U・シンデレラヴィジョン | ナノ



遠い昔のこと、ある屋敷に美しく優しい娘が暮らしていた。母親が亡くなったあと、父親の再婚相手である継母とその連れ子である姉二人に、娘は日々いじめられていた。シンデレラと呼ばれた娘は使用人のような扱いを受け毎日を過ごしていた。ある日、屋敷にこの国の王子の花嫁を決める舞踏会の招待状が届いた。その便りに大はしゃぎの継母は、シンデレラにも仕事が終われば行っても良いと招待状を渡した。けれど、屋敷の娘とはいえない継ぎ接ぎだらけのドレスしか持たない惨めな自分の姿に、シンデレラは舞踏会を諦めるしかなかった。いじわるな継母と姉二人は綺麗なドレスを着て行ったのに、自分には着ていく服も靴もない。誰もいない屋敷で悲しみに泣いていたシンデレラ。そんなシンデレラのもとに、月明かりを浴びた一人の魔女が現れた。魔女が呪文を唱え杖を振ると、カボチャが馬車に、犬が御者に、ネズミが白馬へと変わっていった。そして、シンデレラのボロボロのドレスは、あっという間に美しいドレスに変わり、両足にはガラスの靴を

そこまで読んで、芽夢は携帯の電源ボタンを二度連打した。一瞬真っ暗になり、すぐに見慣れた待ち受け画面に変わる液晶。小さく溜め息を吐いて、芽夢は携帯を鞄に放り込んだ。見るに耐えなかった、というのが正直なところ。そういえばシンデレラってどんな話だったか、なんて些細な思いつきで検索をかけた自分がいかに考えなしか思い知る。


「機嫌悪いな、今日は」


よりにもよって、この人の隣で、なんて。自分はもしかしたら自己保持精神の自己愛主義を超えたマゾヒストなのではと思ってしまう程度には奇行だった。不思議そうに尋ねてくる運転席の恋人に何でもないと返せば、軽く息を吐くのが聞こえた。深く追及してこないのは、とても助かる。


「それにしても、急にどうしたんだ?」
「なにが?」
「茶髪、気に入ってただろ」


ああ、と呟いて自分の頭に手を伸ばす。毛先を摘まんで擦り合わせれば、キューティクルの剥がれ落ちたがさがさの触感。やっぱり、どんなに手入れをしてもあの人みたいに綺麗にはならない。


「似合わない?」


そう問いかければ、否定するように首が振られる。彼は芽夢が身につけるものや化粧、染色に対し文句を言うことはない。興味がないのか、それとも身なりなんて重要視しないタイプなのか。おそらくは後者だ。化粧ポーチから鏡を取り出して、それに映った自分をまじまじと見つめる。薄く桃色の入った明るい茶髪、の芽夢はそこにはいない。まだ自分でも慣れない、灰を被ったようなアッシュカラー。芽夢が髪の色を変える理由なんて、大半が気分転換だ。今回も例外はない。ただ、やはりこの色は少し自虐が過ぎたようにも思える。今までこんな思い切った色にしたことはなかったのもあって、親には大層驚かれた。

髪を触って、ついでに化粧を見直して。そうこうしているうちに車は芽夢が通う立海大学の前に到着する。慣れた足取りで車を降りて、その際にお決まりのフレンチキスを交わす。何も変わらない。あの人に出会う前と。それがどんなに幸福なことか、分からないわけではない。行為自体は同じなのに、その度に罪悪感を感じることになったのは、間違いなく自分のふがいなさが原因だ。灰かぶりの毛先が彼の頬に触れた時、彼が汚れてしまうと思った。そんなこと、あるはずないのに。

学校に入ると、予想はしていたものの周りからの視線が痛い。さすがにこんな奇抜な髪色をした学生は、古くからの由緒正しい、またの名をマンモス校と言われる立海大学には少ない。金髪や茶髪はごった返すほど見るが、こんなにはっきりとした灰色や、丸井のような赤髪はあまり見ない。物珍しげな視線がちくちくと刺さる。あんまり、注目されるのは得意ではない。いや、昔ならばなんてことはなかった。見られることが、評価されることがやはり少し怖いのだ。そうは言っても、中学生の頃から身なりも違えば化粧で顔も分からない。中学から上がってきた学生でも、外見で自分が水竿芽夢だと分からない自信はあった。遠巻きに見られても、耳打ち合うあの不愉快な声は聞こえない。それで良い。そうやって、放っておいてくれるのなら、それで。

肩に違和感を感じたのは、そのすぐあとだった。誰かに掴まれて、引かれる。思わず足がもつれそうになりながら振り返れば、ついさっき読んでいたシンデレラの、魔法遣いを連想させる人が驚いたような顔をして立っていた。


「水竿、さん」
「…お、はようございます。幸村さん」


少し躓いてしまったけれど、何でもないように挨拶をした。けれど、それが気に食わなかったのか、幸村は眉間に皺を寄せて綺麗な表情を崩した。いや、不機嫌な顔をしても綺麗なことに変わりはないのだが。この人は本当に、何をしても絵に描いたように様になる。じゃ、なくて。


「どうしたんだよ、その髪」
「、気分転換、なんですけど…似合わないですか?」


恋人に言ったのと、同じような質問。彼ならば、そんなことはないと言ってそれ以上は聞かない。そういう人だろうと思ったから。何でもないような顔をして、いつも通り適当に他愛もない会話ができると。


「綺麗な色だけど、君には似合わない」


え、と馬鹿正直な声が飛び出た。似合わない、なんて、まさか彼の口から出てくるとは思わなかったのだ。素直に驚いたし、もっと言えば率直な否定にショックを受けた。嘘でも、お世辞でも良いから似合っているとか、せめて変じゃあないと言ってほしかった。ほんの少し、肩を掴む力が強くなる。不機嫌なままの表情が、どこか不安げに見えた。


「…俺のせい?」
「え?」
「俺が変なこと言ったから、」
「ち、がいますよっ」


思わず張り上げてしまった声。幸村の藍色の瞳が見開かれて揺らぐ。違う、彼に言われたことは何も関係ない。自分が、そうしたくてやったことだ。幸村がそんな顔をする理由も、追いかけてまで問い詰める義務もない。それが権利だというなら、彼がそれを取るのはお門違いだ。
失礼な女だと思われても仕方がないが、彼は少し、勘違いをしている。芽夢の行動も、思考も、多少なりとも自分が影響を及ぼしていると思っている。夏休みの祭りの時も、コンビニで偶然会った時もそうだ。芽夢は一言も、まだあなたを忘れられないなんて言っていない。今まで黙っていたのは、少なからず図星であると自覚していたから。もしかしたら態度に出ていて、彼がそれに気付いてしまったのかも知れない。けれど、今回は違う。芽夢は幸村のためでも恋人のためでも、ましてや自分のためでもなく行動した。ただの気分転換。それは嘘ではない。それを、彼は自分のせいかと問い詰めた。それは間違いだ。彼が自ら掘った墓穴と言っても良い。その言葉が、伸ばした手が、あの日互いにこの気持ちを忘れようと言ったのを裏切るように、今でも芽夢が好きだと訴えている。
……そんなの、私だって。
そう言い訳をしたくなる狡い思考を否定した。否定しなければならなかった。


「アッシュ、私は好きですよ」


自然に、普通の友達のように。そう心がけた。そうすれば、幸村も自分を後輩として見てくれる。彼のせいではない。影響されたわけでもない。彼は関係ない。思い上がりも甚だしい。
そう、心の内で毒づいても虚しいだけだった。思ってもいないことを言っても、どうもならない。
私はまだ、幸村さんを忘れられない。きっとこの人も、胸の内にくすぶる想いを抱えている。互いにそれが分かってしまうから、保つべき距離が分からなくなる。
だけど、私は愛する人の未来を共に担っている。


「私、もう人の意見がないと行動できないほど子供じゃないですから」


そう、強気に笑ってみせた。もう子供ではないから。最善の選択ができる程度には成長した。
心優しい美しい娘ではない。願いを叶えてくれる魔法使いなんていなければ、見つけてくれる王子様もいない。自分は水竿芽夢だ。卑怯者で嘘つきで怖がり。けれど、それが自らした選択だというのなら卑怯でも間違いではない。


「私に、気を遣わないで下さい。お願いします」


ついこの間、幸村に言われたこと。おかしいことに、考えていることは芽夢も同じだった。だから分かる。自分たちが、まだ無意識に互いを気にかけているということ。事実、芽夢は似合わないと言われたこの髪の色を今すぐにでも変えたくなったのだ。いつまで、この男の言動に左右されるつもりだ。自分たちで決めたではないか、忘れようと。その意志が固まらないまま、彼の評価に怯えていてはいけないと分かっているだろう。


「…そうだな。分かった」


小さく、胸に突き立てられる棘。それを痛みとして認識しないよう、芽夢はひたすら平静を貫いた。一定の距離を蹴破ってしまったら、一度でも身体を重ねてしまったら、確実に生まれるであろう情を簡単に引き離すことなんてできない。わかっていた。きっと甘えたくなる。きっと泣きたくなるくらい苦しくなる。後悔しないと自分に言い聞かせた言葉が、嘘だと自覚する日が必ず来る。常識をなげうってでも、リスクを抱えることになったとしても、一時の感情に身を委ねることを望んだのは自分だ。後になって痛む心がその対価だというのなら、甘んじて受け入れようと。


「一限、遅れるよ。引き止めてごめん」
「はい。それじゃあ」


ぎこちない笑顔、だったような気がする。対する幸村はいつも通りの穏やかな表情で、自分がいかに感情のコントロールが下手か思い知る。彼と別れたその場に影が縫い付けられたみたいに、足が重い。動くことが気怠い。

ねえ、幸村さん。私ってすごく単純なんだよ。
あの日、イヤフォンのコードが絡まったのが、落とし物を拾ってくれたのがあなたでなかったら、たとえその後で出会ったとしても私はあなたを好きにはならなかったかもしれない。もしあなたが、最初から甘やかしてくれなかったら懐かなかったかもしれない。一緒に浜辺を並んで歩くことがなければ、こんなに意識しなかったかもしれない。私は単純なんだ。まるで少女漫画のような展開に、言葉に、優しさに心踊らせていた。
私の本音は言えなかった。あなたに認められて、好きだと言われて、恋人の愛も情も期待も裏切ってあなたに逃げてしまいたいと思ったことが、なかったわけではない。それを許さなかったのは、彼への気持ちではなく、彼を選ばなければという使命感でもなく、自分の可愛さ故。
ずっと自分が嫌いで、嫌いだけど切り捨てるほどの勇気もなくて、結局自分が一番可愛くて、それなのに好きになれないから、やっぱり大嫌いだった。
だから、ごめんなさい。私を好きだと言ってくれたあなたを、ひたむきに信じることが私にはできない。だけど、嘘であってほしいなんて思えない。
弱くていい。嫌いなままでいい。あなたが見てくれた私のままで、時間が止まれば良い。あなたが魔法をかけてくれたその瞬間のまま、永遠に止まってしまえば良かったのに。

本当は、本当はね。
忘れたくないよ。
でも。だけど。
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