U・シンデレラヴィジョン | ナノ



「誕生日、一日休み取れなくてごめん。別の日で良ければ好きなところに連れて行ってやるから考えといてくれ」


そんな残念そうに言うのは、少し卑怯だと思った。本当なら残念だと思うのは自分のはずなのに、そんなふうに言われたら文句も言えない。それが十月三日のこと。今度の約束は口だけではなかったと証明されたのは一週間後の十月十日だった。芽夢の誕生日である十月二十二日の、一週間と少し前。


「さ、むいっ」
「楽しそうだけどな」


水の壁が岩に当たる音。肌を刺す冷たい風に運ばれて香る潮の匂い。さらさらの砂を踏みしめて、芽夢は両手を擦り合わせながら波と浜の境を歩く。一歩後ろを着いてくるその人を振り返れば、呆れたようにしながらも表情は笑っていた。
海に行きたい、と彼にねだったのは今年に入って二度目だ。シーズン前に頼んだときは断られるだけでなく、代わりの水族館デートまですっぽかされた。そのことを覚えているのかは知らないが、今回は快く了承してくれた。神奈川から車を走らせて、一時間もしないくらいの場所。夏前に、幸村と来たところと同じ浜だった。もう海水浴は禁止されている時期で、あのときのように人の姿はない。あの日よりも、肌を撫でる風は冷たかった。
海は好きだ。泳ぐのはもちろん、ただ眺めるだけでも。もともと、海の生き物に興味があったのだ。小さな頃から、動物園より遊園地よりも水族館。特に理由があったわけではないが、鳴き声も持たず自己主張するわけでもなく、水中で息づく魚に興味があった。大好きな水族館で解せないことと言えば、鰯の水槽が大きく隔離されているのは、他の魚の餌にするためだということだけ。中学生の頃は良く図書室で図鑑を眺めたものだ。
魚好きが発展しての海好き、というのが一番自然だろうか。だからといって、海に来たところで魚が見れるわけではないが。


「海、入りたいな」
「風邪ひくだろ。やめとけ」


小さく呟いた欲求は、あっさりと制された。足だけ、と駄々をこねるように言ってみても、彼は首を左右に振るだけ。基本的に真面目な彼のことだ、予想はしていた。遠くから押しては引く波の流れ、陽の光を浴びてきらきらと輝く波間に目を奪われる。空気が乾いた、秋の海。以前来たときとは、似ているようで違う。あの日より風は冷たい。頬を撫でるというよりは、ちくちくと刺すようだった。海が好きな芽夢にとってはこの景色を眺めるだけでも充実しているけれど、きっと彼の方はそういうわけでもないのだろう。もとより彼は海より山派でもある。


「楽しいか?」
「うん。ずっとここにいても良いくらい」
「本当に風邪ひくぞ」


困ったように笑いながら、彼は自分が着ていた上着を芽夢の肩にかける。ジーンズ生地の堅さが少し重かった。潮風に流される髪を押さえながら、ただ目の前の景色を記憶に刻んだ。不意に、上着ごと肩を抱かれ、自然に身体がそちらへ傾く。彼の胸に頭を預けながら、視線はひたすら海に向く。すると、顔に小さく影がさしたかと思えば、頭に触れる違和感。長い指先で髪を巻き取られて、旋毛より少し横に口付けられる。身長差があまりに大きくて、彼はよく唇でも額でもなく髪にキスをする。触れて離れたぬくもりに、芽夢は思わず笑いをこぼした。


「なんだよ」
「もう、やめてよ。バカップルみたいじゃん」
「何を今更」
「恥ずかしいから」
「そんな初な奴じゃないだろ、おまえ」


ひどい、と呟いて笑う。確かに、もう出会ってから三年も経っているが、彼への敬愛の意はあの頃から後退することはない。人間の愛情は二年しか保たなくて、それ以上は情に変わるか、もしくは同じ人に二度以上の恋をしなければならないと聞いたことがある。水竿家の場合、悲しきかなおそらく前者であろう。仲が悪いと言うよりは、干渉しあわない家庭。両親のどちらかと一緒に居る時に、互いの話をしているのはほとんど聞かない。愛はないが情はある、と父と喧嘩をした母から聞いたのはつい最近のことだ。それでも情があるだけ良いものだと割り切っているし、二人とも一人娘である芽夢に対する愛情はあると日々感じている。
と、そんな話は今はどうでも良い。とにかく、人間の愛情が二年起き更新だと、そんな夢のない科学に則るのなら芽夢はもう何度もこの人に恋をしているのだろう。誕生日、なんて口実に過ぎない。当日に休みが取れなかったのは事実だろうけれど、たまたま今日になったわけではない。黙っていても分かる、彼が今日この日を選んだのだと。


「三年間、ありがとう」


彼に頭を預けて呟けば、髪を撫でる手が止まる。そっと上目がちに表情を覗いてみると、気まずそうに眉間に皺を寄せた顔。物珍しげにそれを眺めていると、不意に頭をがっしりと掴まれて下を向かされる。その不器用な仕草に、逆に笑いが込み上げる。気づかないと思ったのだろう。女々しい、なんて思っているであろう人がなんだか可愛らしい。記念日を大切にすることの何が女々しいのか。
三年前のこの日、芽夢と彼は出会ったのだ。狭い病室で外との接触を拒絶する芽夢を、すくい上げてくれた。あの日のことを、言葉を、今でも覚えている。この人が居なければ、もう一度フィールドに立つことはなかった。それまでラクロスしかなかった芽夢の世界を、初めて開いてくれた唯一の人。だから、今も彼のためにラクロスプレイヤーとして強く在りたいと、思う。


「満足したか?」
「うん。さすがに寒い」


どのくらい、その景色を見ていただろうか。声をかけられて、まだ少し物足りないような気はしたが素直に頷いた。このまま居座り続けたら、上着を貸してくれている彼の方が風邪をひいてしまうかもしれない。大きな手に肩を抱かれ、ゆっくりと引かれるがままに踵を返す。きっと海を見るのは、今年は今日が最後だろう。それを、今日という記念日に彼と過ごせて良かった。色も、温度も、あの日とは違う。ただ、唯一変わらない潮の香りに僅かな名残惜しさを感じた。いつか、あの人と来た時も、この海は強く残り香を纏わせる。それがそのまま、胸の内で溶けて思い出に変わっていくようだった。あの日のような、ぼんやりと映る夕焼けの赤はまだ見えない。浜辺に居た時間をとても長いように感じていたけれど、夢中になって遊んだあの時の方が実は長かったのだろう。
ゆっくり取られた手を引かれ、芽夢は波の音へ向けた意識を振り払った。遠くなるさざなみを、少し恋しく思った。

駐車場に置いた彼の車に乗り込み、シートベルトをすればまだ行き先も決まらないはずなのに走り出す。男の人というのはどうにも車が好きなようで、彼はあてもなくドライブをするのも好きだ。どこに行くの、と尋ねると良いから、とはぐらかされた。目的地があるのか、ないのか。ただ車を走らせたいという理由ならば、付き合うのにも慣れた。
けれど、次第に遠くなる自然の景色。はっきりとした様々な色に彩られる外の様子に、どうやら目的があってのことらしいと気づく。都心に近付くほど増える車や信号に足止めされる回数も多くなる。神奈川に戻ってきたのかとも思ったが、道路の標識を見る限りどうやら彼は東京に向かっているらしい。


「ねえ、本当にどこ行くの?」
「ああ、そうだ、これ」
「は…?」


ばさり。運転席でハンドルを握る彼から投げ出されたものに、芽夢は窓の外へ向けていた視線を戻す。乱暴に放り投げられた雑誌が、芽夢の膝の上で広がっていた。これ、と説明とも言えない曖昧な答えに疑問を抱きながらその紙の端を無造作に掴んで持ち上げる。折れ曲がったページを指先で伸ばしながら開くと、そこに描かれたものに思考がぶつりと遮断される。シンプルな白い光沢紙に印刷された、シルバーを基準としたデザインのリング。エンゲージリング、マリッジリング。透明感のあるフォントで記されたその文字を指でなぞる。戸惑いと困惑から、縋るように隣の彼を見上げれば、一瞬だけこちらを見る視線に射抜かれたようで心臓が止まるかと思った。


「なに、これ…」
「そろそろ、決めといても良いと思って。今から店行くけど、とりあえずそれで目星つけとけば?」


彼の言うことが理解出来なかった。本当だ。


「給料三カ月分は、とりあえず四年後になるけど。悪いな」


この人の言う台詞を、まるでブラウン管越しに見るように聞いていた。
それが意味すること、彼が向かう先、自分に求められるもの。全部全部、理解した。けれど、それは限りなく第三者のような、傍観しているように現実味のない、宣告。


「芽夢?」


名前を呼ばれて、漸く芽夢はテレビを見ているわけではないと気付く。その言葉も、表情も、確かに自分に向けられたもの。
結婚、なんて、考えたことは幾度となくあった。どれもぼんやりとして、靄がかかったような漠然としたものだったけれど、いつかそうなる、そんな未来が待っていると、どこかで感じていた。抵抗しなかったのは、それを幸せと感じたからだ。なのに。


「待って」


なのに、意味を理解したら芽夢は雑誌のページに皺を寄せて、声を張り上げていた。そんなに強く言うつもりではなかったのに、自分の耳に届いた声量に驚いた。それが、いかに自分に余裕がないか物語っている。彼も突然取り乱した芽夢に驚いたようで、運転に集中しながらも視線をわずかにをこちらに向けた。待って、ちょっと待って、とにかく。とうろたえながら訴える芽夢に、確実に疑問を抱いただろう。けれど、本当にそれしか言えないくらい芽夢も戸惑っていた。彼の言葉に、自分の言動に、何よりそれまで受け入れていたと思っていた未来が、見えなくなっていることに。視界の端に映ったエンゲージリングの写真が、ぐしゃりと歪んでいた。

それから数分。彼は車を走らせて、近くのコンビニ前の小さな駐車場に車を停めた。急に方向を変えたことで、目的地に向かうのを止めたというのは分かっていた。きっと芽夢を落ち着かせるためにしてくれた行動だろう。しかし、車が停まる頃には、狼狽えていた芽夢は居なくなっていた。静かに、視線を足元に落としたままの芽夢。相変わらず雑誌には皺が寄っている。
できることなら、止まりたくなかった。道路を走る車から飛び降りて逃げてしまいたいと思った。時間が経つほど、気持ちが落ち着くほど、芽夢は違うことに焦りを抱いていた。


「どうしたんだ?」


彼が開口一番にそう言うのは、何となく分かっていた。それを聞いてしまったら、意志の弱い自分が泣いてしまうことも。


「ごめん、なさい」


たどたどしく呟いた言葉と、溢れ出た涙に彼がどんな顔をしたのかは、俯いていた芽夢には分からなかった。ただ、迷わず肩に触れた手の大きさに、胸が締め付けられる。手のひらの硬さも、温度も、匂いも違うのに、思い出してしまうその人。初めて、自分の意識の中から消えてほしいと思った。


「ごめんなさい、指輪っ、受け取れない…っ」
「良い、泣くな。俺が焦ったのが悪いんだ」
「ちがうっ」


ちがう、ちがう、ちがうの。灰かぶりの髪を振り乱しながら否定する芽夢に、彼は宥めるように背を撫でる手を止めた。
優しくされると、撫でられると、どうしようもなく苦しくなるんだ。それを愛しさだと、愛情を感じているからこそのものだと思っていた。愛してる。なのに、脳裏に焼き付いた、花が綻ぶような笑顔が何度も甦って。小さく可憐な花のように目を細めて息をつく横顔、夜空に花火が瞬くように不意をついて咲く笑顔。あの人が撫でてくれた髪、優しく引かれた腕、名前を呼んでキスをした唇、いつの間にか彼が触れた全部が、大切なものになっていた。際限ない優しさで背を押されたとき、時折見せる厳しさに向き合ったとき、全部覚えている。どうやって、忘れろというのか。そんなの、きっと彼の魔法でだって不可能だ。


「好きなひとが、いるの」


両手で顔を覆って、頬も手のひらも茶色の涙で濡らしながら呟いた言葉。それがはっきり彼に届いたことは、背に当てられた手がほんの少し震えたことで分かった。
嗚咽をもらして泣きじゃくりながら、芽夢はすべてを打ち明けた。恋人がいながら、違う人に好意を抱いたこと。夏休みの飲み会があった日、嘘をついてその人と一晩を共にしたこと。一晩限りの関係にするからと自分に言い訳をしたこと。今でも、その人が忘れられないこと。それから。
それから、あなたに抱いた気持ちに、見返りを求めていた、と。

芽夢が嗚咽混じりにしゃくりあげながら話し終わるのを、彼は一度も止めずに聞いていた。反論することも、相槌をうつこともない。すべてを打ち明けた後も彼は黙ったままで、芽夢の泣き声だけが車内を埋め尽くす。彼が、どんな目で自分を見ているのかは分からない。軽蔑されただろう、汚い女だと、気持ち悪いと思われてもおかしくない。実際、自分でもそう思う。けれど、彼から贈られる指輪を受け取ってしまったら、死んでしまうと思った。大袈裟なんかじゃあない。本当に、自分の奥深くに潜む色んな気持ちが全部溢れ出して、息ができなくなってしまうと。


「っ、」


突然、何の言葉もなくかかった車のエンジン音に身体を震わす。ひたすら沈黙したまま車を走らせ出した彼に、涙はとめどなく溢れるのに言葉が出ない。


「芽夢」


車を走らせて数分、不意に名前を呼ばれた。すごく、久しぶりに彼の声を聞いたような気にさせられる。抑揚のない淡白な言葉。彼の顔は、やはり見れなかった。


「言ってることの意味、分かってるのか」
「……」
「俺と、俺の家族、おまえの家族も裏切ったこと、理解してるのか」
「っ、…」


裏切った。言われて当然の言葉が、胸に刺さる。分かっている。何度も、何度も彼と自分の未来を望んでくれた人たちの顔を思い浮かべては、自分に言い聞かせてきた。この人と結ばれることが、最善だと。そうすれば幸せでいられるのだと。
だけど、いつからか。それに違和感を覚えては、気付かない振りをしていた。彼を愛している。ならば何故、彼に自分の幸せを求める?どうして、あの頃この人のためにフィールドに立ちたいと思った時と、同じ気持ちになれない?どうして、この人を愛する代わりに幸せをもらおうともがく?いつからこんな打算的な女になった。いつから彼に見返りを求めるようになった。確かに輝いていた愛が、形を変えたのはいつからだったのか。


「考えた上で出した結論なら、俺は何も言わない」
「、あ…」
「勝手にしろって言ってるんだ」


勝手にしろ。いつか、あの人にも言われた言葉。突き放す言葉が、心を抉る。自分の方が傷付くなんて、おかしいのに。だけど、彼が芽夢にとってかけがえのない人であることは、あの日から変わりはなかった。白い隔離された牢獄のような部屋から、救い出してくれた人。一度は失ったものをまた握らせてくれた人。それだけは幸村でも代わり得ない、日高雅人だけの。
最後まで、芽夢は彼の顔を見ることができなかった。

静かに走る車が、芽夢の家に向かっていることはしばらくして分かった。東京から見慣れた景色に変わっていくにつれ、芽夢の視線は窓の外へ向いていた。彼の方を見れないから、苦し紛れに楽しくもない街並みが夕日に赤く染まるのをひたすら眺めていた。あと二つ、大きな交差点を抜ければ芽夢の家はすぐ近くだ。帰ったら、両親に何と言おう。彼にも、彼の両親にも謝っても謝りきれないだけのことをした。明日、大学でもし幸村に会ったらどうすれば良いのだろう。もう、普通を繕うことは出来ない。彼への裏切りを働いて、いつか幸村に言われたのと同じ軽蔑の言葉を受けたというのに、別れたからと簡単に幸村の近くに行くことなんて出来ない。そんなの、今度は彼への裏切りにしかならない。


「芽夢」


最後の交差点に差し掛かった時、名前を呼ばれて芽夢は外の景色に目を向けながら息を呑んだ。何か、言われる。そう思い身体を強ばらせても、彼はその続きを口にしない。芽夢がそちらを向くのを待っているのだと、分かった。見なきゃ、ちゃんと、彼を。そう思うほど息は苦しくなって、手のひらに汗が浮かぶ。怖い、ひたすら怖かった。彼を見るのも、何か言われるのも。日高雅人は水竿芽夢の世界だった。この人のために生きようと、確かに思った。だからこそ、今は彼のすべてが恐ろしい。だけど、きっとこれが最後だから。だから、ちゃんと。
意を決して、気持ちいっぱいの勇気を振り絞って、芽夢はゆっくり窓から視線を外した。振り向いて彼を見れば、目線は相変わらず運転に集中しているようで、無表情だった。閉じられた唇から発せられる言葉を、芽夢はどくどくと暴れ出す心臓を抑えながら待った。稍あって、彼の唇が薄く開く。
が、しかしそのすぐ後、彼の目が大きく見開かれるのを見て、ひゅうっと息を呑む声がした。視線の先、フロントガラスの向こうを凝視する彼。無意識に芽夢も、首をそちらに傾ける。


「芽夢っ!!」


そこからは一瞬だった。視界を遮るように現れたくすんだ青。彼のジーンズ生地の上着だと気付いた時には、身体を抱き込むように押さえ付けられ、腰が深くシートに沈む。それと同時か、もう少し遅かったか。耳をつんざくような轟音と、身体をひっくり返されるような浮遊感に続く衝撃。首ががくんと揺さぶられ、彼の肩に額をぶつけた。痛みと驚愕とで見開いた目。そこに飛び込んできたのは、砕けて飛び散るガラスの刃と、夕日さえ呑み込むような、赤。
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