそうな真田が、だ。今まで芽夢を想ってきた時間と態度を考えれば、真田がそんな不可解そうな顔をするのも頷ける。


「おまえは、自分が何を言っているか分かって」
「当たり前だろ?俺自身が決めたことだ」
「そうではない。水竿がどうしようもない奴などと、本心で言っているのか」
「…それこそ、真田は自分の言ってること理解しているのか?おまえが、あの子の何を知ってる?」


知るはずがない。真田と彼女が会った回数なんてたかが知れている。彼女が自分に言ってきたこと、行動、何も知らずに軽々しく口を挟まれて、幸村は僅かな苛立ちを感じた。それでも、自分の前に立ちはだかるこの男をどうにかしないことには、わざわざここまで卒業アルバムを抱えてきた意味がない。


「…水竿さん、俺はもういらないんだってさ」
「それは水竿本人に言われたことか?」
「違うけど、そういう意味だろ。本当、あんなとんでもないビッチだとは思わなかった、騙されたよ」


表面にまんまと騙されて、被害妄想なんて醜いけれど、これはどう考えても自分が被害者なはずだ。だけど傷付かない、嘆かない。彼女への未練を綺麗に消すために、思い出を燃やしに来たのだから。もう二度と近付かない。会いたくないし、顔も見たくない。人を散々馬鹿にしておいて笑っている顔なんて、絶対に見たくない。だから、全部なかったことにしてしまおうと思ったのだ。


「心にもないことを軽々しく口にするな」
「…心にもないだって?いい加減にしてくれないか、これは自分の意思で決めたことだ」
「ならば、今の言葉もおまえの本心だというのか?水竿がどうしようもないふしだらな女だと…おまえが心を許したのは、そんな女だったと言うのか」
「っ、そうだよ。悪かったな女を見る目がなくって、だけどそんなこと真田に言われる筋合いはっ」
「戯け者がッ!」


突然怒鳴り声を上げた真田に、苛ついていたのも吹っ飛んで肩が揺れた。一体何を怒っているのか、戯けたつもりなどどこにもないのにまるで言いがかりをつけられたみたいで、無意識に眉間に皺が寄る。横目で睨み付ければ、普段ならそれだけで言いよどむはずの真田は今回は怯みもせず鋭い眼光で貫いてくる。


「幸村、何故自信を持って信じてやれない、本音を隠して諦める必要がどこにある」
「っだから、余計なお世話なんだよ!」
「ならば、自ら己と向き合わんでどうする」
「何度も言わせるな、これは俺の本心だ!何も知らないくせにっ」
「知るものかッ!!」


瞬間、視界がぶれた。首が絞められるような息苦しさに、目の前の男に胸倉を掴まれたのだと悟った。一気に近くなる真田の顔は、恐ろしいほど眼光が研ぎ澄まされ、射抜かれるというより心臓ごと掴まれたように錯覚する。けれどすぐに、不快感に眉を顰め睨み返す。離せ。そう意味を込めながら自分に伸びた真田の手首を握り締めても、この男は離すどころか力を緩める素振りすら見せなかった。


「おまえの抱えているものなど、おまえ自身にしか分かるはずがないだろう」
「っ、」
「だが、おまえという男を俺ほど知る者は他にはおらん!」


息が、詰まる。いや、今まで出来なかった呼吸が一気に通ったような。一瞬で視界がクリアに晴れ渡ったような感覚に、自分で理解が追いつかなかった。こいつなに自意識過剰なこと言ってるんだ。そんなのおまえの我を押し付けただけじゃないか。そんな文句が脳裏を過ぎゆくのに、どうしても言葉にならなかった。


「幸村、おまえは逃げている。何故逃げる。中学生の時からおまえは、水竿から逃げてばかりだった。俺にはそれが理解できなかった」
「…逃げていたわけじゃない。近付きたいと思わなかっただけだ」
「その言い訳を、三年以上も自分自身に言い聞かせて、何か得たものがあったというのか。何故自ら踏み出さない、何故自分を理解しようとしない!」
「っ、だってっ」


あ、だめだ。でも、止まらない。


「仕方ないだろっ!あいつは最初から俺なんて見てなくてっ…居なくたって変わらない!その程度の存在でしかなくて、だからっ」


追いかけなければ、変わらないのは分かっていた。だから諦めたんだ。どんなに見ていても、自分のことを覚えているかも分からない相手に後先考えず手を伸ばすような勇気がなかった。ずっと憧れでいてほしい、それは本心であり、自分へ向けた最大の嘘だ。
あの子が憎いわけでも、騙されたことか悲しかったわけでもない。待っているなんて言って、常に一歩後ろで突っ立ったままで、遂に最後まで自分から求められないまま失ってしまった自分が許せなかった。もしかしたら、あと少し先に進む勇気があったら違っていたかもしれない。昔も今も、そんなふうにしか考えられないことが惨めで、忘れてしまいたかったのは芽夢ではなく弱い自分だ。誰にも、自分自身にも絶対に明かしたく部分を、こんなふうに真田に晒しているのが我が儘な子供のようで逃げ出したくて仕方ない。芽夢から逃げたとき、みたいに。


「だが幸村、今は違うだろう」
「……今…」
「おまえは水竿に近付くことを水竿自身に許された。そのことに誇りを持て。己を偽ったまま、それがおまえという男なのか、幸村精市!」


そっと、襟元を苦しいくらいに掴んでいた手が離れる。情けなくふらついた足に、宙に浮いているような錯覚さえ起こした。
本当は分かっていたのだろう?あの子を弱いと言って、全部許す振りをして取り入ろうとしていた。優しくする代わりに好きになってくれと、そういうことを考えてあの子にとっての良い人を纏い続けた。待っていると言って、期待させてなんて非難して、ずっと受け身のままでいたのは自分の方ではないか。いつも、いつも辛い思いをして行動に出る彼女を待っていた。だから自分から動く方法が分からない。彼女の嘘くらい、見抜けないはずがないのに。本当に卑怯なのは、弱いのはおまえだろう。幸村精市。


「……真田」
「む、……っ!?ごほっ!」


小さく名前を呟いて、律儀にも返事をしようとした真田の無防備な胸板に思い切り拳を入れた。途端にふらついてせき込み出す真田を見て、ざまあみろと思う自分は相当ひん曲がった性格をしていると思った。


「俺相手に、しかも芽夢のことで説教なんて良い度胸だな。弦一郎」
「っ、…幸村」
「いつから知ってた?俺と彼女のこと」
「、それは」
「どうせ蓮二の差し金なんだろ、おまえに連絡したのが迂闊だったな」
「…俺は、まあ、つまりだ。幸村と水竿のことのような、そういった事情に正確なことを言える自信がなかったのだ」


真田が、自分を劣っているように言うのは珍しいと思った。けれど、話題が話題だけに妙に納得できてしまって、ついつい含み笑いをすれば不満そうに真田の眉間に皺が寄る。けれどまあ、人のプライバシーを勝手に露見させたことへの腹いせということにでもしておこう。
考えてみればあまりに単純すぎることだった。真田に連絡したのは、誰かに止めて欲しいだけだった。彼女を信じ切る勇気のない自分を、線引きした場所から動かない癖に被害者面ばかりする自分を、真田なら殴ってでも振り払ってくれるのではとどこか期待して。
本当、羨ましいくらい真っ直ぐな馬鹿だ。


「む。どこへ行くのだ、幸村」
「ここでの用は済んだから。突然邪魔をしてすまなかったね」


真田にひっつかまれて乱れた襟元を片手で整えて、踵を返す。「卒業アルバムは持って帰るのか」と分かりきったことを敢えて聞く真田に、嘲笑するように軽く笑った。左手に提げた紙袋。さっきまで恐ろしく重かったのに、今は何故かそれを感じない。


「うそつきなシンデレラに、真田の馬鹿正直になる魔法を分けてあげに行かなきゃね」
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -