U・シンデレラヴィジョン | ナノ



ばちん!弾くような音と、時間が止まったような錯覚に芽夢は呆然と立ち尽くした。芽夢の頬を張った手のひらは未だ宙で小刻みに震えている。徐々にじんじんと痛みを訴える頬に指先を添えた。熱い。それを眺めていた周りの方が先に我に返ったようで、ちょっと、と慌てた声を上げた。


「越智、いきなり殴らなくっても…」
「っるさい!私はっ、信じらんないのよこの子が!」
「それは…」


ざわざわと煩くなる空間と、集中する視線。今居るのが学校内だということは、きっと彼女は忘れてしまっているのだろう。
越智が怒るのも無理はない。周りもそう思っているのだろう。突然手を上げたことを言っても、殴ったこと自体は誰も責めようとしない。きっと、自分が彼女たちの立場でもそうするだろう。ふらふらと安定しなかった視点を、前に据える。十センチ以上差のある彼女を見上げると、今までにないくらい怖い顔が芽夢を睨み付けていた。怒っているはずなのに、泣きそうだ、と思った。


「もう、コーチとは別れました」


引き金は、間違いなくその一言だった。
サークルに誘ってくれた先輩を前に、肯定も否定もせず真っ先にそう告げた。順を追って話せば良いものを、そんなことは頭になかったのだからやっぱり自分はどうしようもなく馬鹿なのだと思った。「なにそれ」低く呟いた越智に目を向けるより先に、振りかざした手に頬を殴られた。


「最低だよ、あんた。今まで散々コーチに世話になっといて、怪我したからって手のひら返すのかよ」
「……」
「その程度のものなら、うちらの中に入ってくんなよ!大して上手くもないくせにっ!!」
「っ、」


ガツンと、鈍器か何かで頭を殴られたような衝撃。思わず目を見開いてその言葉を発した越智を凝視してしまう。
今まで、何度も言われてきた。否、こんなものではない。出来損ないと、役立たずと言われた。病気に打ち勝って復帰した芽夢に待っていたのは、故障品という罵倒の言葉。慣れてる、はずだったのに。この学校に入学してからは、初めてだった。少なからず、仲間意識を抱いていたのだ。留学している間はチームメイトでさえ敵だった。だから余計に、サークルという場が好きだったのだ。
なのに、その仲間にも、あの非情な人たちと同じことを思われていた。やっぱり、と納得してしまうのが余計に惨めにさせられる。
先に裏切ったのは、自分なのに。いつだって、手放したのは自分の方なのに。傷付くなんておかしい。


「ごめん、なさい」


言い返す言葉もない。深く、顔が見えなくなるまで頭を下げて、越智を見ないようにした。謝ることしか出来ない。弁解することなんて何一つないけれど、自分で自分を出来損ないだと認めてしまったら、きっと自分は空っぽになってしまう気がしたから。だって、もう必死になってラクロスをやる理由がない。わざとらしく泣いて、構ってくれる人も居ない。ひとり、なんだから。
このまま、彼女たちを見ずに終われたら。そう思ったけれど、上手くはいかないものだ。不意に突き飛ばすように肩を強く押され、芽夢は後ろにひっくり返るように尻餅を付いた。地面に付いた手がじんじんと痛むのを他人ごとのように感じながら、そっと視線を上げる。芽夢を見下ろす越智の瞳には、本来芽夢が流すはずだった涙の膜が張っていた。そっと、後ろに控えていた白井が越智の肩に手を置いて、宥めるように名前を呼ぶ。じわじわと溢れる涙がとうとう頬を伝い、越智はそれを隠すように手のひらで顔を隠した。


「越智、もう止めなって」
「だって…、日高コーチ、かわいそう…っ」


可哀想。それは、芽夢からしてみればある意味で衝撃だった。同時に、日高を思って涙を流す越智に、一つの確信が生まれる。誰かのために泣くなんて、そう簡単に出来ることではない。事実、芽夢は自分可愛さ故のことはあれ、恋人のために泣いたことがあっただろうか。彼に一番近かったはずの芽夢に出来なかったことを簡単にやってのける越智の言葉で、嫌でも彼女の心情を悟ってしまった。
この人は、私なんかよりもずっと、ずっと彼のことを想っていたんだ。


「ごめんなさい」


勝手に口から出た謝罪。それに対する返答も聞かずに、芽夢は立ち上がると彼女たちから逃げるように走り出した。背後から呼び止める声がしても、決して振り返らなかった。逃げる以外の方法を、芽夢は知らなかった。普段なら病院に向かうはずの足で、学校を飛び出した。騒ぎを聞いて集まった学生の視線が突き刺さるように痛かったけれど、そんなものに構っている余裕もない。
何も信じられなかった。他人にどう見られているか、影で何を言われているか。そんなもの、もう何年も前から受けてきたのに。自分を必要としてくれた人が、認めてくれた人が居てもう大丈夫だと思っていたのに。やっぱり、他人の評価ほど怖いものはなかった。それは、自分がろくでもない人間だと暗に言っているようで、だけど否定も出来ずにいる。本当に、信じてなんかいなかった。大切な人からの愛情も、大好きな人の言葉も。だから、純粋に他人を思いやる言葉が、芽夢にとっては刃物と変わりなかった。
もう、あの輪の中にも自分の居場所はない。

その翌日から、芽夢を取り巻く環境はがらりと変化した。
サークルの仲間と言葉を交わすことは、予想していた通りなかった。その代わりとでもいうように、芽夢に向けられる視線が増えた。それは、昨日の言い争いが原因だろう。校内であれだけの騒ぎを起こしたのだから、多少は仕方がないと腹を括っていた。正直、その程度でどうにかなると思い込んでいたのだ。


「あの子でしょ、こないだ交通事故に遭ったっていう」
「ああ、彼氏が大怪我したとか噂されてたね」
「そうそう。そんでさ、あたし昨日聞いちゃったんだけど」
「何なに?」
「なんかサークル?の人だかとめっちゃ喧嘩してて。なんか後遺症残るとかで彼氏捨てたらしいよ」
「えー何それサイテー。使えなくなったらソッコーポイとか」
「まぁすごい年上らしいし分からなくないけど」
「うっわ由美子マジ鬼ー」
「るっせ」
「ってか、その子もともと浮気してたんでしょ?」
「え?何それマジ?」
「さあ、なんかテニスサークルの奴が言ってた」
「なんでそこでテニサー出てくんの」
「あー、なんか浮気相手ってのが…あ、そういや梨花って幸村君お気に入りだったっけ」
「え、うん。って、はあ!?えっちょ、なにその振り、っえマジ!?」
「んー、まあ…」
「うーわー梨花ドンマイ」
「えー!やだ!なんで幸村君!?」
「知らないし。でもそういう噂。まあ嘘かもしんないし」
「ちょ、マジふざけんな。幸村君が彼女と別れたから狙ってたのに」
「デマなんじゃん?あの子、元カノと全然違うタイプじゃん」
「あ、なんかギャルっぽいよね。髪とかほとんど銀髪じゃん」
「しかもチビだから全然合ってないよね。別にそんな可愛くないっていうか、童顔?子供みたい」
「てかあの身長でラクロスサークルなんでしょ。良くやるよね」
「あ、ていうかあの子中学も立海だよ。私一回同じクラスだった」
「え、マジが知らなかった」
「梨花は外部だもんね。でも見た目違いすぎて私もわかんなかった。結衣は知ってるっしょ?ラクロス部のすっごい上手い子」
「えー…あーでもラクロス部強かったね。あの子そんなすごいの?」
「ああ、なんか噂なんだけど、病気して上手く出来なくなったらしいよ。中学で天才とか言われてたけど見る影もないって」
「うっわかわいそー」
「つかそんなんどーでも良いわ。マジ幸村君と釣り合わないから、うっざ」
「梨花こっわ、ガチじゃん」
「だって事故って怪我したからって彼氏ポイするような奴なんでしょ?そんで平気で幸村君に手出すとかそいつ絶対ビッチだって」
「確かに。幸村君も良いように使われてるだけかも」
「幸村君がビッチに傷付けられるとかマジ堪えらんないんだけど!さっさと別れちゃえば良いのに」
「なんかすごい噂になってるし、案外あっさりビッチばれて別れるかもよ」
「本当それに期待するわー」


ああ、うるさいな。まるで他人ごとのように思っても、それが自分のことを指しているのは明白だった。最初は陰口を言うくらいの声量だったのに、幸村の名前が出るくらいからヒートアップしてしまったらしく会話は少し前を歩く芽夢に筒抜けだった。元々耳が良いため、最初から聞こえていたのであまり変わりはないが。一体いつの間に、日高の後遺症や自分の病気、それに幸村との話が噂になったのかは分からない。名前も顔も知らないような人たちにあることないこと言いふらされるのは、気分が悪い。けれど、その全てを否定することは出来ない。経緯はどうあれ、彼女たちが噂する話は事実だ。今まで必死になって隠してきた自分の過去についても一度露見してしまえば簡単なものだ。平穏だった生活が、一気に崩れ去ったような衝撃だった。放っておいて欲しかった。出来ることなら誰にも知られないまま、四年間を過ごしたかったのに。誰にも触れられたくなかった。だから、芽夢はひたすら黙ることに徹した。噂なんて、いつかは忘れられるもの。もう、日高にもラクロスにも幸村にも近寄らず、普通に過ごしていれば、これ以上の言葉を浴びせられることはきっとない。だから、少しだけ我慢すれば良い。それだけのこと。


「水竿さんっ」


なのに、やっぱり上手くいかないのだ。後ろからがっしりと掴まれた手首。思わず足を滑らせてひっくり返りそうになって、芽夢は間抜けな声を上げてしまった。突然のことに振り向けば、芽夢よりも慌てたような顔をした、幸村が立っていた。ざわざわと、先ほどまで芽夢のこと陰口とはいえない大声で話していた三人のざわめきが耳に届く。


「な、幸村さっ、なんで」


あの会話が聞こえなかったのか。そんなはずないだろう。彼を責めるのはお門違いだと理解してはいるが、背後からの視線が痛い。少しは空気読んで、と破天荒ぶりを発揮する幸村に言いたくなったけれど、途端にむすっと膨れっ面になった彼に何も言えなくなってしまった。


「昨日から何回も電話してるのに出ない君が悪い」
「え、電話…あっ、電源切れ、えっ」
「良いからとりあえずこっち来て」
「で、でもっ」
「…、ああ」


なるほど、と幸村は芽夢の視線を追って呟いた。訝しむ視線と、今度は聞こえないように小声で交わされる陰口。幸村はその姿を横目で一瞥するが、ほんの一瞬で彼女たちは気付かなかったらしい。幸村は気にしないとでも言うように、再び芽夢の腕をぐいぐいと引っ張り出した。戸惑いがちに、僅かに抵抗の色を見せながら渋々着いて行くと、頭上から小さいため息。


「俺、自分でも他人でも陰口って大嫌いなんだよね。ほら行くよ」


向こうに聞こえないくらいの、不機嫌な声。他人に対してそんな嫌悪を剥き出しにする彼は見たことがなくて、それが本音だとうかがえる。そんなに嫌なら、この掴んだ手を離して先に行ってくれれば良いのに。そう言うこともできず、芽夢はとりあえず手を離してくれることを条件に重い足取りで彼の後に続いた。明日からまた噂の一人歩きが悪化するのかと思うと余計に気が重かった。
幸村に連れられて来たのは、教員専用の駐車場。なるほど、ここなら学生はまず来ないだろう。重い話をするには最適の場所だ。なんて前を歩く彼に内心で皮肉る。


「単刀直入に聞くけどさ」
「…はい」
「あの噂、どこまでが本当?」


単刀直入すぎやしないだろうか。だいたい何を言われるかは分かってはいたが、彼は至って真剣な様子。普通ならこんな噂が立てば、警戒して接触を避けるものだと思っていたのだが、どうも自分の考えが浅かったようだ。噂、とはいっても、病気でラクロスが上手く出来なくなったというのは彼は既に知っている。幸村と浮気をしている、なんて、そんなの彼がどう思うか次第。間違いはあの夜の一度きりなのだから、否定しても嘘ではないと思うが。兎にも角にも、彼が確認したいことは一つだけだろう。


「全部です」
「…本当に?」
「はい。半身麻痺になった雅人を捨てました」


一体どこから、彼の後遺症が露見したのかは芽夢の知るところではないが。捨てたわけじゃない、そんなことで愛想を尽かしたりしない。本音はそう言いたがっているのに、口がいうことをきかない。噂が立っているのにこの人と親しくしてはいけない。あなたが忘れられなかったなんて、言っては駄目だ。疼き出す下心を殺すことで、必死だった。好きにして良いと日高は言ったのに、それに素直に従えない。ここで甘えたら、彼にも迷惑がかかる。


「そっか」
「……」
「じゃあ俺、期待しても良い?」
「はっ?」


俯き気味だった顔をがばっと上げた。あっけからんとした顔がそこにあって、芽夢はまばたきを繰り返すことしかできなかった。なんで、そんな顔をしたいのはこちらの方だというのに。


「は、って何だよ。駄目なの?」
「…えっと、何を言ってるのか、よく」
「あのさ、俺はね、自分なりに君のことずっと見てきたつもりなんだよ」
「…っゆき」
「君が、すごく怖がりだっていうのも良く分かった。だから、俺は君が怖くなくなるまで待っていようって思ったんだ」


そっと、だらんと降ろしていた右手に幸村が触れる。思わず逃げようとしたけれど、包み込むように両手で捕まえられて逃げられない。ああ、そうか。人気のない場所ならばまたおかしな噂が立つことはないと思っていたが、それは同時に見られないなら人目を気にして行動する必要がないということ。もしこの場にあの女の子三人組が居たなら、幸村はこんな真似はしなかっただろう。ゆっくり手の甲を撫でられて、顔に血が昇るのを感じた。まっすぐこちらを見てくる彼が、直視できない。


「噂が怖いなら、なくなるまで待つ。日高さんとのことも、君が納得できるまで待つから」
「……」
「君を幸せにするのがあの人じゃなかったなら、俺がしたい。君が嘘をつかなくても辛くないようになるまで、待たせてくれないか」
「っ、」


手を撫でていた指先が、そっと顔に伸びてくるのが分かっても拒絶できなかった。頬に触れて、流れ出した涙を掬う人差し指。いつの間に、泣いていたのだろう。困ったように笑う幸村の顔がちゃんと見れない。冷たい反応をしても、軽蔑されるようなことを言っても、この人は離れるどころかそばに来てくれる。


「弱ってるのに付け込むみたいでごめん。でも、今言ったことを取り下げるつもりはないから」
「っ、ゆきむら、さん…」
「待ってても、いい?」


不安げに尋ねられて、すぐにでも頷きたかった。けれどそれを許さないのは、自信が持てないから。彼を待たせて、自分の気持ちを整理できるのだろうか。周りからの視線が、話し声が怖い。こんな状態で、彼に応えることができるのか。また、甘えるだけ甘えて、傷付けるだけになってしまうのではないか。好きなようにして良いと、あの人は言った。けれど、そうするだけの覚悟がない。恐怖心だとか、罪悪感だとか、いつも通りの自尊心が本音を隠す。不意に、答えられずにいる芽夢の名を幸村が呼んだ。


「俺、中学で三年間片思いしてたんだよ」
「え…?」
「で、ここで会ってからも結構我慢してると思う」
「そ、れは」
「待つのは慣れてるから」
「っ!」
「だから、水竿さんのペースで良いんだ。それで、最終的に俺と一緒に居てくれたら、嬉しい」


ああ、一体どのくらい、この人に辛い思いをさせていたのだろう。こんなにひたむきな愛情を貰っておいて、何も返せない自分がもどかしい。今も自分を優先させているのが、悔しい。この人に、大好きだと伝えたい。それだけのことが出来ないなんて。幸村の指先が、落ちてきた前髪を掬って耳にかける。撫でるような感触が、くすぐったい。そのまま頬を包まれて、深い海のような瞳に魅せられた。


「キスは、もう少し後で、ね」


そう囁いて微笑む彼に、ほとんど無意識で頷いていた。幸せそうに笑う彼に、もう他のことなんて何も考えられないくらい意識を乗っ取られていた。こんな時なのに、嬉しいと思うのは、やっぱり悪いことなのかもしれない。
だけど、仕方ないじゃないか。好きなんだ、この人が。本当に大好きなんだ。
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