U・シンデレラヴィジョン | ナノ



暇、だ。やることがなくなってしまった夜九時からの一時間が、一番嫌いだった。
アルバイトを始めてから一カ月と半月くらい。浪人中にも世話になったコンビニだったため、新しく始めるという感じではなかった。学校が早く終わってサークルもない日に、夕方勤務のみで使ってもらっている。暇、と冒頭でこぼした通り、もともとあまり賑わうお店ではない。特に夜のこの時間になると、客足どころか人通りすら少なくなるのだ。勤務時間内にやらなければいけない作業は全て終わらせて、もう一人のアルバイト仲間は発注をしに行くと店長室の方へ引っ込んでいってしまった。暇を持て余しながら、商品を並べ直したり、適当に場所を見つけて掃除をしたり。いくらなんでも今日はあまりに暇すぎる。レジ周りの拭き掃除がいつの間にか電子レンジの油落としにまで発展しているくらいには。こんなことで時給を貰っているというのも、なかなか良心が痛むものだ。ふと腕時計を確認する。九時四十分。暇というだけであと二十分が恐ろしく長く感じる。
ふう、とため息を一つこぼした。そのタイミングで、久方ぶりに店の自動ドアが開く音。誰か来た、と芽夢はそちらを確認するより先にいらっしゃいませーと間延びしたマニュアル通りの挨拶をする。電子レンジに深く突っ込んでいた腕を引いて振り返る。お客さんはこちらを気にすることなく奥へ進んでいったらしく、姿は見えなかった。とりあえずは手を洗ってアルコール消毒。お客さんがいつレジに来てもいいよう身構える。暇なお店だけれど、接客には気合いを入れるのが店長のポリシーだ。


「…あれ?」


だから、普段ならばこんな間抜けな声は出さない。ならばどうしてか。その理由は、店に入ってきた人がただのお客さんではなかったからだ。健康ドリンクのコーナーを眺めている横顔には、ものすごく覚えがあった。視力2.0のこの両目があるのだから間違いない。片手で小さな栄養剤を掴んでレジに向かおうとしたその人の方もこちらの存在に気づいたようで、目をぱちくりとさせている。


「え、水竿さん?」


若干の早足で寄ってくる彼に、芽夢は慌てたように返事をする。レジの前までやってきたその人を見て、やはりそうだったと再確認。同時に浮かび上がる疑問。なんで、幸村さんがこんなところに。


「珍しく蓮二が飲みたいって言うからね、今帰るところなんだ」
「そうなんですか」
「うん。水竿さんがここでバイトしてるなんて知らなかったな。制服似合わないね」
「今さらっと暴言が」
「ふふ、ごめんね、冗談だよ」


いや、おそらく冗談というわけでもないのだろう。似合わないのは重々承知の上である。しかし、お酒を飲んできたというわりには、酔っ払っているようには見えない。この間の飲み会のときも、結局はあまり酔っていなかったらしいし、もしかしたらお酒に強いのだろうか。ちなみに、芽夢はあの日の自分の泥酔した体たらく振りが若干の尾をひいてあれ以来ほとんどアルコールを口にしていない。こん、と音を立てて幸村は栄養剤をレジの前に置く。


「…そんなに飲んだんですか?」
「そこそこ」
「なんか、あんまりイメージないです」
「だろうね。そんなに頻繁には飲まないから」


軽い談笑をしながら、バーコードをスキャンする。二百円。すると、幸村の視線がちらりと逸れて、すぐまた芽夢に戻る。人の感情の変化に気付かない自分にしては、それを見つけられたことは貴重だった。なるほど、と芽夢は振り向くと、後ろの戸棚から目当てのものを取る。確か、アイシーンだったか。紫色の小さな箱を幸村に見せるように掲げると、彼はぱちぱちとまばたきする。


「これですか?」
「…水竿さん、良く見てるね」
「たまたまですよ」


困ったように笑う幸村に、もしかして余計なことをしてしまっただろうかと少し不安になる。女性煙草を愛用していることはあまり知られたくないようだったし、これでは何だか押し売りみたいだ。けれど、すぐにふわりと笑ってありがとう、と言う彼に不安はすぐに溶けた。単純だ。
煙草と栄養剤の合計額を口にしようとした時、だった。再び自動ドアの開く音。何気なくそちらを確認するように視線を移動させて、そのまま固まった。続いて幸村も、同じように入ってきた人物に言葉を失う。


「ま、雅人さん…?」
「お疲れ様」
「えっ、なんで?今日は帰れないって」
「予定は未定ってやつ」


まさか、予想もしなかった恋人の来店。つい数分前まで暇だ暇だと思っていたのに、あれは嵐の前の静けさだったとでも言うのか。芽夢と、幸村と、彼。この三人が同じ空間に居るなんて、こんなこと誰が予測しただろうか。やましいことなんて、もう何もないはずなのに。身体が勝手に萎縮する。普通にしていれば良いのにどうしても動揺してしまう。不意に、芽夢の心情を悟ったのか、幸村はさり気なくレジから離れて店内の奥の方へ進んで行った。それを不思議そうに眺めたあと、今まで幸村が居た場所に彼が立つ。


「お客さんじゃないのか?」
「あ…うん、大学の人だから」
「ふうん」


疑われている、ような気がした。そんなの気のせいだとは分かっているけれど、どうしてもそう思ってしまう。相手の顔色を窺って、何ともなくて安心する。恋人相手なら、そんなことは必要ないはずなのに。彼が芽夢を疑っているわけではない。自分の方が、彼に対し疑心になっている。だから、だ。ほんの些細な動作も言葉も、不安を駆り立てる原因になってしまう。


「雅人…?」
「まさか、浮気?」
「っ、そんなわけないでしょ!?馬鹿なこと言わないで…っ!!」
「は?おい、芽夢」


はっとして、すぐ我に返った。自分が大声を上げたことに、後になって気づく。戸惑ったような恋人の遠く後方に、こちらの様子を窺う幸村の訝しげな表情がはっきりと見えて、罪悪感や羞恥心が込み上げる。なに、熱くなっているんだ。馬鹿は自分の方だ、向こうは冗談だったのに真に受けて、それどころか喧嘩腰に反論するなんて。こんなの、まるで図星をつかれて怒っているみたいではないか。ごめん、なさい。小さく口から出た、短い謝罪。今の芽夢の反応は、付き合いの長い彼から見てもさぞ異常だったことだろう。なのに、勝手に怒ってすぐに威勢をなくしてしまった恋人を問い詰めるほど、彼は鬼ではない。


「…悪かったな、からかって」
「……」
「十時で上がりだろ?車停めておくから終わったらおいで」
「……うん」
「泊まるか?」
「ううん、明日までのレポートあるから、今日は帰る」
「分かった。早めに済ませろよ」
「ん、ありがとう」


いつもなら頭を撫でるところなのだろうけれど、仕事中だからか彼は軽く手を上げただけで踵を返した。自動ドアをくぐってその姿が見えなくなるまでたっぷり見送ったあと、小さなため息を零す。あんなことをするつもりはなかった。まさか怒鳴るなんて、自分でも信じられない。加えて、これから待っているであろう更に気まずい空気に触れたくないと素直に思った。レジに置き去りにされたままの煙草と栄養剤。思った通り、それの代金を支払っていない幸村は当たり前のようにレジの前に戻ってくる。あまり顔を見たくなくて、視線はひたすら煙草に向けたまま。


「もう一個」
「え?」


唐突に、脈絡のない要求をされて顔を上げる。目の前の幸村に煙草、と短く告げられて慌てて同じものを取る。そのバーコードを読み込もうとして、ぴたりと手が止まった。


「幸村さん、そんな吸うんですか?」
「そういう気分だからね」

どういう気分のことなのか、芽夢にはいまいち理解できなかった。これは喫煙者とそうでない人間の埋めようのない壁なので気にも止めず、画面に表示された金額を口にする。財布から千円札を取り出す幸村の手元を見つめていると「ねえ」と淡白な声がかかって軽い返事をする。


「あんまり、腫れ物を触るみたいにしないでもらえると助かるんだけど」
「…、ゆきむらさ、」
「君がそんな顔したって、ましてや怒っても現状は変わらない。俺に、気を遣わないで欲しいんだ」


諭すように、ゆっくりと言い聞かせる幸村は、ちっとも怒っている様子はなくて。言っていることは厳しいのに、声色は穏やかで何だか不釣り合いだと思った。幸村の視線は手元の財布に向いていて、目が合うことはない。


「はい、ちょうど」
「、あっ」
「バイト頑張ってね」


ちょっと待って、と口走りそうになって、思わず口を塞いだ。今、何を言うつもりだった?弁解?言い訳?そんなつもりじゃなかったと、そう言うつもりだった?それを言ったところで、何になる。胸を張って違うと言えるわけでもないのに。カウンターに置かれた千円札と小銭をレジに放り込んで、芽夢は改めて浅はかな自分に呆れた。こんな不安定なままではいけない、あと十分もしたら車で待っている恋人にちゃんと謝らねばならないのだから。

十時三分。靴を履き替えたのを考えると頑張ったと思う。夜勤のスタッフと交代して、早々に店を出ればすぐ近くに停めてある車に駆け寄る。遠慮なくドアを開けて助手席に乗り込めば、携帯を弄っていた運転席の彼からの視線。「おつかれ」まるで今さっきのことなんてなかったみたいに振る舞う彼に、また自分の幼さを思い知る。どんなに背伸びをしても、この人には追いつけない。もう何度も実感したことだ。


「、…どうした?」


耳元で、低く掠れた声。急に抱き付いたことで、少しだけ動揺しているような気がした。首に腕を回して、縋るようにしがみつけば子供をあやすように背中を撫でられる。どうしよう、また甘えてる。何も知らないこの人に、全て理解してくれるあの人にも。


「おまえさんはペテンじゃ、自分を騙した気になっとるタチの悪い」


いつか、誰かに言われた言葉が駆け巡る。やめて。そんなふうに言わないで。だって、そうしないと生きていけないの。そうじゃないと、誰からも愛してもらえなくなってしまうから。
私は自分が嫌いで嫌いで、惨めな自分が誰より可愛くて仕方ない。嘘と言い訳を頭から被った、灰かぶり。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -