U・シンデレラヴィジョン | ナノ



何年も経った今になって思えば、水竿芽夢は始めから良く目立つ子だった。
俺が彼女をちゃんと認識したのは、立海大附属中に入学してから半年くらい後。たしか夏休みが明けてすぐくらいだったような気がする。その年、テニス部は俺も交えたチームで全国優勝を果たし、その大きな戦力となった一年生レギュラーである自分と、真田と柳は校内でも広く噂されるようになっていた。その時に、女子ラクロス部も同じく全国優勝を成し遂げ、その要が一年生だという話を聞いた。正直、入学してからはテニス漬けの毎日で、あまり他の部を意識したことはなかったし、その噂を聞いた時も軽く流していた。
だから、俺が初めて彼女を見た時、それがその話題の女の子だとは思わなかったんだ。

夏の蒸し暑さが過ぎ、ほんの少し気持ちの良い風が吹き始めた、九月のことだった。幸村が部活に行く前に、じょうろ片手に委員会で任せられた花壇の様子を見に行っていた時だ。目的の花壇に、自分が毎日世話をして漸く咲いた花が色付いているのを遠目に確認して、頬が緩んだ。毎日見ていても飽きない、やはり自分が時間をかけて育てた花には愛着がわくものだ。けれど、花壇に駆け寄ろうとしたその刹那、視界に異物が割って入ったのだ。


「あっ」


そう声を上げたのと同時くらいだったか。視界を横切ったそれは、幸村が目指していた花壇に一直線に飛び込んで、跳ね上がった。思わず立ち止まってしまったままそれを眺めていると、後からまた視界に入り込む影。どこかの部活のユニフォームに、長いラケットに似た物を持って走る女の子。長い金髪をバンダナで後ろに流していて、花壇を見るなり慌てた顔になったのはすぐ分かった。


「芽夢ー?ボールないのー?」


遠く、グラウンドの方からかかる声に彼女の肩が跳ね上がった。困った顔をしながらも、花壇に突っ込んだ異物、ボールを掴んで手元の棒状のそれを振ってグラウンドに飛ばした。呼び声に反応したということは、芽夢というのはあの子の名前なのだろう。彼女は困ったように花壇を見下ろすが、幸村はそれを見てため息しか出なかった。いくら見つめても、ボールが飛び込んだところに咲いていた花は見事に茎から折れてしまっている。ああなってしまってはもう処分するしかないだろうな、と幸村は苦い顔をした。せっかく育てた花を駄目にされて頭に来ないわけがない。その時になって、漸く彼女が持っているのがラクロスに使うスティックだと思い出して、ラクロス部の仕業だと気付いた。今まできちんと認識すらしていなかったのに、まさかこんな形で意識することになるなんて。だが、とにかく幸村は彼女に花壇から離れてほしくて仕方なかった。そこで困った顔をして立ち竦まれても花はもう起き上がらないし、自分から見ても邪魔だ。どうせたくさんある花のうちの一部。すぐ気にもしなくなるのだから。


「…?」


けれど、どうしてか彼女はその場を離れず、逆にその場に座り込んで土に手を突っ込んだのだ。予想外の行動に、幸村は盗み見るのを止めて小走りで彼女に近寄った。


「なに、してるの?」
「ひえっ!?」


背後に立って声をかければ、彼女はおかしな奇声を上げて背筋をぴんと張った。おそるおそる振り返る彼女の顔を見て、幸村は首を傾げた。小さい子だな、と思ったけれど、同学年の女子には彼女と同じくらいの背丈の子もいるのであまり気にはならなかった。それよりも、まっすぐ背中まで伸びた太陽の光を浴びて光る金髪と、子供らしいくりくりとした奥二重の瞳を、人形みたいだとぼんやり思った。彼女は幸村の姿を確認するなり、また困ったような顔をして視線を花壇へ戻す。


「友達のボール、当たって折れちゃったから」
「…それで、どうするの?」
「押し花、にしようかなあって。花びらは散ってないし」


そう言って、彼女はその小さな手で土を掘り返し始めた。正直、驚いた。この花壇だけでもたくさん咲いている花の、ほんの二輪程度だ。きっと誰も気付かないし、気付いたからといって悼むことなんてまずないだろう。この花壇はグラウンドからも近いし、花が潰れることもさほど珍しくはないのだ。それを見る度に、複雑な気分になる人間がいるとしたら世話をしている自分くらいのものだろうと思っていた。けれど、その女の子は自分が潰したわけでもない花を申し訳なさそうに見下ろして、自分の手が汚れることも気にせず触れるのだ。幸村は思わず、土を掘る彼女の手首を上から掴んだ。ガラス玉のような大きな瞳が、再度自分を捉えて息が詰まるのに気付かないふりをした。


「ちょっと貸して」
「え?」


そう言うなり、幸村は彼女のすぐ隣にしゃがみこんで、じょうろの中に突っ込んであった園芸鋏で花の茎の折れている部分から少し上を切り離した。茎が駄目になってしまった二輪を切って彼女に差し出せば、くりくりとした瞳が不思議そうにまばたいた。


「根は抜かない方が良いよ。他の花を痛めるかもしれないし」
「あ、ありがとう…」


困惑したような表情の彼女も、花を受け取ると口元を綻ばせた。今まで運動をしていたからか、ほんのりと赤みのかかった頬が白い肌に浮いて良く見える。
その後、彼女がもう一度礼を言って部活に戻るまで、幸村は彼女から目が離せないままでいた。


「蓮ニ」
「どうした、精市」
「ラクロス部の、芽夢って子知ってる?」


後日、偶然見かけた女の子のことを部活仲間の柳に尋ねれば、まるで意外というように首を傾げられた。


「水竿芽夢のことか?」
「名字は知らないんだ…すごく長い金髪の」
「ああ、それなら水竿だろう。それにしても、珍しいな」
「え、何が?」
「精市が他の部を気にすることがだ」
「いや、別にラクロス部の話じゃなくて」
「…精市、まさか知らないのか?」
「…?」


柳と会話がかみ合わない、と感じたのは向こうがラクロス部の話をした時くらいだった。自分は芽夢という女の子のことを聞きたかったのに、柳は何故か部活の話に持っていこうとする。もしかして論点がずれているのか?と思いながら、とりあえず柳に首を傾げて見せた。


「今年、ラクロス部も全国優勝をしただろう。その際に活躍して有名になった一年生がいたのは知っているか」
「ああ、なんか聞いたことあるな」
「それが水竿芽夢だ」
「…え?」


柳の言葉に、耳を疑った。ラクロス部の一年生が強いというのは周知の事実であったものの、それがこの間花壇で見かけた女の子だとは思わなかったのだ。外見で人を判断するつもりはなかったが、無意識のうちにそういう目で見ていたと自覚した。彼女はとても小さい。中学一年生といえば彼女くらいの背丈の生徒も少なくはないが、スポーツをする上では話は別だ。おそらく百五十センチ台にぎりぎり乗っているかいないかくらいの身長で、全体的に細く手も小さかった彼女は、まず見た目からラクロスのような激しいスポーツをするようには見えないのだ。それどころか、話題の注目ルーキーだと誰が思うだろうか。


「俺は、てっきり知っていて聞いてきたものだと思ったんだがな」
「いや、そんなの全然知らなかった。だいたい俺はラクロス部とかじゃなくて、ちょっと可愛いなって思っ…て、って、え?」


あれ、俺いま何を口走った?目の前で柳が本当に予想外みたいな顔をしているが、自分の方がそんな顔をしたいくらいだ。ちょっと可愛いなって思って?誰が?誰を?


「そうか…良かったな、精市」
「ちょっと待ってよ蓮ニなんで一人で悟ったみたいな顔してるの俺意味わからないんだけど」
「無自覚だったのか。尚更良かったではないか」


いや待ってって本当に待って、頭がついていかない。なんでこいつが子を見る母みたいな顔をしているのかも意味が分からない。可愛いって、俺あの子のこと可愛いって思ってたのか?いや確かにどちらかといえば、というかどちらかといわなくても可愛い部類だとは思うが。小さいし、目大きいし、肌白いし、髪綺麗だし…って、あれ?なんでこんなあの子の外見褒めてるんだろう。


「蓮ニ…」
「ああ」
「あの子って可愛いの?」
「男女問わず人当たりが良いからな。注目されるようになってからは同学年からも上級生からも人気は高いと言える」
「じゃなくて、蓮ニは可愛いって思う?」
「…まあ、どちらかというなら、だが。可愛いのではないか?」
「あ…そう」


ちりっ、と。柳の彼女に対する評価を聞いて、少し胸が焦げるような妙な感覚。可愛い、なんて無意識に言ってしまったことにも驚いたが、顔に集中する熱にも戸惑いが隠せない。
それが、俺が初めての恋を自覚した瞬間だった。

けれど、それから半年間、彼女と言葉を交わすことは一度もなかった。クラスが違うというだけで接点は無いに等しい。そういえば、花壇で会った日に名乗っていなかったというのを後から思い出して、少し後悔もした。ただ、誰かに頼んで間を取り持ってもらおうという気にはならなかった。最初から、自分の彼女に対する気持ちは恋慕よりも、興味や憧れに近いと気づいていたからだ。
水竿芽夢は、話だけ聞くならさながらテレビ番組のヒーローのような女の子だった。ラクロス部を全国へと引っ張る唯一無二の存在。男女とも分け隔てなく接し、それでも誰からも妬みを買わないのはラクロス部での絶対的カリスマ性と、人柄故に周りから信頼を置かれているからこそだった。良いと思ったことは迷わず実行、悪いと思ったことは素直に認める。そんなまっすぐな性格の彼女に、誰もが惹かれていた。自分も、例外ではない。


「今年も目指すは全国一!そのためには基礎練習も怠らず!今日から大会まで、筋トレを三セットから五セットに変更します!」
「えええええ!?」
「芽夢の鬼ー!!」


二年生の五月にもなると、そんな声がテニスコートまで聞こえてくることも増えた。意外だったのは、彼女は見た目の子供っぽさに似合わず部活ではスパルタだということ。次期部長と言われ、三年生から部を任されることも多くなったのだろうが、ラクロスにはどこまでも真正面にぶつかっていく彼女の練習は、女子にはさぞ過酷だったことだろう。そんな叫び声を耳にしながら、小さく笑うこともしばしば。向こうはきっと自分のことなんて覚えてはいないだろうに、こんなふうに聞き耳を立てて笑っているなんて知られたら気味悪がられてしまうかもしれない。まあ、自分から話しかけに行くことなんて、よほどのことがなければないのだろうけれど。おかしいことに、幸村は芽夢と話してみたい、仲良くなりたいとはあまり思わなかった。強い憧れを抱いていたからこそ、そうして遠目から彼女の背中を見て、話し声を聞いているだけで満足だった。最近では、柳に彼女の話を振られることもなくなった。幸村の初恋が勝手に鎮火したと思われているのかも知れないが、実際のところは、彼女に対する欲がなくなるほど想いを馳せる時間は長くなっているのだ。笑っているのを遠くで見かけたら、何の話をしているのだろう、良いことでもあったのだろうか、可愛いな、といつも思っていた。だけど、近付きたいとは思わない。憧れの対象である彼女を、見ているだけで満足だったのだ。多分、この初恋は見ているままで終わっていくのだろうと、そんなふうに思っていた。それに不満もなかった。

七月のある日のことだ。委員会の会議が終わって、部活に行こうと早足で廊下を歩いていた時だった。順調に勝ち進んでいるとはいえ大会は更に過酷さを増す。出来ることなら走ってでも早く行きたいくらいなのだが、もし廊下を走ったことが知れたらうるさそうなのがいるため、渋々許容範囲内くらいの早さで歩いているわけだ。


「テニス部また勝ったんだって!」
「へえ、やっぱりすごいね」


ふと、耳に入ったその声。いつも遠くから見ていた彼女を間違えるはずもなく、幸村は足の速度を緩めた。視線を上げると、そこは彼女のクラスの目の前で教室に残っているのが分かる。ドアの小窓から教室の中を覗いて彼女の姿を確認して、なんだかストーカーみたいだと罪悪感が生まれた。だけど、やっぱり少し気になる。いつも自分が勝手に遠目で見ていた彼女が、テニス部の話をしている。こんな機会めったにないだろう。


「あやかちゃんは、本当テニス部好きだよね」
「だって格好いいじゃん?めちゃくちゃ強いしイケメンばっかだし」
「うん、そうだね」
「幸村くんなんてもう次期部長ってほとんど確定してるんだよ!さすが神の子!」
「あはは、たしかに」


だけど、すぐ思った。あ、駄目だって。
一方的に好きで、一方的にしか彼女のことを知らなかった。今まで近付かなかったのは、彼女の口から自分の評価を聞きたくなかったからだ。もし嫌われていたら、なんてもともと関わりさえないのだからあるはずがない。幸村が心配で仕方なかったのは、芽夢に周りと同じように自分を評価されること。幸村は強いだとか、天才だとか、いつの間にか神の子なんて良く分からない呼び方までされるようになって。期待されるのは嬉しくないわけがないし、応えようとも思った。ただ、なんと言えば良いのかは分からない。けれど、彼女に他の、フェンスの外から騒いで必要以上にテニス部をもてはやす生徒たちと同じような評価をされるのは、嫌だった。だからこれ以上聞いたら駄目だと、本能的に悟ってこの場を去ろうと、足を踏み出した時だった。


「でもさ、神の子って呼び方、怖いよね」
「え?」


彼女の友達らしき女の子と、声が被ったかと思った。ぴたりと止まってしまった足と、再び教室内に向く意識。全部、あの子が原因だ。


「なんで?凄いから神の子なんじゃないの?」
「それはそうなんだけど…私は怖いよ。周りからの期待をそんなふうに言葉にされたら、私だったら普通にプレーできなくなっちゃう。まあ…それが出来るから幸村くんが凄いってのは分かるんだけどね」
「ふ、ふうん…?」
「それに、努力しなきゃ結果は生まれない。雨の日なんかはうちとテニス部で体育館半分こしたりするけど、筋トレとか基礎練の量もダントツで一番多いもん。感化されてうちも同じ量にしたら、部員にすごい怒られちゃった」
「あー、あんた単純だもんね」


教室の中から、二人の笑い声が上がった。本格的に聞き耳を立てていることに気付いてはいたけれど、そこを離れる気にどうしてもなれなかった。まるで、芽夢が言葉を発する度に足がそこに縫い付けられているようで、なのに身体から何かが剥がれ落ちていくように軽くなっていく感覚。


「神の子の幸村くんが本当に強いのは知ってるけど、私はやっぱり人間の幸村くんを尊敬するなあ」


気づいたら、手のひらで自分の口を押さえていた。そうしないと、言葉にならない心の叫びが口から漏れてしまいそうで。指先が震える、息が苦しくて、走ってもいないのに汗が流れた。本当に、矢か何かで貫かれたような、それくらいの衝撃だった。自分が喜んでいるのか、苦しんでいるのかも分からない。泣きそうだと、冗談じゃあなく本気で思った。理想とか、期待とか、そういうのを全部取っ払った自分を知っていてくれる人が居た事実に、彼女の方がよっぽど神様みたいだと思った。
ねえ、俺はさ、今の今まで君のこと可愛いなって、そうとしか思っていなかったんだ。好きでいる理由としては十分だったのかもしれないけど、俺自身それだけじゃあなんだか釈然としなくて、近寄らなければ憧れのままでいられると思った。でも、どうしよう。今、俺は君が好きでしょうがないって思ってる。自分がどう思われているか、その不安が綺麗に消えて、残ったのはそれまで身を潜めていた人間らしい欲求。


「水竿、さん」


小さく、出てこなかった気持ちの代わりに掠れた声が零れた。そういえば、こうやって彼女の名前を口にすることはほとんどなかった。けれど、すぐに机だか椅子だかを引きずる音がして、幸村はすぐさま逃げるように走り出した。今、彼女の顔を見たら本当に何を口走るか分からない。それくらい混乱していたし、怖いとも思ったし、どうしようもなく嬉しかった。
いつか、この気持ちがコントロールできるくらい自分で理解できるようになったら、あの子と話してみたい。知りたいし、自分のことをもっと知ってほしい。それが、幸村の芽夢に対する最初の欲求だった。

その年、彼女の言葉のおかげ、というわけではないかもしれないが、立海大附属中学男子テニス部は全国大会の二連覇という華々しい成果を挙げた。三年生はそれを機に引退し、予定通り幸村が新任部長となり新しいテニス部が幕を開けた。自分が躊躇いなく部長の席を任されるだけの気持ちになれたことに、少なからず芽夢が関わっていることを知っているのは柳だけだった。というのも、いつの間やら芽夢への気持ちを躊躇わず話すようになった幸村を疑問に思った彼に、上手い具合に喋らされたからなのだが。真田に話せば「王者立海の三連覇に加え進学を控えているこの次期に恋愛にうつつを抜かすなどたるんどる!」なんて大正だか江戸だか分からない時代錯誤な怒りを買うのはわかりきっていたため、周知の事実というわけではなかった。
あの日から、多分毎日芽夢のことを考えていたと思う。いつか話しかけたい、もしかしたら今日は目が合うかもしれないし、雨が降って同じ体育館を使うかもしれない。自分でも女々しいことは自覚していたけれど、思えばそれが幸村の精一杯の成長だった。欲がないわけではなく、表に出すのが苦手なだけ。表面と心のうちでは全く違うことを、何となく自覚してはいたのだ。

だから、その秋に病に倒れ入院したことで、彼女に対して生まれた欲どころか彼女のことすら思い出さなくなった自分に、内心ぞっとしたのだ。三年に進学して同じクラスになったことを柳に聞いても、どうしてもぴんと来なかった。自分のことに必死になって、周りが何も見えていなかったと気付いたのは、実際は退院してからだったと思う。そんなこと、言わずとも理解してくれていたであろう仲間たちに、はっきりとした感謝を伝えることは出来ないままだった。
入院中、一度だけ見舞いに来てくれた芽夢に、返したいものがあった。テニス部に復帰し、三連覇を成し遂げたという実績で彼女に立ち直った自分を見てもらいたかったのだ。けれど、それが実現することはなかった。青春学園によって阻まれた全国一位の座。それは、王者と呼ばれた立海大にとって信じがたい結末だった。しかし、悔しさはあっても後悔はしなかった。その敗退があったからこそ、見えたものもある。


「それで、話しかけることが出来ないまま今日まで来てしまったというわけか」
「仕方ないだろ。夏休み明けにラクロス部はラクロス部で見事に三連覇を果たしてて、そんな水竿さんに準優勝だったんだ君のおかげだよ、なんて言える?」


そんなの俺のプライドが無理、許さない。と、幸村は深くため息を吐いて、柳は苦く笑った。情けないことに、話しかける口実を失ってしまったらどう声をかけたら良いか分からなくなってしまって、結局病院での礼も言えないまま三月になってしまった。いくらなんでも消極的すぎる幸村の恋路に、柳は三年間一度も文句を言わないまま、今日という卒業式を迎えてしまった。数日前に我らが神の子の聖誕祭だと騒いでいた女子たちは、その日の笑顔が嘘のように涙を流していた。ほとんどが附属高校に進学していくものの、卒業式という雰囲気そのものに強く感化される生徒も少なくはない。幸村、柳は共にテニス部の後輩とファンクラブの代表という女子から貰った花束を両手に抱え、最後の練習に向かっていた。


「芽夢先輩っ!」


ちょうどグラウンドを通り過ぎようとした時、話題の人物の名が聞こえて二人は足を止めた。遠目から見るグラウンドの端。幸村たちと同じく華やかな花束を抱えた芽夢が、ラクロス部員に囲まれてまるで太陽のように笑っていた。


「先輩、卒業おめでとうございます!二年間、ありがとうございました!」
「芽夢先輩!私っ高校でもラクロスやります!待っててください!」
「うん、みんなありがとう!こんな我が儘な部長についてきてくれて本当に嬉しかった!みんなとラクロスやれて楽しかったよ!」
「ちょっと芽夢、高校もあるんだからそんな言い方すんなっ」
「あっはは、みっちゃんまた泣いてるー」


うっさい、と隣の女子に首根っこをひっつかまれて「きゃー」なんてわざとらしい悲鳴を上げる芽夢。それをぼんやり眺めていると、不意に柳が笑った気がして振り返る。「羨ましいのか」と意地悪く言われ、幸村は頬を膨らませた。


「いいよ、高校に行けばまだ機会はあるんだから」
「そうだな。精市らしい」


未だ楽しそうに笑う彼女に後ろ髪を引かれる思いで、幸村は再びテニスコートへ足を進めた。
話したいことは、山ほどあるのだ。君が一年生の頃に気にしていた花壇に今年漸くボール除けの柵が出来たこと、君の言っていた人間幸村精市はあの日からもっとテニス漬けになったこと、退院してから卒業するまで、君に話しかけられず後ろの席からこっそり君の横顔や背中をスケッチしていたこと…これはいいか、気持ち悪がられたら元も子もない。あとは、君が病院に来てくれたことを思い出す度に、テニスが好きで好きで仕方ないと思うこと。君が全てではないかもしれないけれど、俺は今日も「テニスが好き」と尋ねてくれた君の言葉を思い出しては、テニスコートへはやる気持ちを馳せている。
結局、つまるところの話だ。俺は君に色んなありがとうを伝えたくて、それで、今度こそ友達になってほしいんだ。俺は君のことほとんど知らないし、君は俺なんて忘れてしまっているかもしれない。それでも構わない。未だスタートすらきれていないこの初恋に、走り出すきっかけさえあれば。

けれど、進学した立海大附属高校。そこに水竿芽夢の姿はなかった。姿どころか在籍しているデータさえない。彼女が附属高校に進学しなかったと知ったのは、学校が始まって一週間ほどした後だった。その頃は、今度こそあの子に話しかけるのだという意気込みが強すぎたのか、柳にも頼んで馬鹿みたいに必死になって県内の高校のラクロス部を見漁った。まさかと思い県外のラクロスが強い学校も調べてみたものの、どこにも彼女の名前は見つからず、どうしようもない虚しさを柳にぶつけることもできず忘れようとひたすらラケットを振り続けた。一歩踏み出すきっかけさえくれなかった彼女に、理不尽だとは思いながらも文句を言わなきゃ気が済まなかった。それなのにその彼女はもう居ないという事実が、余計虚しくさせる。


「幸村君、中学生の時からずっと好きでしたっ…私と付き合ってください」


自慢とか、冗談を抜きにしても、そんなセリフを自分に対して使われたことは何度もあった。その度に、テニスが大事だからと断り続けている。それは中学生の頃から変わらないし、彼女たちがもっとも納得させる言葉でもある。だってこの子たちは、テニス部の幸村精市しか目にないから。案外、自分の評価や価値なんてそんなものだと、離れて欲しくて吐いた言葉に身を退く彼女たちを見て内心皮肉ることも少なくなかった。その度に芽夢を思い出しては、最後まで何も出来ないままだった自分に嫌気がさす。そうだ、突然いなくなったことに腹を立てていたわけではない。立海が大学までの附属校だということに安心しきって、結局は怖がってばかりだった自分が気持ち悪くて仕方ないだけだ。幸村らしくないと、誰もが口を揃えて言うだろう。柳でさえフォローのしようがないくらい、真田に言われずとも今の自分が腑抜けていることぐらい気付いている。
吹っ切れないと、と思ったからというわけではない。高校で生活するうちに、あの入院生活の時みたいに芽夢を思い出すことが減っていった。視界に入らないだけで、心の中で名前を呼ぶこともなくなっていって、夏になって忙しくなると思い出すことも、多分なくなった。それでも、部活のマネージャーとの仲を噂された時、学校の女の子に告白された時、彼女のことをふと思い出すこともなくはなかったけれど、やっぱり時間が経つにつれ記憶や気持ちは薄れていくものだった。
いつの間にか、幸村は二回目の恋をして、いつの間にか、初めて恋人と呼べる存在が出来ていた。いつから始まって、いつ終わったのか、明確なことはあまり記憶にない。ただ、初めてのことだらけで一人で悩んだ時間がやけに長かったことだけはぼんやりと記憶にある程度で。
高校で、二人の女の子と付き合った。二人とも性格は似ても似つかないような子。過ごし方も違えば触れ方も違う。ただ、どちらとも終わり方はよく覚えている。「やっぱりテニスには勝てない」そんなことを口走って、二人とも幸村から離れていった。テニスが大事だからという断り文句が、まさかこんなふうに作用するとは思わなかった。自分のふがいなさに頭を抱えたりもした。
だけどやっぱり懲りもせず、人生で三回目に恋人が出来たのは、高校三年生の時だった。氷帝学園に通う同い年の女の子。長いロングヘアーがよく似合う、柳原まことという名前の子。何を隠そうその女の子こそ、大学二年の初夏まで付き合っていた彼女、である。その頃の自分は、我ながらに腐っていた奴だと思う。二人目の彼女にテニスを理由に振られてからというもの、幸村は恋愛に対して求めることを一切止め、反対に求められることを以前にも増して嫌った。どうせ誰かを好きになったって、また同じように別れを告げられる。テニスを辞めない限りそんなことが続くくらいなら、もう誰も好きにならない方が楽だ。告白されたって絶対にありがとうなんて言わなかったし、変な期待や陳腐な理想像を押し付けられるのもたくさんだった。俺は普通だよ。普通にテニスが好きな、普通の子供だよ。そう訴えても、周りはそう見てはくれない。だから誰にでも優しくするのを止めて、変わりに誰にでも冷たく接した。自分ではそんなに腐っていたつもりはなかったのだが、一時期はあの柳でさえ必要以上に近付こうとはしなかったのを考えると、その頃の自分がよほど怖かったのだろう。そんな幸村に、唯一近寄ってきたのが柳原まことだった。氷帝学園に通う妹の先輩。妹が酷く懐いていた彼女を初めて紹介されたのは、高校三年の夏休み終盤のこと。正直なところ、彼女は最初から幸村に下心があった。もちろんそのこと自体には気が付いていたから、幸村の態度は淡白なものだった。それでも、彼女は幸村から離れなかった。余計な期待を抱くこともなく、おそらく見返りも求めていなかっただろう。一度、言ったことがある。「君が俺を好きでも、俺は何も返せないよ」と。そうしたら、彼女は笑いながら「知ってる」と返したのだ。人間とは単純なもので、そんな彼女に惹かれるようになるまで、そう時間はかからなかったと思う。まことに大層懐いていた妹の後押しもあって、とんとん拍子で付き合うことになったのは、彼女が立海大の推薦枠を取ったと大喜びで報告しに来た日だった。見返りを求めないというのが本気だと分かるくらい、彼女は慌てふためいて最後には泣き出してしまって、素直にこの子なら、と思った。
だから、そうやって付き合っていた子にまで、同じ理由で別れを切り出された時、ああ俺はずっとこんなふうにしか人と接することができないんだ、と思った。違うことといえば、今まで付き合った子は自分にテニス以上の優先順位を求めた。幸村を好きだと言いながら、それより近い場所にいないと気が済まないのだ。けれど、まことは少し違う。「やっぱり精市くんはテニスが大好きなんだね」と、まるで始めから諦めていたみたいに言ったのだ。彼女は幸村を否定することなく、最後まで背筋を張って笑っていた。テニスばかりな自分を許された気がして、どうしてか惨めな気分にさせられた。同時に、やはり自分は駄目なんだという劣等感。だから、四年振りに会った芽夢も、好きになったら駄目だと本当に最初だけ思っていた。そんなもの無駄な足掻きだったわけで、この様なわけで。

多分、自分がどうしようもなく卑怯な奴だというのは変えようのない事実だ。こう言ったら悪いけれど、恋人が入院している間に芽夢の様子がおかしかった、というか揺らいでいるのは明らかだった。下手くそに貼り付けた笑顔、不自然なくらい故意的に避ける目線。全部が全部、逆効果だったことはおそらく本人は分かっていない。
芽夢を幸せにするのがあの人でなかったなら、自分がそう在りたい。それは紛れもない本心で、そうやって逃げ道を塞いで本音を引きずり出して、選択肢を与える振りをして俺を選んでほしいと訴えている。
テニスが強くて、優しくて、誠実なみんなの理想の幸村精市なんて、そこには居ない。人間らしい欲にまみれている、貪欲で非道な奴でしかない。こんなに諦めの悪い恋は初めてだ。中学生の頃に、遠くから眺めているだけで十分満たされていた気持ちなんて、もう思い出せない。
攫っていってしまおうと思った。本当に自分が魔法使いだったら、十二時の鐘が鳴って魔法が解けたシンデレラをつかまえて、連れ去ってしまうだろう。当たり前のように隣にいて、笑いあう存在でいたい。
だから、正直噂なんてどうでも良かった。彼女がどんなに怖がっても、そんなもの気にならないようにするくらいの自信はあったし、そのために離れるつもりもない。気持ちは確かに通じ合っているのに、それを否定するほど愚かではない。他人からすればそんな振る舞いこそ愚かだと思われるかもしれないが、幸村からすれば彼女への気持ちを嘘で塗り固めることほど馬鹿なことはない。
いくら時間がかかってもいい。彼女がちゃんと納得して、その上で自分と一緒に居たいと思ってくれるのなら、待ってほしいと言うのなら、いくらでもそうしよう。苦なんてない。本当だ。
俺からテニスを取ったら何も残らない、とまで言うくらい、俺にはテニスしかなかった。初めてなんだ。テニスの他に、こんなに何かを誇れる気持ちになれたのは。なりふり構わず追いかけられたのは。

憧れは、いつからか途方もない愛しさに変わって心に深く巣くっていた。
ねえ、芽夢。分かるよね。君だからだよ。
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