「本当、君は昔っから勉強しないよね」
ぐさりと刺さる辛辣な言葉に苦く笑いながら、箸で摘んだ白米を口に放り込んだ。目の前に座る幸村も、同じ定食に手をつけながら短いため息を吐く。おかしい、ただ授業が難しいという話をしていただけなのだが。中学の頃から勉強が大の苦手だったのは認めよう。試験勉強をするくらいなら学校の外周でも走ってきた方がまだマシだというくらいには。アメリカの養成学校ではほとんどラクロス漬けの毎日で、勉強なんてさほど必要とされなかった。言葉を交わせれば問題ないといったくらいだ。その怠惰の積み重ねが、こちらに戻ってきてから足を引っ張る羽目になったから、今こうして彼と違う学年に在籍しているわけだが。しかし、勉強のことを話す度にそんな呆れたような顔をされると、僅かながらも不安が生じる。勉強出来ない子は嫌いだろうか、とか。要領が悪くて嫌になったのか。とか。そんなのはただの杞憂だと、あの日の言葉を思い出せば分かることなのだが、未だに同じ学校の友達という関係がどうしても不安にさせる。それを望んだのは、自分のくせに。
同じ学校の先輩と後輩。その常識に則って、通学中に鉢合わせても片腕を伸ばした分の距離を置いて、こうして一緒に食堂に来ても基本的に隣には座らない。噂されている恋人同士というよりは、噂によって周りに一線置かれている芽夢を気遣っている友人といった雰囲気だ。当然一緒に居るのだから周りからの厳しい視線は感じるのだが、友人として仲良くすることくらい大目に見てほしいものだ。なんて、気持ちに余裕の出てきた証拠だろうか。そう遠くない未来、彼に一番近い人間になれるのだと思っているからこその余裕。日増しに確実に膨らむ想いへのもどかしさもある。それはきっと彼も、いや、芽夢以上に彼が感じていることでもあるのだろう。一定の距離を置きながらも、互いの気持ちがふとした口調や仕草から伝わってくる。触れたいし、もっと言葉で伝えあいたい。もっとそばに行きたい。その日はきっとすぐそこまで来ている。
「こら」
「!」
「人の顔ばっかり見てないでちゃんと食べなさい」
幸村に指摘されて、芽夢は慌てて止まっていた箸を動かした。うわあ、もう、恥ずかしい。目の前の人に見とれて食事中だということを忘れるなんて。赤くなっているであろう顔を隠すようにうつむいて味噌汁を啜る。そんな芽夢を前に「人の気も知らないで…」なんて零している幸村の声はしっかりと届いた。すみません知ってます、知らないより質が悪いです。口にはできず心の中で謝罪した。
けじめを、付けなければいけない。自分なりに、自分に出来ることを。具体的なことはあまり考えていないけれど、ひとつだけ、胸にずっとつっかえていることがある。最後に病院を訪れた日から、一度も日高に会っていない。自分の明確な気持ちを話さないまま、ずっと彼を遠ざけてもう一週間になる。このまま、流されるままに彼に背を向けたままにするわけにはいかない。言わないと。あなたの言葉で自分の気持ちに気付けたと。あなたが居たから今の自分が居る、その事実は変わらないと。その本心を伝えるだけの気持ちはある。ただ、もう少し、あと少しだけ時間があれば。一歩を踏み出す勇気は、自分の力で振り絞らなくてはならない。自分のためにも、彼のためにも。
「あ、いたいた、幸村くん」
不意に、芽夢と幸村の二人だった会話に落ちた声。箸を持ったまま顔を上げれば、トレーを抱えた女の子が二人。この場に居るのだから立海の学生であることは確かなのだろうが、芽夢にはどちらも見覚えがなかった。どうやら相手方も用事があるのは幸村だけらしく、芽夢がまるで見えていないように幸村に話しかけている。「ごめんねー、ノート借りっぱだったー」「ああ、良いよ。もう平気なのかい?」「うん、助かっちゃった。ありがとー」そんな会話をぼんやり聞きながら、芽夢は自分に無関係だと分かると再び食事に意識を戻した。しかし、何でもない会話はそこで途切れたにもかかわらず、彼女たちはその場から去ろうとはしない。「あのさ」と戸惑ったような声に疑問を抱いて視線を上げると、幸村にノートを渡していた方の彼女と視線ががっちりかち合って思わず力んだ。かちり、と交差した箸が音を立てた。脇役に徹しようとした矢先に、嫌な予感が胸に落ちる。
「幸村くん、の、彼女?」
ああ、やっぱり。芽夢はうなだれたい気持ちを抑えて、表情に出さないよう口を真一文に結んだ。噂はあっても、こんなふうに直接的に言われたのは初めてだ。どう返すべきか、考えるほど思考はこんがらがる。けれど、どうしようと内心で慌てる芽夢の代わりに、小さく幸村が笑った。二人の視線は、自然と芽夢から幸村に向く。
「彼女は友人だよ」
「あ…そ、そっか。ごめんね、なんか変な噂立ってるから心配で…ねっ!」
「あ…うんっ、ただの噂だったなら、良かった」
「いや、こっちこそ勘違いさせて悪かったね。心配してくれてありがとう」
人当たりの良い声色と笑顔。それに気を良くしたのか、二人は芽夢にも「いきなりごめんね」と笑って離れて行った。その背中を眺めながら、芽夢は余計気が重くなるのを感じた。何でもないように言っていたが、正直なところ芽夢には彼女たちの言葉がどこまで本心なのかは理解できない。ただでさえ他人の気持ちを汲むのが苦手なのだから、初対面の人間の考えることなんて分かるはずもない。本当にただ心配してくれただけかも知れないけれど、もしかしたら彼女たちも幸村が好きで余計に妬みを買っただけかも知れない。あからさまな態度を取っては事態が悪化するのは明白で、だから幸村の対応も静かだったのだろう。こうやって、思い知らされる。まだ、この人の一番になることは許されないのだと。胸を張って隣に立つ資格が、今の自分にはないから。おかしい。我慢をしているのは幸村の方なのに、自分の方がこんな寂しい気持ちになるなんて。
「水竿さん?」
「…………」
「……芽夢」
「っ!?」
「ふふっ、俺を無視するなんて、酷いな」
「ゆ、きむらさっ…ここ、食堂…!」
「うん、知ってる」
知ってる、なんて。悪びれもなく笑う幸村に芽夢は慌てるばかり。ああ、面白がられている、なんて分かっても上手く感情の制御が出来ない。芽夢はこの友人関係という微妙な距離にもどかしさを感じているのに、彼は時折それさえ面白がっているように見える。困惑するどころか、今のこの状況を満喫しているかのようだ。と、それとなく思ったことを濁しながら伝えても、困ったように「俺だって余裕があるわけじゃないんだけどな」なんて言われてしまって、それ以上文句も言えなくなってしまった。素直に謝罪をしても、彼はまた君は悪くないからと言うのだろう。弱い自分の気持ちに向き合えないことが、悪くないはずないのに。自己嫌悪と、今の一連のやりとりでの精神的疲労で、芽夢は箸をトレーの隅に並べて置いた。「もういらないの?」と尋ねてくる彼に、苦笑しながら残りの焼き魚を差し出す。彼が焼き魚が好物で、尚且つ結構な大食らいだということは一緒に昼食を取るようになって知ったことだ。残り物を押し付けるなんてはしたないかとも思ったけれど、当たり前のように受け取る彼に少し安心。
「水竿さんって食が細いっていうか、肉食べないよね」
「えっと、食べないわけじゃないですけど」
「何が好きなの?」
「豆腐とかヨーグルトとか。豆類は好きです、野菜全般も好きですよ」
「なんか健康的すぎて不健康」
いまいち意味が通っていないような気もするが、つまりあれだ。彼はバランスが悪いと言いたいのだろう。もちろん今上げたものばかりを食べているわけではない。肉もそれなりに食べれば炭水化物もしっかり取る。強いて言うなら洋食より和食派だが、留学期間中に偏食は治したつもりだ。兎にも角にも、彼とは食事の趣味は合わなそうだというのは常々感じていることである。芽夢から受け取った鮭を口に放り込む幸村を見ていると、それでもまあ良いかと思ってしまうのだが。
プロ転向も考えていない、大学一杯のテニス人生、と語る幸村は、それでも時間に余裕のある日は積極的にテニスサークルに参加しているように見受けられる。一週間前からぱったりとラクロスに関わらなくなった芽夢と彼の大きな違いである。よって、通学路が途中まで一緒でも帰りの時間が重なることは殆どないのだ。今日も今日とて、芽夢は以前までより軽い手荷物に違和感を拭い切れないまま一人帰路につくことになった。
「あ、芽夢ちゃん、芽夢ちゃん」
はず、だったのだが。
校舎を出るなり後ろから声をかけられ、芽夢は自然と立ち止まる。芽夢ちゃん、なんて呼ぶ人が知り合いに居ただろうかと疑問に思いつつ振り返ると、少し後ろから控えめに手を振る見知ったえびす顔。
「河野君」
同じ授業を取っている、テニスサークルの知人である彼だった。確か、ちゃんと話すのは夏休みの飲み会以来だったはず。同じ授業とはいっても、毎回近い席に座るわけでもなく、遠くから姿を見ることはあっても声をかけられたのは久しぶりだ。どうかしたの、と駆け寄ってきた彼に尋ねれば「背中見えたから、つい」と人懐っこい笑顔を向けられる。以前も思ったことだが、基本的に人当たりの良い大らかな人だ。当たり前のように隣に並ぶ彼を見て、途中まで一緒に帰ろうという意図を悟った。なんだか犬みたいな人だな、なんて。
「そういえば、変な噂立ってるけど大丈夫?」
一つ目の横断歩道に差し掛かったところで、思い出したように振られた話に一瞬思考が止まった。けれどすぐに、ああまたその話かと溜め息が零れそうになるのを飲み込む。少なくとも彼は興味本位でなく心配してくれていると分かる。そんな人に、いくら耳にたことはいえ不機嫌を晒すわけにはいかないだろう。
「大丈夫だよ、ただの噂だし」
「そっか、良かった」
心底安心したような笑顔。優しい人だ。幸村とは、少し部類の違う優しさだが。心配させてしまったのが少し申し訳ない。
「…良かったよ、君が馬鹿で」
「……は?」
突如変わった声色。上手く反応出来なかった芽夢は素っ頓狂な声を上げて隣の人を見上げた。しかし、表情は相変わらず人当たりの良さそうな笑顔で。今のは、本当にこの人が言ったのだろうか。そんな疑問を抱いて困惑していると、不意に「こっち」と腕を引かれる。青に変わった信号。横断歩道を渡る前に引っ張られて、芽夢は不信感を抱きながらも彼の後に続いた。連れられた、人通りのない裏路地。住宅に挟まれた隙間に、この時間帯に人の目はない。
「…あの、河野君」
「あ、うん。ちょっと話したいことあって」
沈黙に不安を感じ声をかけると、意外にも簡単にその手は解放された。くるり、と身体ごと振り向いて芽夢と向き合った河野は、表情こそ変わらないけれどどことなく底の見えないような雰囲気を漂わせている。あの、ともう一度声をかけようとしたのを遮って、彼が芽夢を呼んだ。
「芽夢ちゃん、気にならなかった?」
「う、ん…?」
「噂を流したのが誰なのか」
「…えっと」
「幸村さんの方は色々探ってたみたいだけど。普通は気にするよな、君らが浮気してるなんて話が流れたら」
「ちょっと、河野君?」
「だって、本当のことなんだからさ」
「はっ…!?」
当たり前のように吐き出された台詞に、芽夢はとうとう声を荒げずにはいられなかった。本当のこと、なんてどうしてそんなことが言えるのか。理解力のない芽夢でも、嫌でも浮かんでくる仮定。あの噂を流したのは、この男なのか。どうしてそんなことを、と詰め寄ろうとすれば、逆に腕を取られ動きを制される。痛くはない。が、それでも必要以上に強い力に表情を歪ませる。
「芽夢ちゃん、俺と付き合ってよ」
そして告げられた言葉に、芽夢は呆然と目の前の彼を凝視することしかできなかった。思わず聞き返しそうになって、すんでのところで呑み込む。にこにこと笑顔を振りまく彼に、何も言葉が浮かばない。疑惑が確信に変わる。噂を流したのは彼で、しかもそれは間違いなく故意的なもの。けれど今の言葉は?嘘か本当か、分からない。
「…ご、めんなさい。付き合えない」
それでも、返す言葉は始めからそれしかない。狭い路地裏、近い距離に戸惑いながらも頭を下げる。もう、他に入り込むものなんて考えられないくらいに、芽夢には幸村だけだった。非道と言われようが、彼に手を取ってもらって漸く受け入れられた自分の本心に、今さら逆らえるわけなど、ない。
しかし、静けさに満ちた二人の間に、落とされたのはくつくつという男の笑い声だった。笑って、いる?シチュエーションと合わない反応に、芽夢はそっと顔を上げた。目の前の河野は、どうしてか笑いを堪えるように俯いて肩を揺らしていた。
「こう、のく」
「ッ、くくっ…芽夢ちゃんってさあ、基本的に馬鹿だよな」
「ば…っ!?」
「何のために噂を流したと思ってるんだよ」
がさり、そんな音を立てて、芽夢の眼前に曝される紙。コートのポケットにしまい込んでいたのか皺のついているそれに描かれたものを見て、芽夢は河野から見ても明白なほど戸惑いに顔色を変えた。口は開閉させながら言葉にならない声を出す芽夢が見たもの。それはあの夏休みの日、居酒屋の店先で自分と幸村が抱き合っている写真だった。言葉が出ない、といった様子の芽夢を眺めながら、河野は指先をずらして後ろに隠れたもう一枚の写真を見せる。誰にも告げず合流し、二人で手を繋ぎながらホテルに入っていった時を写したそれに、芽夢は顔色を蒼白させた。
「な、で……」
「おまえら尻尾出すの早すぎなんだよ。夏休み前に学校で修羅場ってんの見かけたから面白半分で張ってたら案外簡単で拍子抜けしちゃった」
相変わらず見てくれの良い笑顔で吐かれる言葉の数々に、芽夢はこれは本当にあの河野なのかと疑った。本当に純粋な、悪戯が成功した子供のような表情。その裏に潜んでいたものが露わになっていく現状に、芽夢は見るからに戸惑っていた。
「か、えして」
「返して?これは俺が撮ったんだから俺のものだよ?」
「っ!」
「あ、取ろうとしても無駄だから。家にデータ残ってるしな」
これ、幸村さん見たらどう思うんだろうなあ。そう独り言のように呟く河野に、芽夢は写真を奪おうと伸ばしかけた手を握り締めた。そんなの、許せるものか。ただでさえ学校で肩身の狭い思いをしているというのに、こんなものが幸村の…否、彼と自分の噂される関係を良く思わない学生たちの目に触れたらどうなるか。漸く気持ちが固まり、もう一歩というところまで来たのに。
「君、何か勘違いしてない?」
「勘違い……?」
「幸村さんが今どんなに迷惑してるか、知らないんだろ。芽夢ちゃんテニサー見にこないもんね」
「え…」
「可哀想だよな。君の浅はかな行動が原因で遠巻きに噂されて、矛先が自分に向いたら当たり障りのない笑顔貼り付けてフォローして、影でうんざりしたみたいな顔ばっかしてる。ただでさえ大変なのに、こんな写真出回ったら嫌われちゃうね、芽夢ちゃん」
「っ、そんなこと…」
「ないって言える?幸村さんと元カノの関係ダメにしたのも、君なんだろ?」
「ち、ちが…」
「今はさ、あの人も君じゃないと駄目みたいに思ってるかも知れないけど、そんなわけないじゃん。あの人が知ってる女は君だけじゃないんだから」
じくり、じくり。河野が言葉を吐く度に、鈍い痛みが走る。刃物がゆっくり突き刺さっていくような、息の詰まる痛み。河野の言うことは非情だ。けれど、それは否定することが出来ない。あんな写真、見られたくない。幸村を信用していないはずがない、周りにどんな目で見られようと、待っていると言ってくれたあの人がいたから。だけど、もし。もしも、河野の言うようにこの写真が他の人の目に触れて、今以上に彼に迷惑がかかってしまったら。幸村を信じていても、この先のことなんて何も分からない。あるいは、彼の言う未来のように。幸村に、嫌われる。そんなの。
「や、だ…っ」
「…なあ、芽夢ちゃん。良いこと教えてやろうか」
「え…?」
「君が先に幸村さんから離れれば、あの人は嫌な思いをしなくなるよ」
「!」
「俺も写真ばらまかないって約束するし、さ」
ね?と首を傾げられ、芽夢は肩を震わす。それは提案というよりは、脅迫に近いものだった。そっと先導するように、芽夢の意思も選択肢も潰していく、おそろしいもの。どうして、こんなこと。掠れて消え入るような声で呟けば、河野はさも当然というように迷わず口を開いた。
「芽夢ちゃんが欲しいから」
「っ!」
「だから、ね」
俺と付き合ってよ。その台詞はほんの数分前と変わらないのに、まるで別人のように冷たい声色。有無をいわせないといった態度、目の前に掲げられた写真、発せられた言葉。そのすべてに、芽夢は異常なほどの恐怖を感じていた。この人は、本当に自分のことが好きなのだろうか。それすらも分からなくなるほどの、彼からの強要。
潰された選択肢の先に、あの日待っていると囁いて頬に触れた、幸村の笑顔も一緒に見えなくなった。