U・シンデレラヴィジョン | ナノ



しんと静まり返る空間。ここにたどり着いて、もう何時間が過ぎただろうか。看護士に宥められても、駆けつけた両親に肩を抱かれても、芽夢は血が付いた服を着替えることもせず、ただそこに備え付けられたソファに座り続けた。視線を上げればすぐに見える、赤いランプは未だ怪しい光を放っている。

飲酒運転だった。追突してきた軽トラックの運転手は即死。巻き込まれたのは日高の車だけ。他に死傷者はいない。
そんなどうでも良い情報ばかりが入ってきて、けれど耳を塞ぐことすら億劫だった。視点の合わない虚ろな目で、自分の手元ばかりを見つめて何時間が経っただろうか。指先について固まった赤黒い血液、これも、あの人の。死者が出るほどの大きな事故に巻き込まれたというのに、芽夢には傷一つなかった。反対車線から逸れた軽トラックは、運転席でなく助手席に突っ込んできたというのに。
なんで、なんで雅人が。

芽夢は彼の腕に抱かれながら、すべてを見ていた。衝撃に意識を失うこともできず、身体から血を流す恋人の姿を。返事のない彼の名を、息苦しさに悶えながらも何度も叫んだ。呼んでも反応のない、力なく崩れる身体。ひしゃげた車体に押しつぶされながら、泣き喚きながら助けを求めた。怖い。怖くては仕方なかった。彼に何を言われるより、軽蔑の目で見られるより、彼が居なくなってしまうかもしれないことが。

どのくらいして、助けが入ったのか。いつ病院に連れられたのか。考えている余裕もなかった。彼の手術が終わる前に、電池が切れたみたいに意識を失った芽夢が次に目を覚まして見たのは、あの忌々しい白い天井ではなく、見慣れた自分の部屋だった。気怠い身体をゆっくりと起こして、枕元の時計を見る。時計の針は五時を指しているが、それが朝なのか夕方なのは分からなかった。
まるで夢でも見ていたような感覚。一体どこからが夢だったのか、髪や身体についていた血が綺麗になくなっていて分からない。どうか、あの事故が、あの一日が全て夢であってほしい。
そんなの、苦し紛れの独りよがりだとすぐに思い知ったけれど。
夕方のニュースで、見慣れた交差点が報道されるのをまるで他人事のように眺めた。運転手は即死、巻き込まれた乗用車を運転していた男性は意識不明の重体。名前までは明かされていなかったが、それが誰のことかくらいは理解できた。

それから、実に一週間。
芽夢は毎日のように日高の病室に通い詰めては、目を覚まさない恋人を思って泣いた。学校も最初の二日は行く気にすらなれなかったが、その翌日からはしっかり通っている。ただ、もとから詰まらないと感じていた講義に耳を傾けることは、ほとんどなかったが。ラクロスサークルのメンバーも、コーチの不運な事故を知り酷く悲しんだが、彼女たちを気にかける余裕もなかったし、向こうも腫れ物を触るように芽夢への態度がよそよそしくなった。彼女たちが見舞いに行くと言っていた日は、自分が行く時間をずらして会わないようにした。
幸村とは、姿こそ見かけはしたものの、会話は一切なかった。芽夢の恋人の事故を知ってか知らずか、彼から話しかけられることもない。
正直、少し安心した。今、彼に何かを言われても正常な反応ができる気がしない。事故に遭う直前、日高に話したことを忘れたわけではない。あんな、身勝手で最低なことを言って、軽蔑されたと思った。きっと、二度と塞がらない深い溝ができたのだと。
だけど、違う。軽蔑されることを悲しんだわけではない。そうなれば良いと、どこかで思っていた。いっそ嫌いになってくれれば、振り切れると。また自分に都合の良いようにばかり考えて。
それなのに、彼は芽夢を見放さなかった。今も呼吸器に繋がれ病室に閉じ込められている、それは本来なら彼でなく自分のはずだったのに。彼が、傷を負わなければならない理由なんてないのに。いっそ自分だったなら、彼を裏切った罰が当たったとでも思えたのに。いつも、神様は私を助けようとする。私はそんな価値のある人間じゃない、中学の時には神にも愛されたなどと下らないことを言われたこともあったけれど、こんな無慈悲な愛なら要らない。
あの事故で潰されるのは私で良かった。否、ラクロスができなくなった時に、いっそのこと死んでしまいたかった。私の心を生かしてくれた人を傷付けて、挙げ句に命の危機にさらすなんて。こんな現実しかないなら、出会う前に殺してくれれば良かったのに。
本当に、そんなことばかりを考えて毎日を過ごした。今まで嫌になるくらい自己保持ばかりだったくせに、一度思ったら止まらなかったのだ。

そして、訪れた十月二十二日。芽夢の誕生日だった。今まで、こんな不毛な誕生日を過ごしたことがあっただろうか。事情を説明して休みを貰っているアルバイト先の人からも、もちろんサークルの仲間や幸村からも誕生日を祝うメールや電話はなかった。唯一、苦しそうな笑顔でおめでとうと言う両親に、どうしようもなく反抗したくなるのを必死にこらえた。何がめでたいものか、大切な人が今も生死の境をさ迷っているというのに、本来そこに居るべき自分はこうして何の支障もなく生活している。あの日、ひっくり返った車体に潰されるのが自分だったら、凶器となったフロントガラスの破片を突き立てられるのが自分だったら、どんなに良かったか。そんなことを言えば両親が悲しむと分かっていながら、叫び散らさない代わりにか細く呟くことだけは我慢できなかった。母親は酷く傷付いたようで、病室で血にまみれた芽夢を抱きしめた時以来、初めて泣いた。父はそんな母に寄り添って、まるで世界から自分だけ切り離されたような気がした。愛はないが情はある、なんて良く言ったものだ。今も、二人を繋ぐものは愛情と呼ぶ以外にない。そして、自分にも確実に注がれるであろうそれを、煩わしいと思った。
そうやって、芽夢の十代最後の瞬間は幕を降ろした。

その日も、芽夢は学校から真っ直ぐ病院へ足を運んだ。母にはケーキでも買っていったら、と赤く腫らした目で提案されたが、芽夢はそれを呑まなかった。自分の誕生日にケーキなんて買って、自分の代わりに生死を行き来している恋人の前で食べろというのか。きっと彼も祝ってくれる、なんて。白々しい。意識のない人間に、そんなことができるはずがない。芽夢はこの数日間、藁にも縋りたくなる思いで病院に通い続けてきたが、思考は常に冷え切っていた。冷静に努めていなければ、きっと自室のベッドから起き上がることさえ出来なかっただろう。ケーキを持たず、代わりに花束を買って芽夢は彼の病室を訪れた。花にはあまり詳しくないので、お店の人に任せきりだ。とにかく鉢植えでなければ良い、という程度の認識しかなかったのだ。

予想より大きくなってしまった花束を抱えて病室に入った時、芽夢はその場で時間が止まったように凝固した。いつもと、違う光景。普段ならば見舞い客が来ていても比較的静かなはずの病室が、今日に限って慌ただしかった。数人の白い服を着た人が彼のベッドを囲んで話をしている。入り口で動けないままその様子を眺めていると、その輪の中の一人の看護士が芽夢の姿に気付き、「水竿さん」と名前を呼ぶ。毎日のように見舞いに来ていて、いつの間にか名前を覚えられていたようだ。看護士に小さく手招きをされて、芽夢は漸く入り口から一歩踏み出した。左右に捌ける医師の間を通って、いつものベッドの前に立つ。
小さく、反応を示した身体。一瞬にして呼吸を忘れるほどの衝撃。薄く、力なくもうっすらと開かれた瞳に、芽夢は意識を捕らわれた。


「まさ、と」


小さく、かすれた声を絞り出す。本当に久しぶりに喋ったみたいに、うまく声が出なかった。聞こえただろうか。それは、瞳を細める彼の目に、自分が映ったことで証明してくれた。目を凝らして漸く分かるくらい僅かな仕草だったけれど、彼は芽夢を見て確かに、微笑んだのだ。

糸が、切れたようだった。込み上げると感じるより先に涙は溢れ出ていて、漸く見れた彼の瞳がぐにゃりと歪んだ視界に溶けた。今まで、眠っている彼の部屋で、一人で泣いていた。それ以外はずっと、泣いてはいけないと言い聞かせる代わりにぼろぼろの去勢を張って。声を上げて泣く芽夢の肩に、優しく看護士の手のひらが触れる。花瓶に生けられることなく床に落ちた大きな花束を医師が拾い上げ、彼の視界に翳した。
あたたかい。あれだけ白々しいと、拒絶していた人たちの態度も、すべてが暖かいと感じた。

それは、奇跡の誕生日。

あの大事故からの生還は、正に奇跡と称されニュースでも広く報道された。二、三日の間は、彼を見舞う人で慌ただしかった病室で、彼は着実に回復の兆しを見せ始めた。一週間、何事もなく治療は進み、このままあと数日で、人工呼吸器も外せるだろうと診断された日の帰り、芽夢はあの日落とした花束を拾ってくれた医師に呼び止められた。その医師に話しかけられるのは、それが二回目だ。一度目はまだ日高が生死の境にいた時。誰から見ても傷心中だった芽夢に、万が一目を覚ましても後遺症が残る可能性がある、と言われていたのを思い出す。

半身麻痺。医師から告げられた事実に、芽夢は再び暗闇に突き落とされたような気がした。身体の半分、左側が動かせなくなっていた。確かに、今日芽夢が左手を握った時にも、彼の手には力がなかった。そのことを、既に彼は聞いているらしい。リハビリをしても回復する保証はなく、一生車椅子が必要な身体になるかも知れない、と。
芽夢が無事に生活できている。その代償の大きさを、芽夢は再度思い知らされた。


「雅人」


もうすっかり日も沈む頃になると、病院は一層孤独感を増す。何度も来ている病室のドアを開ければ、漸く首が動かせるようになった彼が驚いたように芽夢を見た。夕方帰ったはずの人が再び訪ねてきたのだから、当然の反応だ。どうした、と呼吸器を付けたまま頼りない声で問いかけられ、芽夢は苦笑しながら備え付けのパイプ椅子に腰掛ける。右手に掴んだビニールの袋を広げ、取り出した雑誌の表紙を見せびらかすように彼の視界に入れる。切れ長の瞳が揺れるのが分かった。


「これ、探してたの。同じの見つけるの大変だったよ」
「、……」
「雅人さんも読んだんでしょ、気になるのとかあるのかなと思って。やっぱり、こういうのは一緒に決めたいし」
「芽夢、」


呼吸器がつながれたままの、聞き漏らしそうな小さな声。うん?と首を傾げながら顔を覗き込めば、訝しげな表情。どこか苦しいのだろうか、そう尋ねると、掠れ声で小さく否定された。意識ははっきりしているものの、まだ起き上がることはできない彼に、雑誌の中が良く見えるよう腰を浮かしてページを広げる。


「憧れてたの、エンゲージリングって。退院したら、一緒に見に行こうね」


楽しみだなあ、と笑って見せても、彼は訝しげな表情を止めない。それでも、構いはしない。指先で、雑誌に印刷されたリングの縁を撫でる。あの日、あんなに怖かったものが、今はとても輝いて見えた。
この人と共に生きることに、もはや何の迷いもなかった。彼の隣に寄り添い、彼のために生きる覚悟だ。使命感でも、罪滅ぼしでもない。彼のために、できることをすべてやりたい。三年前のあの日と、同じ気持ち。
私は、この人にもう一度恋をした。それだけだ。
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