U・シンデレラヴィジョン | ナノ



そういえば、最近は憂鬱な朝が多い。と、顔に水を被りながら思った。冷たい。そういえばもう十二月なのだ。どうしてお湯にしなかったのかと、タオルで顔を拭きながら後悔。とりあえず目は覚めたものの、何が夢か現実か、いまいち実感がわかない。そんなの、学校に行けば嫌でも分かることになるのだが。鏡に映った自分は酷く疲れた顔をしていて、それが気持ち悪くて化粧と大きな黒縁眼鏡で隠した。


「芽夢ちゃん、おはよう」


ぎくり。肩が大袈裟に反応する。嫌な顔をしないように前を向けば、あの横断歩道にその人が居た。彼、河野俊明とこうも立て続けに鉢合わせになるのは初めてのことだ。基本的に授業が被った日にしか会わないくらいの人で、彼が俊明という名前だと知ったのも一週間前、半ば強引に連絡先を教え合った時だった。
あの告白の日からちょうど一週間。一昨日も彼はこの場所で狙ったように芽夢に声をかけた。まさか授業がある日は毎日、こうして一緒に登校するつもりなのだろうか。正直、気が進まない。進むわけがない。日曜日を挟んで来週には日常に戻っていたら、と夢見てもおそらく無駄なのだろう。ついこの間まで、幸村が居た場所にごく自然と立つ彼に、どうしようもない苛立ちを感じる。来週から試験が始まる立海大学。そのためか一週間前から幸村とはタイミングが合わず一度も話ができていない。芽夢は下手をすれば単位を落としかねないし、彼は来年から本格的な就職活動を控えているため、この試験には手が抜けないだろう。この男のことを相談できれば、と目論んだこともあったが、その度に脳裏にちらつくあの写真と言葉が、それを許さなかった。下手なことをすれば、また幸村に迷惑がかかる。今度こそ、見放されるかも知れない。それらしいことを河野がほのめかす度に、仮定で頭がいっぱいになってしまう。そうしているうちに、河野が芽夢の隣に立つことが自然となってしまったのだ。こんなに、誰かの存在を煩わしいと思ったことはない。どんな罵声を浴びせられた時だって悲しくはあれ腹立たしさは感じなかった。それは、自分が大嫌いな芽夢本人がそれを認めてしまっていたからだろう。
「芽夢ちゃんが欲しい」と言った河野を、芽夢は全く信じていなかった。好意を感じないのだ。こうして並んで歩くのは、まるで見張りをするようで、反抗しようものならまたあの写真を視界にちらつかせようという気なのだろう。多少なりとも好意を持っているのなら、その相手を脅したり、ましてやそれに別の男を使ったりなんてよほど常識を逸脱していなければ考えない。もしもそれほどまでに突出した愛情だというのなら、こうして隣に並んでいるのに一切触れない、言葉もないなんて状況はおかしい。芽夢を呼び止める時でさえ、その声に感情らしきものは感じなかった。
目的は知らない。だけどこの人は、芽夢を好きではない。なら早く、解放してほしいのに。ひたすらそんなことを念じながら、彼に抗うことも出来ず学校までの道のりを二人で歩いた。


「水竿さん」


そう、少なからず声には感情がある。どんなに秘めた想いだろうと、声はすべてを表す。こんなふうに。


「幸村さん…」
「久しぶり。試験試験で全然会えなかったね」


会えなかった、なんてそんな残念そうに言わないで欲しい。振り向いた先の幸村はコートとマフラーという完全防備で、今来たばかりだと分かる。ちょうど二限が終わったばかりの芽夢が次の授業がある教室に向かっているタイミングで声をかけてきた彼に、きっと自分を見つけてわざわざ追いかけてきてくれたのだと悟った。この人の、こういう素直な気持ちを感じる瞬間がどうしようもなく好きだ。
だけど、それを感じることに罪悪感が生まれた。


「試験、大丈夫そう?」
「はい、今回はレポートもちゃんとまとめてますし…前より勉強もしてるから」
「へえ、頑張ってるんだ」


頑張っている、とは少し違う。何もしていないと河野のことを思い出してしまうから。それなら試験勉強をしている方がよっぽど有意義だ、なんて自分に言い聞かせて、考えることを放棄していただけ。それが、幸村の気持ちに対してどれだけ失礼なことか、わからないわけでもないのに。けれど、それを本人に言う勇気もない。曖昧に笑って見せれば、彼は些細な違和感にも気付いてしまったようで、不思議そうな顔をした。悟らないで、お願いだから。そう、ざわつく心で訴えかけて、苦手な笑顔を貼り付けて。けれど、きっと下手くそな笑い方をしてしまったのだろう。不意に幸村は芽夢の手を引いて、まるでこのために用意されていたような今の時間誰も使わない講義室に連れられた。手を振り払うことも考えたけれど行動に移せなかったのは、不謹慎にも触れ合ったことに心がくすぐられたからだろうか。静かな薄暗い部屋に押し込まれて、人目を避けるように扉が閉められると、途端に罪悪感が疼き出す。


「幸村さん、授業」
「ちょっとだけ」


言うなり、幸村は半ば強引に芽夢の腕を引いた。頭一つぶんは違う彼に抱き込まれて、芽夢は思わず呼吸するのを忘れた。あまりに唐突な行動に声を上げることも出来ずに固まっていると、屈んだ彼の髪が首筋を撫でた。近いし、あつい。こんなに近くに彼を感じるのは、いつ以来だろう。薄く吐いた息が、冷たい室内に溶ける。片手で頭を抱え込まれて言葉を発せない。その広い背中に腕を回すことも、もがいて離れることも出来ずそのままにしていると、身を捩った彼の頬が芽夢のこめかみの辺りに触れて顔に血がのぼる。こんなことなら、ヒールの高いブーツなんて履いてくるんじゃあなかった。


「……芽夢」


耳元で、酷く熱っぽい声がして、直接息を吹き込まれるような囁きに心臓が暴れ出す。耳たぶに彼の唇が掠ったような気がして、けれどすぐに離れた顔を見上げて、後悔した。あの声と同じ、熱の籠もった焼けるような視線に、本当に貫かれたかと思った。熱情。今まで彼に感じたどんなものより強く、焦がすようなそれに当てられたらみたいに、芽夢は息苦しさに指先を震わせた。求められている、それを嫌でも感じてしまって、身動き出来なくなる。


「、ぁ…」


思わず視線を下げて、けれど彼はそれを許さなかった。後頭部にあった手が素早く顎を掴んで、引くように持ち上げ強引に目を合わせられる。ほかのものを見るのを許さない鋭い眼差しに、本当に窒息死するかと思った。あの蒸し暑い夏の日以上に、激しく求められているのが嫌でも分かる。逃げられない。そう本能が悟って、ゆっくり近づいてくる夜の海のような碧に飲み込まれそうで。


「っ!」
「、……芽夢…?」


だけど、だけど。唇が触れる寸前のところで、芽夢はほとんど無意識に、幸村の胸に当てた手に力を込めた。僅かな反応でも悟った幸村は、そのままの近い距離で芽夢の名を呟く。だけど、そんなこと意識できない。今そばに居るのは、触れ合っているのは、彼なのに。
"嫌われちゃうね"その一言が、おかしいくらい頭の中を全部支配して。ちがう、そんなはず、ああ、でも、もしかしたら。わからないじゃないか。私はいつも、こんなに狡い。


「ごめん」


先に言葉を発したのは、幸村の方だっか。ぴったりとくっついていた身体を離して、困った顔をしながら髪を撫でてくる彼に素直な疑問を感じた。どうして、彼の方が謝るのだろう。


「絶対分かってないよね」
「…なにがですか」
「別に?でもごめん、待ってるって言ったくせにね」


軽く、叩くように頭のてっぺんを撫でて幸村はいつも通りの笑顔を向けた。子供扱いされているみたいな撫で方。だけど、嫌いではなかった。


「行こっか」
「…はい」


問い詰めたい気持ちはあった。けれど何となく気まずくて、消えてくれない不安が重くて、授業もすぐ始まるしと言い訳を並べて彼に続いた。入る時は周りの目はなかった。だから、油断してしまったのだろう。
あ、とドアを開けるなり声を零して止まってしまった幸村。その背中に首を傾げて、彼の身体の隙間から見えてしまった光景に芽夢も目を見開いた。


「あれ、幸村さんと芽夢ちゃん。奇遇ですね」


奇遇、と言いながら二人が出てきた講義室の目の前の壁にもたれかかっている男、河野の笑顔に二人して言葉を失った。見られた、否、最初から見張られていた?おそらく単純に驚いているであろう幸村とは全く違う意味で、芽夢は顔色を青くした。「そういや、次の授業芽夢ちゃん一緒だったね」まるで死刑宣告のような言葉に、芽夢は吐き気すら感じた。無意識に視線を逸らして、小さく返事だけをする。普通じゃ、ない。二人が一緒に居ることを問い詰めもしなければ、まるで何もないかのように振る舞う河野。彼はもたれかかっていた壁から離れると、幸村との間に割って入るように芽夢の手首を掴んだ。焦りと戸惑いと、それから恐怖に似た感情で肩が跳ねた。


「そろそろ講義始まるよ。いこ」
「う、ん…」
「じゃあ幸村さん、また」
「…ああ、河野もサークルにも顔出しなよ」
「はい、ありがとうございます」


幸村は最後まで訝しげな表情のまま、芽夢と河野を見送った。河野に腕を引かれながら、幸村の視線を背中に感じても振り返ることが出来なかった。きっと、不思議に思ったに違いない。何食わぬ顔をした河野にも、不自然な態度の芽夢にも。


「…なにか、あの人に喋った?」


幸村から見えなくなるところまで来て、漸く口を開いた彼からの質問に大袈裟なくらい身体が震えた。声色は普段と変わらないけれど、心情までは分かったものではない。芽夢は身体を強ばらせながらも、必死に首を左右に振った。


「…だよな。芽夢ちゃんがいい子で良かった」
「……」
「いい子ついでに、話があるから今日待っててよ」


底の読めないえびす顔。その笑顔を向けられて、芽夢は逃げ出したい思いで頷いた。話なんて聞きたくない。顔も見たくない。だけど逆らえない。掴まれた手首が、自分から振り払えない。


「芽夢ちゃん、バイトしてみない?」


待っていろ、と言った河野の話というのは、とても単純なものだった。二人とも午前中の授業だけで帰れたのでさほど待ったというわけでもないが。この時間に人の集まりやすいテラスや食堂を避けるためか、河野に狙ったように先ほど幸村と居た講義室に押し込まれた。そして、適当な席に座らされるなり、その一言だ。


「…や、私バイトしてるから」
「辞めなよ」
「は?」


本当に、素直に出た疑問だった。辞めろ、なんてそう簡単に出てくる言葉ではないだろう。あまりの横暴振りに目を白黒させていると、河野は一人「ああでも、減らす分には問題ないかもなあ、うん」などと呟いている。それ以外にも小声で何かと言っているが、良く聞き取れなかった。既に彼の中で芽夢が賛同していることになっているのが余計に理解できない。


「ねえ、私やるなんて一言も…だいたいどんな仕事かも知らないのに」
「ああ、簡単だよ。知り合いに芽夢ちゃんみたいな子好みの人がいてね、一日遊ぶだけ」
「……は?え、なに、なんて?」


さすがに、これを聞き逃すほど馬鹿ではない。河野がさも当たり前のように言うものだから理解は追い付いていないが。混乱する頭で状況を整理する。知らない人と会って、一日を過ごして、お金をもらう。その行為に当てはまる言葉が、一つだけあった。瞬間、芽夢は両手で思い切り机を殴って立ち上がった。バンッ!と大きな音が響く。


「馬鹿にしないでよっ!援交しろって言うの!?」
「そんなこと言ってないだろ?それを決めるのは当人たちだし、そこまでは介入するつもりないし」


白々しい。そんなの、言っているようなものだ。話にならない。いや、話にならないのはあの写真を餌に脅された時から分かっていたことだ。少し、ほんの少しの間だけ我慢すれば良い。そうしたらきっと離れていってくれる。そう思っていた。けれど、これはもう我慢なんていう話ではない。本当に、話が通じないどころか通す気すらないのだ、この男は。


「もうやめて、付き合いきれない」


それだけ告げて、芽夢は河野の隣から離れた。もう話を聞くつもりもなかったし、関わるのも御免だった。彼に好かれていないのは分かっていたが、まさかこんな下らないことのために利用されるなんて耐えられない。
けれど、ここで選択肢を間違えたのだ。危ないと、そう悟った時点で走って逃げなければいけなかった。突然腕を取られて、苛立ちに振り払おうとすればそれよりも先に強い力で引っ張られて芽夢の身体は呆気なく傾いた。がつん、と痛々しい音がすぐ側でして、じんじんと痛み出す肘を打ちつけたのだと理解するころには、芽夢は河野によって机に張り付けられていた。


「な、…っ!?」


何をすると怒鳴りつけてやるつもりで、上げようとした頭が押さえつけられる。河野のごつごつした手が、首に這って芽夢は思わず息を詰まらせた。徐々に力がこもる手のひら。首を圧迫する感覚に、呼吸が遮断される。痛みと息苦しさが同時に襲ってきて、芽夢の身体はがちがちに固まってしまった。


「…意味、わかんねんだけど」
「っ、こ…のく…っ」
「できるだろ?芽夢ちゃんは年上なら誰でもイケるビッチだもんなあ?」


それはおまえが流した下らない噂だろう、と言えたらどんなに良いか。きっと首を絞めるこの手が離れても、言えないのだろう。見上げた河野の顔は、とても今まで一緒にいた人とは思えないものだった。鬼のような形相、というのはもしかしたら今のこの人のようなことを呼ぶのかも知れない。机に押し付けた芽夢の身体に覆い被さるように首もとを拘束し続ける河野に、ただひたすら恐怖だけを感じた。


「ねえ、なんでやんないの?芽夢ちゃんなら余裕でしょ?」
「っで、きないよ…っ」
「だから、それが分かんないんだって。なに、もしかしてまだ幸村さんが気になるの?言ったじゃんあの人は君だけじゃないよって、君もそうだったじゃん」
「…っ」
「ったく、しょうがないなあ、君は」


ふと、河野の片手が上がり呼吸への圧迫感が薄れた。それでも現状は変わらず、芽夢はその手首を掴んで離そうともがくけれど、小刻みに震える手ではびくともしない。


「これ、なんだと思う?」
「、…?」


河野が芽夢の目の前に掲げた、正方形の小さな袋。指先で摘まれたそれを、芽夢はぼうっとする意識で捉えた。言葉の出ない芽夢に、彼は笑みを深くする。


「楽しくなる薬」
「っ!?」
「ははっ、面白い顔」


何が面白いというのだ。言葉の意味を理解して顔面蒼白になる芽夢をけらけらと笑い、河野は細い首にかけた手を漸く離した。途端に、逆流するように器官に流れ込む酸素に芽夢は激しく咳き込む。息苦しさに、涙を浮かべながら肩を震わす芽夢を楽しげに眺める河野を横目で捉えて、今すぐ殴り飛ばしてやりたくなる。


「ねえ、やってくれる気になった?」
「っ…や、だ」
「分かってないなあ。誰もこれを君に使うなんて言ってないだろ?」
「は…っ?」
「……テニサーの奴ら、いつもドリンクとかベンチに放りっぱなしなんだよね」


もう呼吸は遮られていないのに、その瞬間また芽夢は息が出来なくなった。不用心だよなあ、なんて尋ねるように言ってくるこの男の思考回路を、本気で疑った。なんだ、それ。頷かなければ、彼にその手にあるものを飲ませると、そう脅しているつもりなのか。ただの脅し、でまかせかもしれない。そう突っぱねられたらどんなに良いか。この男は、本気だ。ぎらぎらと輝く眼光に貫かれたように身体が動かない。脳裏に、彼の顔がちらつく。花火が瞬くように浮かぶ笑顔が、その笑顔でラケットを振る姿が。それが、壊れる?私のせいで?彼に幸せであってほしいと、応援したいと思っていたのは誰だ。他でもない、自分自身ではないか。その自分が、これ以上彼を苦しめるなんて、そんなの耐えられるはずがない。そうだろう?本来、自分はあの人の隣に居る存在ではなかったはずだ。在るべき形に戻る。否、戻さなければならない。だって、私はやっぱり弱いし、自分が嫌いなままだし。あなたの言ってくれた好きも大丈夫も、やっぱり信じ切れていないのだ。幸村さんと居る時間は、まるで夢のようで、もしかしたら本当に夢かも知れないし。大丈夫、夢から醒めるだけ。私も、あの人も、この男も。

都合の良い夢はお終いだ。こんな、よっぽど悪夢らしいことの方がずっと現実味があるじゃあないか。
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