U・シンデレラヴィジョン | ナノ



最悪だ。これも雨のせいに違いない。


「定期なくした…」


独り言のように呟いて、散々漁った鞄の留め具をかけた。実際独り言でしかないのだが、この虚しさをどう表現したら良いものか。今朝、改札を出た時は確かに持っていたのだ。改札を出れたのだからまず間違いない。しかし、その後の記憶といえば、今朝偶然見かけたあの美形男子のことばかり。あの時、片手に定期を持っていたような気がしなくもないのだが、いまいち自信がない。イケメンに見惚れて貴重品を紛失するなんて、あまりにも情けなさすぎて人には話せない。まったく、昼になってすっかり上がった雨に心踊らせたのが馬鹿馬鹿しく思える。
しかし、どうやって帰るか。とりあえずは駅に行って落とし物の届けがないかは確かめなければいけないが、もしなかったらわざわざ電車賃を払って帰る羽目になるのだろうか。それかもう一つ、宛がないわけではないのだが。こんな情けないことを話して車を出してもらうのは気が引ける。どうしたものか、と学内のテラスで悩むこと十分、くらい。いい加減腹を括るべきか、とため息をつく。と、突然視界が陰る。雲でもかかったのか、と俯いていた顔を上げて、凝固した。


「こんにちは」
「……あ…今朝の」


美人さん、と言いかけて思いとどまった。四人掛けのテーブルを陣取ってうなだれていた、その背後に立っていたのは紛れもなく、今朝の彼だった。背もたれから首を後ろに反らせて、随時と情けない格好のまま彼を見上げた。しかし、自分が座っていると余計に彼の背の高さが際立つ。大学生くらいかとは思っていたが、同じ学校だったのか。それにしても、よくもまあこんな小さくて目立たない女を見つけたものだ。今朝と変わらずふんわりとした顔で笑う彼に、心の中で感心。しかし、一体何の用があって声をかけたのか。そう疑問に思っていると、彼は私の視界にあるものをちらつかせた。


「もしかして、これ探してる?」
「あ…私の定期入れ!」


瞬間、がばりと起き上がってチェアに座りながら身体を反転させた。あまりの興奮具合に、やっぱりと呟きながら彼は小さく笑い声を零す。


「拾ってくれてたんですね、ありがとうございます!」
「あ、ストップ」
「え?」


念願の定期との再会への感動のあまりに身を乗り出してそれを受け取ろうとすれば、何故か彼は差し出したはずの定期入れを引っ込める。同時に引っ込んだ感動に、目をぱちくり。


「少し聞きたいことがあるんだけど」
「はあ…」
「水竿、芽夢さん?」
「え…あ、ああ、はい」


何で名前を知っているんだろう、と変な声が出たが、良く考えれば定期には名前が印刷されている。きっとそれを見たのだろう。どうやら、その聞きたいことをしっかり聞くまで定期は帰ってこないのだと悟り、芽夢は彼の話に耳を傾けた。


「もしかして、中学も立海だった?」
「あ、はい、高校は違いますけど」
「ああ、やっぱり」
「?」
「俺、覚えてない?三年の時同じクラスだった」
「え?」
「テニス部でさ、部長やってて」
「…………え、あ…?」


立海大附属中学。三年生。テニス部で、部長。小出しにされるヒントを頭の中でつなぎ合わせ、記憶にかかった靄を振り払っていく。徐々に浮かんできたイメージ、まだ若干の幼さを残した、とても綺麗な顔立ちの男の子。


「幸村…精市くん?」
「ふふっ…久しぶり、水竿さん」


そうだ、そうだ幸村君だ。一度思い出してしまえば案外あっさりしたもので、中学生の時に学校中の誰もが知る超有名人の彼の記憶が蘇ってきた。テニスがとても上手くて、頭も良くて、ファンクラブなんかが出来てしまうような人のことを、どうして忘れていたのだろう。いや、たとえ忘れていたとしても、どうして今朝に顔を見た時に思い出せなかったのか。むしろ、有名人の彼の方が自分を覚えていたことに驚かされる。ごくごく自然に向かいの席に腰を降ろす彼。どうやら聞きたいこと、はまだ終わっていないようだ。その証拠に、彼の右手にはまだ芽夢の定期入れが摘まれている。


「私のこと、良く覚えてましたね」
「水竿さん、有名人だったから」
「幸村さんには負けます」
「常勝立海、二本柱って言われてたじゃないか」


ああ、そういえばそんな時期もあったか。幸村精市が君臨するテニス部。そして、水竿芽夢率いるラクロス部。常勝立海、と声援を受ける二つの部活に、芽夢と彼は所属していた。全国でも、立海のテニス部とラクロス部は広く名が知れ渡っていた。全体的な人気はテニス部が遥かに勝っていたものの、ラクロス部に輝かしい実績を残したのは芽夢だった。それ故の、常勝立海二本柱というわけだ。今となっては恥ずかしい話だ。


「俺、結構ショックだったんだよね」
「え?」
「立海は大学までエスカレータなんだし、高校生になったら水竿さんとちゃんと話してみたいって思ってたんだ。それなのに、いざ入学したらどっかに外部受験していなくなってるし」
「そ、うだったんだ」


そんなことまったく、知る由もなかった。もともと、芽夢と幸村は特別仲が良いわけでもなく、互いに部活が忙しく話すことさえ稀だったのだ。まさか、幸村がそんなふうに思っていてくれていたなんて思いもしなかった。


「ねえ、高校はどこ行ったの?神奈川とか東京のラクロスが強いとこは一通り調べたけど居なかったから」
「あー…えっ、と」
「もしかして、結構遠いところ?」
「まあ、遠いといえば遠いですね…」
「うん?」
「…留学、してました。三年間」
「え?留学?」
「アメリカに」


ぱちぱちとまばたきを繰り返す幸村。そういえば、友人にも話さずに卒業と同時に渡米したのを思い出した。顔見知り程度でしかなかった彼が知らないのも無理はない。しかし、彼は芽夢の告白に考え込むような素振りをする。「そっか、アメリカか…そりゃあ見つからないわけだ…」などと呟いている幸村に、今度は芽夢が首を傾げる。


「やっぱり、ラクロスのために留学?」
「そんなとこです」
「じゃあ、今もやってるんだ」
「まあ、ぼちぼちですね。幸村さんは、テニスは…」
「ああ、やってるよ。昔みたいに四六時中ってわけじゃあないけど」


不思議なものだ。今朝、駅で会った時にはもう二度と目が合うことすらないと思っていたのに。たった数時間しか経っていないのに、こうやって同じテーブルで同じ話題を共有している。偶然の巡り合わせなんて、なんだか面白い。


「でも、最初は本当に水竿さんなのか自信なかったんだ。雰囲気だいぶ変わってたから」
「ああ…雰囲気っていうか、髪?」
「あ、そうかも」


中学生の頃は、確かアッシュの入った茶髪だった気がする。スポーツをするからと常にバンダナで前髪を上げていたし、そういえば長いロングヘアーブームの全盛期で長さも背中まであったような。それが今は、色を変えた上にセミロングにパーマをかけている。ぱっと見ただけでは、親でさえ三度見くらいはしそうなほど外見は変わっていた。中学生の頃は当然ながら化粧をする習慣もないし、きっと彼の記憶の中の水竿芽夢と今の自分は、別人に限りなく近い認識をされているのではないだろうか。


「でも、良く見たらちゃんと水竿さんだったから。っていうか、テーブルに伏せてる姿とかもう瓜二つだった」
「…えと、どういうこと…?」
「俺、水竿さんより後ろの席が多かったから。数学の時間は絶対寝てたけど、さっきの背中が正にそんな感じだった」


からかうように笑いながらされた指摘。いまいちピンと来なかった。ただ、中学生の頃の失態を知り合いに覚えられているというのは恥ずかしいもので、芽夢は咎めるように唇を尖らせた。そんな見分け方をされても、嬉しくないのだが。というか、普通は他人のそんなところを見ないだろう。


「幸村さんって人間観察が趣味?」
「え、違うけど」
「なんで、そんなどうでも良いこと覚えてるんですか」
「…ふふっ。なんでだと思う?」


また、穢れを知らない小さな少年のように彼は笑う。顔が良いから余計にそれが綺麗に見えてしまう。テーブルに頬杖をついて、見つめてくる瞳は人間と話しているというより、動物や思い出の写真を眺めているように優しくとろけている。美人さんにそんなふうに見られると、猛烈に恥ずかしいのですけれど。どうにも目を合わせにくくて、芽夢は視線を少し下に下げた。緊張する時は相手のネクタイの結び目を見ろ、ということだ。偶然にも彼がネクタイを着用していて助かった。「水竿さん」そんな呼びかけに、なるべく意識せずに答える。


「俺の、初恋の人なんだ」
「え?」
「……聞いてた?」
「えっと、はい」
「中学生の時に、好きだったんだよ」
「…誰を?」
「……田中さん」
「誰ですか」
「嘘うそ。水竿さん」


中学の同級生に田中なんて居なかったはず、彼の最初の返答は本当にただの冗談だったようだ。っえ、ていうか、え?誰さんを好きだったって?水竿さん?


「…………え?」
「理解力なさすぎない?」
「…すみません」
「そう何度も言わされるの、結構恥ずかしいんだけど、これでも」
「す、すみません…」
「ふふっ。良いよ、君だから許す」


私じゃなかったらどうするんですか、と出来事で聞いてみたら、膝かっくんかな、なんて笑顔で返された。どうして膝かっくんなのかは、気にはなったけれど黙っておこう。しかし、これで今までの彼の態度の理由が分かった気がする。思い出の写真を見るようだと表現したが、なるほど彼は本当に芽夢の背後の思い出を見ていたらしい。


「私たち、何か接点ありましたっけ?」
「同じクラスだった」
「三年の時だけです。それに、ちゃんと話したことなかったし…」
「え、あったよ」
「え」
「俺が入院してた時、一度来てくれた」
「…そうでしたっけ」
「覚えてないなら良いけど」
「……はい」


すみません、と口走りそうになって、そういえば今朝から謝ってばかりだと気付いて止めた。あんまり謝られてばかりというのも、気分が良いものではないだろう。
しかし、なんと言ったら良いものか。そんな、まるで思い出話でもするように昔のことを告白されても、どうにも返し方がわからない。何しろ、芽夢の方は彼のことをあまり覚えていないのだ。というか、最初からテニス部のすごい人くらいにしか認識していなかったのだろう。あまりに失礼な話でとても本人には言えまい。


「あ、と言っても昔の話だから。気にしなくて良いよ」
「あ…そうですか」
「うん。今では普通に彼女もいるしね。水竿さんにもいるんじゃないの?」
「はい、まあ」


本当に楽しそうに話す人だなあ。というか、もしかしてこのまま昔話に花を咲かせる気なのだろうか。まるで最初から居たかのように芽夢の正面のチェアに腰掛け、だらしなく背中を曲げて頬杖なんてついている姿は、どう見ても長居する雰囲気しか感じられない。今の時点で完全に聞き手に徹しているというのに、これ以上何か振られてもまともに受け答えできる自信はない。皆無だ。しかし、彼の手に芽夢の交通手段が握られている以上、適当な用事を理由に逃げることも難しい。


「あの…彼女さんいるなら、こんなとこに居ちゃ良くないのでは…」
「ああ、確かに。こんなとこ見られたら怒られるかなあ」
「そりゃあ、普通は怒るんじゃないですか?」
「いや、俺じゃなくて君が」
「早々にそれを返して帰らせてください」
「えー」


えーって、子供ですかあなたは。こんなところでいわれのない恨みを買いたくはない。そう目で訴えると、「そんな睨まなくても、冗談だよ」と笑いながら定期入れを差し出す。漸く手元に戻ってきたそれに頬が緩んだ。からかわれたり長話に付き合わされたといっても、これを拾ってくれたことには素直に感謝したい。


「ありがとうございます、助かりました」
「どういたしまして。ねえ、明日は学校来る?」
「はい、明日は二限からなので」
「そう。また会えると良いな」
「同じ学校なら、そのうち会えるんじゃないですか?」
「ふふっ、そうだね」


何がおかしいのか、彼はずっと笑顔を浮かべたまま。大人の落ち着いた雰囲気を感じさせながらも、ところどころの発言や態度はまるでいたずらっ子のようである。恥ずかしながら、幸村精市はこういう人間なのだと、芽夢は初めて知ったのだ。


「じゃあまたね、水竿さん」


また、は社交辞令というのが基本だと思っていたのだが。
帰りの電車で開いた定期入れに、見覚えのないメモ。ルーズリーフの切れ端のようなそれには、やはり覚えのない電話番号とメールアドレス。それから、綺麗だけれど男の人らしい角張った文字で、幸村精市の四文字。
どうやら向こうが一枚上手だったらしい。電車に揺られる約三十分、どうしたものかと携帯とメモとひたすら睨めっこをして過ごした。
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