U・シンデレラヴィジョン | ナノ



「精市くん」


それを水竿芽夢のものだと一瞬間違えてしまうくらい、自分の頭の中はその子のことでいっぱいなのかも知れない。彼女はそんな呼び方をしたことは一度もないのに、ずいぶんと都合の良い思考回路だ。まあ、今更だが。
名前を呼ばれ振り向いた先に立っている、背の高いすらっとした女性の姿に幸村はまばたきをした。半透明の手提げ鞄の中にうっすらと見えるファイルやら教材を抱えて、幸村のすぐ目の前まで歩み寄ってきた彼女は、久しぶりと自然な笑みをこぼした。


「まこと…何か用かい?」


柳原まこと。忘れもしない、高校三年で廃れていた自分を拾ってくれた、あの優しい女の子だった。別れてからというもの、会話どころか目を合わすこともないまま…なんてことはなく、関係が終わった後も彼女とはそれなりの友人関係を続けている。それは彼女らしい自分より他人という大らかな性格があってこそだと思っている。振られた奴より振った奴の方が居心地は悪いものだ、と誰かに聞いたことがある。それを考えると、彼女は本当にどうしようもなく良い人、なのだろう。あの、と言葉を紡ぐ彼女を、ゆっくり待つ。


「…水竿、さん、だっけ?あの子との噂、知らない…わけないか」
「ああ、知ってるよ」


隣に並んだ彼女を、とても近く感じた。それは多分、無意識に芽夢と比べていたからだろう。彼女と違ってまことは背が高い。とはいっても女性の平均を見ての話であって、少し踵のあるブーツを履いていても幸村よりは小さい。
わざわざ噂を心配して、この忙しい試験期間に来てくれたのだろうか。彼女のことだからそれも十分有り得る。別れてからも、彼女は身勝手な自分を責めることは決してしなかった。今でも良き友人として関わっていられることは、本当に嬉しいと思っている。それでも、まことが芽夢をどう思っているのかは知らない。一度会ったことはあるらしいけれど、それでまことが芽夢を嫌ってしまっても、無責任だが仕方のないことだろう。


「精市君は…あの子が好き、だよね?」
「……うん」
「私と別れた時も好きだった?」
「、それは…」


真剣な眼差しを向けられ、肩が揺れた。自分が戸惑っているのが分かる。もし、あの頃にまことに別れを告げられていなかったら、どうなっていただろう。彼女のことは、本当に大切だったし好きだった。偽りはないし、その頃の感情を否定するつもりもない。彼女を好きになって、救われたものがあったのも紛れもない事実だ。けれど、もし、芽夢がいたら?あのまままこととの関係が続いていたら、何を思って行動した?彼女からの質問に対する、明確な答えを幸村は持ち合わせていなかった。


「あの頃、まことを大切にしていたのは本当だ。だけどもしかしたら…俺はおまえに、もっと嫌な思いをさせてしまっていたかもしれない」
「…否定、しないんだ」
「しない。おまえと、あの子への気持ちを偽るのはもうやめたんだ」


それを言ったら、もしかしたら怒らせるかもしれないと思った。思っても、当たり障りのない受け答えで、彼女が気付かないはずがないということが分かったから。否、彼女のせいにするつもりは毛頭ない。自分自身が、そうしたいと思った。芽夢のために何でもしたいと、冗談でなく思った。


「芽夢が納得して俺のそばに居てくれるようになるまで、俺はいつまでも待つよ」
「あはは、私の時はそんなこと言ってくれなかったくせに…って、私からの片思いだったし当たり前か」


揺れる身体に合わせて流れる髪を押さえて、まことは本当におかしそうに笑った。彼女が怒ったり泣いたりしないのを良いことに、まだ友達だと思っているのは卑怯なことだろう。


「あのね、精市くん」


口元に手を当てながら笑っていた彼女が、幸村を見上げる。それを、変だと思った。笑っているのに、声色が違う。相変わらず揺らぎのないまっすぐな視線。それは昔、遠くからでしか見たことのなかった芽夢にどこか近いものを感じさせる。僅かな動揺。それを悟らせないように、何でもないふうに頷く。
小さな胸騒ぎ。確信どころか仮定すら浮かばない。直感。


「うわさ、他にもあるの」


戸惑いがちにこぼれた声に、言葉に、それが指し示す意味に、真冬だというのに身体が焦げるような感覚が走った。

無機質な機械音、耳元でループするそれが、焦る心を煽っているようだった。早く、早く出てくれと、はやる気持ちが止められない。彼女に電話をかけて出た試しがないというのが、余計に不安にさせる。


「あの子、今彼氏いるって話してるの聞いて。嘘かもしれないけど、私も男の子と二人で歩いてるの見かけたから」


まことに話を聞かされて、それは誰の話かと思ったし、たとえ彼女のことでも尾ひれのついた噂の延長か妬みの類から流された嘘だと思った。だからその場で心配いらないと笑って見せて、彼女も納得してくれた。本当に、芽夢を疑う気持ちはなかったし、大丈夫だと思っていた。けれど、ここのところ試験試験と追われてゆっくり話す時間もなかったのは事実だ。まだ恋人といえないこの関係で欲張ることは狡いとは分かっているけれど、まことから芽夢の話を聞かされて、噂なんて関係なく会いたくなった。だから、彼女と別れてすぐメールを打った。少しだけ時間をくれないか、と。しかしそれに返事はなかった。サークルが終わったら、もう一度連絡してみよう。そう思って向かったテニスコートの手前で、偶然見かけた後輩の会話を、聞いた。


「あれ、河野また帰んの?サークルは?」
「あー、彼女待たしてるからパス」
「彼女っておまえ、あれだろ、二股女。最近授業でも一緒にいるけどマジで付き合ってんの?」
「付き合ってるし、芽夢ちゃんに悪気があったんじゃないんだし変な噂鵜呑みにすんなよな」
「や、別におまえが良いなら何も言わないけどな」
「ははっ、じゃあ良いじゃん」


テニスサークルの後輩。一人は、最近顔を出さない奴だった。彼の口から吐かれた名前に、足が勝手に止まった。誰の話だ、それは。名前を出されたにもかかわらず、本気でそう思った。そういえば、夏の飲み会の時も河野は芽夢に絡んでいるようだった。ついさっきだって、まるで図ったみたいに現れて芽夢の手を引いていった。なんの心配もしていなかったはずの胸騒ぎが、また、疼き出す。ただの噂だ。自分が動揺したら駄目だ。そう、分かっているはずなのに。

サークルが終わって、幸村は一目散に学校を飛び出した。大学の敷地内では気が引けてしまう自分への、ぎりぎりの妥協だった。三回目、四回目のコール音。はやく、この胸の焦げる思いが杞憂だったと安心したいのに。だから、六回目のコールで途切れたリズムに、思わず息を呑んだ。


「…水竿さん?」
『は、はい…あの、何か』


電話越しには初めて聴く声。多分勘違いではなく、戸惑っていると分かる。電話が繋がったことに安堵したのに、違和感はその逆に増していく。不信感が確信に変わっていく感覚。どうか嘘であってほしくて、気づかない振りをした。


「今日、変な話聞いたんだ。…君に付き合ってる奴がいるって」
『……』


多分、自分なりに目一杯の勇気を出したはずだった。何ですかそれ、なんて笑いながら言われて恥ずかしい思いをするのを覚悟して。だから、笑って良いんだ。笑って良いから、早く否定してくれ。電話の先の彼女の、小さな呼吸音が鼓膜を掠める。


「…ねえ、水竿さん」
『ごめんなさい』
「は……?」


ごめんなさい、本当です。そう、彼女はもう一度幸村に謝った。大袈裟じゃあなく携帯を落とすかと思った。だって、ずっと思っていたんだ。この子は怖いとか、不安とか言いながらも、もう俺を好きでいてくれているのだと。信じて、疑うのも止めて、ずっと待っていると言った気持ちに従った。
なのに、この子は今、なんて言った?


「芽夢、冗談でもそんなこと言わないでくれ、俺は」
『冗談じゃないです。テニサーの河野君と付き合ってます。本人に確認しても良いですよ』
「っ!君は…っ!」


何かを言いかけて、言葉に詰まった。言いたいことが分からない、わけではない。けれど、言えない。今この状況で、思っていることを素直に喋るのが、…怖い。


『私は、幸村さんじゃなきゃ駄目なんて言った覚えはないです。幸村さんも…私だけでいる理由なんてないじゃないですか』
「は、はあ?ちょっと、自分が何言ってるか分かって」
『幸村さんだけが特別じゃないです』


この子は、誰だ。言っていることも、声色も、まるで知らない誰かと喋っているみたいで気持ち悪い。今まで言ってくれていた言葉も、涙も笑顔も、全部、"俺だから"くれたものでは、なかったのか。悪い冗談だと、思えたらどんなに良いか。馬鹿みたいに真面目な声でそんなことを言われて、冗談だなんて思えるはずがない。


『もう、話しかけないでくださいね。河野君、気にするから』
「っ、じゃあ、なんで俺が言ったこと否定しなかったんだよ…!」
『だから、言ったじゃないですか。ごめんなさいって。ずっと騙してて、ごめんなさいって意味ですよ』


そんな横暴な話があるか。もう何ヶ月も前から、ずっと好きだった。否、何年も想ってきたのに。優しくして、隣で笑ってくれて、恋人より優先してくれて、期待しない方がどうかしている。なのに、今になってそんなこと。誰でも良かったのか、本当に。そんな子じゃないと、怒鳴りたい。なのに言えない。それさえも否定されたら、今までの自分がどうにかなってしまいそうだった。学校で会うまで待っていられなくて電話をしたことを悔やんだ。近くにいたら、手が届けば、顔を見れたら、こんな一方的なこと言わせないのに。情けないくらい頭が追い付かなくて、言葉が出てこない。『それじゃあ』と無感動な声を最後に、一方的に切られた通話。また、耳障りな機械音だけが鼓膜を揺らす。まるで夢でも見ているみたいに、思考が落ち着かない。足が宙に浮いているみたいだった。だけど、あの声は間違いなく芽夢のもので、告げられた言葉は聞き間違いでもなくて。

ああ、そっか。騙されて、裏切られたんだ、なんて。信じたくもないことを自覚してしまって。いつ以来、だろう。息が詰まって、入院していた頃みたいに、視界が揺れているのか脳みそがぐらついているのかも分からなくて。呼吸するのが苦しくて、携帯を持ったまま道端で壁に寄りかかった。何も考えられなくなった。彼女の言葉だけが、馬鹿みたいに頭の中で繰り返されて。
ああ、そういえば、謝られたことは数え切れないくらいあるけど、こんなふうに俺の気持ちを直接的に否定されたのは初めてだな。不意にそう思ったら、息が出来ないどころか肺が押し潰されるんじゃあないかというくらい、苦しかった。
あの子のために何でもしたいなんて、なんて都合の良い嘘だろう。それなら今、あの子のために諦めて泣き寝入りするのが、果たして正解なのか。幸村には分からなかった。あんなに、焼けるみたいに熱かった身体が、指先から凍っていくみたいだ。

馬鹿だな、本当に。ずっと罠にかかって、魔法みたいな言葉に魅せられていたのは、俺の方だったなんて。本当、どうしようもない。
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -