「駄目じゃな。電波悪すぎてメールも送れん」
「…私もです」
二人同時に携帯を閉じて、芽夢からため息。祭りで離れ離れになってしまった元テニス部員たちに連絡を取ろうにも、携帯の電波が機能しないのならどうしようもない。まあ、そもそも芽夢は仁王と違って幸村の連絡先しか知らないので、たとえ電波状況が生きていても大して役には立たなかったかも知れない。「そのうち見つかるじゃろ」と呑気なことを言っている隣の男は、今自分たちがどこに居るのか理解して発言しているのだろうか。神社の敷地内の外れ、人はいないが明かりもないような裏の方まで入ってきてしまった。途中に立ち入り禁止の看板が立っていたような気もするが、悪いのは問答無用でずかずか入り込んで行った仁王なので、芽夢は知らん振りを突き通すことにした。相変わらず屋台が出ている方は太鼓の音や人々の雑踏で賑わっているが、ここは小さな虫の鳴き声が聞こえるくらい静かで、まるで世界が切り離されているようだった。慣れない下駄に足の痛みを感じだした芽夢は、仁王のそばを離れ石段に腰を降ろした。
「痛むんか?」
「少しだけ。でも大丈夫です」
「今のうちに休んどきんしゃい」
やはり下駄ではなくサンダルにするべきだったろうか。足が痛むのではあまり無闇に歩き回れないし、それでなくても仁王は幸村たちを探す気があるのかないのか定かではない。
予想はしていたが、十分もすると初対面な二人は会話が尽きる。もともと、仁王からはあまり親しくしようという雰囲気が窺えず、彼の読めない言動には少し苦手意識を持っていた。定期的に携帯を開いては、幸村からの連絡がないかを期待する。電波が入らない時点で無駄なことなのは、分かっているが。
「おまえさん」
「はい?」
「幸村を気にかけすぎじゃ」
え、と思わず上擦った声が上がる。まさか、今仁王からそんなことを言われるなんて思いもしなかったのだ。明らかに動揺している、といった態度の芽夢を、仁王の視線が突き刺す。心臓の音が徐々に早まる感覚に、息が詰まる。
「幸村も、おまえさんも、互いを意識しすぎて避けてばっかりじゃ」
「え、と…」
そんなことはない、と断言するべきだったと芽夢はすぐに後悔した。たとえ図星をつかれたとしても、それを肯定するような反応はあまりに愚かすぎた。芽夢が幸村に近づきすぎないよう心がけていたように、幸村も芽夢からつかず離れずの状態だった。中途半端な距離感が、彼に不信感を抱かせてしまったのだ。
「おまえさんら、付きおうとるんなら隠す必要はないじゃろ」
「ち、ちがいますよ。幸村さんは…」
「なんじゃ、違うんか」
「はい。それに私、彼氏いますし…」
ぱち。仁王の瞳が瞬いた。まるで意外とでもいうような反応に、少し眉を顰める。幸村とそういう関係に見られたからか、はたまたそういう人がいるようには見られないくらい、芽夢の顔立ちが幼いからか。ふ、と。仁王の表情に影がさす。首を傾げた芽夢に対し、心底気だるそうな目が向けられた。勝手にこんな話をしておいて、そんなふうに睨まれたくはない。やっぱり、この人は苦手だ。
「おまえさん、意外と俺と似とるのう」
「は、い?」
「他人に嘘ばっかしついとる。幸村から見たらばればれなんじゃろうな」
「!」
「おまえさんはペテンじゃ、自分を騙した気になっとるタチの悪い、のう」
な、にを言うんだ、この男は。真面目な顔をして、言うことは破天荒というか、芽夢の理解を超えている。何より驚いたのが、それが確実に芽夢の痛いところをついていたということ。ペテンだの騙すだの、まるでギャンブルでもしているような言い回しに戸惑いながらも、あまりの的確さに言葉も出ない。まるで、全部知っているような、見透かされる感覚。なんだこの人。気持ち、わるい。
「目、閉じてみんしゃい」
「…な、んでですか」
「いいから」
正直、言うことなんて聞きたくなかった。恐怖にも似た感情を自分で理解していないわけがない。けれど、逆らうことができない雰囲気に気圧されているのも事実。疑う気持ちが拭いきれないまま、芽夢は仁王の言う通りに瞼を伏せた。暗がりから確実な闇に変わる感覚。高く鳴く虫の求愛の声だけが耳に届く。彼が何をしたいのか、何を考えているのかまるで分からない。次の彼の行動にびくびくと怯える自分が、とても小さい存在に思えた。
「…水竿さん」
瞬間、弾かれたように顔を上げた。それは、間違えたくても出来ないくらい、深く芽夢の意識に染み付いた声。遠くの橙に光る明かりを受けて、柔らかな藍色の髪の輪郭が滲む。見下ろす視線の柔らかさに、目を疑った。
「幸村さん…?っえ、あれ、仁王さんは…」
「仁王なら飲み物を買いに行ったみたいだ。気を、遣わせてしまったかな」
「…?」
「水竿さん」
ふわりと笑った顔が近付く。芽夢がまばたきをしている間に、その顔は見えなくなって代わりに温もりに包まれた。両腕で抱きすくめられている、幸村に。そう自覚した途端、顔に血が上り詰めるのが分かった。混乱と、動揺が思考を支配する。どうして、と声に出したいのに口が思ったように動かない。
「ゆ、き…」
「ごめん、一番に君を見つけてあげられなくて」
「っ、」
「本当は、二人で祭りを回りたかった。君は赤也とばかり仲良くしてるから、少し癪だったんだ」
「っな、なんで…」
「なんで、って、好きだからに決まってるだろ?」
発せられる甘い言葉、誘惑しているみたいに脳に染み渡るそれを、愛しいと思わないはずがない。ついこの間、この腕に抱かれて、数えきれないほどの愛を囁かれたばかりなのに。まるであの夜のことを思い出させるような言葉に、息を呑んだ。でも。
「っ、やめてくださいっ」
強く、腕を張ってその大きな身体を押しのける。叫ぶような拒絶の声に、離れた顔は切なげに歪んだ。「どうして?」と悲しそうに紡がれる言葉に、揺らぐ瞳に神経が麻痺しそうになる。彼をはねのけた腕が、小さく震える。じわじわとこみ上げる、悔しいような悲しいような感情が、ぼんやりと視界を歪ませた。
「幸村さんはっ、一度言ったことを破るような人じゃないです!優しくて、強い人なんです…っ」
「…水竿さん」
「こんな、幸村さんの気持ちを無視するようなことやめてください…仁王さん」
確証は、なかった。けれど、勘であろうと目の前に立つ人が幸村本人とはとても思えなかったのだ。この砂利道、一歩でも動けば足音で誰か来たのがすぐに分かる。離れる時も同じだ。それがなかったというのならば、そこに立つのが誰かなんて、言わなくても分かる。最初から、幸村はいなかった。いたのは芽夢と、名前を呼んだ彼だけ。
「…案外からかいがいがないのう」
藍色の鬘を引っ張って、あの気だるそうな顔が呟く。もう、そこにいるのは幸村精市ではなかった。この一瞬で、彼に成りすますなんて。よくよく考えてみれば、服は仁王のままなのだから見ればすぐに分かることだったのだ。それが分からなくなるくらい、芽夢は動揺していた。仁王が成りすました幸村の言葉が、本当だったらと期待したのは紛れもない事実。泣きそうだった。けれど、こんな人の前で泣くなんてプライドが許さない。代わりにきつく睨み付けるが、逆に冷たい視線で見下ろされて気持ちが畏縮する。
「見破ったのは大したもんじゃが、おまえは幸村を買いかぶりすぎてる」
「は…?」
「あいつは、そんな出来た人間じゃなか」
優しくて、強くて、信念を曲げない。それの何が、間違いだというのか。少なくとも、芽夢が今まで見てきた幸村はそうだった。自分が後輩という立場だったからかも知れないけれど、彼にはいつも助けられている。完璧な人間なんていない。けれど、芽夢の中で幸村は限りなくそれに近い存在であることは確かなのだ。幸村さんが、どんな顔で別れを告げてくれたか、知らないくせに。そんな怒りにも似た激情が、どうしようもなく心を駆り立てる。
「仁王!」
けれど、それは発散されることもなく、突然割って入った声によって鎮火させられる。仁王が振り向いて、芽夢もそちらに目をやる。彼は遠くからこちらを確認すると、駆け足でそばに寄った。
「良かった。水竿さんもいたんだ」
「幸村さん…」
「…どうしたの、水竿さん?」
今度こそ、正真正銘の幸村だった。じっと凝視してしまったせいで、彼は芽夢を覗き込むようにして膝を曲げた。屈んだ幸村に目線を合わされて、芽夢ははっとして顔を下げた。泣きそうなのを、見抜かれたかもしれない。案の定、幸村は芽夢から視線を逸らすと、仁王を睨むようにして低く名前を呼んだ。何をした、とでもいうような威圧感のある声色に、どうしてか芽夢の方が肩を跳ねさせた。
「なんもしとらん、なーんも。さて、イカ焼きでも探しに行くかのう」
「仁王!」
あっけからんとした態度の仁王に、幸村は珍しく声を張り上げた。けれど仁王はそれに応じることなく、ひらひらと手を振って逃げるように雑踏の中に消えていった。必然的に、二人で取り残された空間。黙ったままの芽夢に、小さく声がかかる。虫の音色が、煩わしい。
「ごめん、仁王のやつ悪戯が過ぎることが良くあって。何か言われた?」
「…幸、村さん」
「うん」
「私、幸村さんを分かってないって言われました」
「は?仁王に?」
「…幸村さんは、優しくて強くて、大人な人だって思ってたんです」
それが自分の思い違いだったのか、仁王がまた意味のないことを口走っただけなのか芽夢には分からなかった。あんな、人の傷を抉るような真似をする人でも、幸村との付き合いは自分よりもずっと長い。理解していないのは、自分の方かも知れないのだ。
「ごめん」
けれど、思い詰めたような顔で謝罪の言葉を口にした幸村に、芽夢は目を見開いた。
「水竿さんが俺を見誤ったわけじゃない。俺が…君にそういうふうに見て欲しかっただけなんだ」
「え…?」
「君に、どうしても俺を好きになって欲しかった」
猫被ってたんだ、気付かなかったでしょ。そう言う、声のトーンは高いけれど、彼の表情とその台詞はあまりにも不一致だった。そんな切なそうな顔で語る彼は、一体何を思っているのだろう。何より、そうやって自分を偽ってでも想っていてくれた事実に、心臓が掴まれたように苦しくなる。それを知ってもなお、応えることの出来ない自分に言葉にし難いもどかしさが込み上げる。涙が、視界を歪ませる。しっかり彼を見ないと、そう思うのに。「水竿さん」優しい声がかかる。そっと俯いた顔に彼の両手が添えられたかと思うと、掬われるように持ち上げられる。ほぼ真上を向くように顔を上に固定されて、まばたきを繰り返す。困ったような幸村の笑顔が、近くにあった。
「泣かないで」
「え?」
「俺ってせこいからさ、泣いたら慰めたくなるんだ」
「っ、」
ふざけてるみたいに、自分を卑下する彼の言葉に息が詰まった。ああ、どうしよう。また、流されそうになる。彼にじゃあなくて、自分の感情に。彼の表情に揺らぐ気持ちに。駄目なのに、この人がどんな気持ちで背中を押してくれたか、知らないわけがないのに。まだ、触れるには早すぎたんだ。そっと、頬を包む幸村の手に触れたくて手を伸ばした。
瞬間。ぱっ、と、光が花開いた。え、と芽夢が声を上げたのと同時に、空を裂くような低い音が響く。光が、何度も幸村の後ろで瞬く。
「わ、びっくりした。もう花火の時間か」
後ろを振り向いてそう言う幸村がそう言うまで、芽夢はそれが花火だと気付かなかった。本当に、花が咲いたのかと。その花を背景にした幸村が、あまりに綺麗で言葉を失った。振り返った際に触れていた手は離れたけれど、芽夢は上を向いたまま時間が止まったみたいに固まっていた。
「幸村さん、みたい」
「え?」
「花火が」
何となく、思ったことを口にしたら幸村は驚いたように瞳を瞬かせた。ただ、芽夢が度々感じていた花のようだという表現が、正しくはあの夜空に打ち上げられる花火の方が近いのではないかと思ったのだ。朝顔がゆっくり蕾を開くような美しさではなく、花火がぱっと瞬くように、彼の笑顔は不意をうって向けられる。後を追うように零れる笑い声も、そう考えると自然だ。開いては閉じ、そしてまた色を変えては浮かび上がる。決して触れられないところも、また幻想的なイメージを引き立てる。幸村さんは、花火みたいな人。
けれど、それを聞いた幸村は何故かくつくつと笑い、手で口元を押さえながら芽夢の隣に腰を降ろした。彼の視線がこちらを向くのが分かって、芽夢は反射的に逃げるように空を見上げてしまった。芽夢はひたすら打ち上げられる花火に意識を向け、幸村の視線が自分の横顔に向いているのを悟ってはそちらを見ないようにと空に集中する。見られている、のが、異常なくらい恥ずかしかった。
「水竿さん」
「…はい」
「猫被ってたお詫びに、今日思ったこと全部教えてあげる」
「え?」
突然幸村がわけの分からないことを言い出すものだから、思わず視線を傾けてしまった。ぱっ、と開いた花火の明かりが、幸村の綺麗な顔の輪郭をなぞって光る。瞳が、宝石を宿しているみたいに煌めいて眩暈がした。
「今日、水竿さんに会えて嬉しかった。元気そうで安心したけど、よそよそしかったのが少し残念だった」
「えっと、あの…」
「せっかく勇気を出して誘ったのに、赤也や丸井とばかり盛り上がってて気に食わなかった」
「ゆき、むらさ…」
「それから、君ちょっと赤也に甘すぎ。あいつすぐ調子乗るし、いつの間にか懐いてるし、俺の方が仲良いのに。あと、」
「っ!」
「俺が花火なら、君はこれ」
そっと、肩に手が触れて思わず後退りそうになった。けれど、そんな拒絶するみたいな態度は取りたくなくて、思いとどまる。ふと、視線を彼の手に向ければその指先は芽夢の浴衣を指していた。正確には、水中に見立てた藍色の上を泳ぐ、赤い模様を。
「…金魚…?」
「うん。小さくて、可愛らしくて、とても弱く折れやすい。だけど、触ろうとするとすぐに逃げてしまって、いつの間にか目の届かないところに行ってしまう。水竿さんは金魚みたいだね」
幸村の指が、愛でるように金魚をなぞる。それが、まるで自分に向けられたもののようでくすぐったい。ゆっくり離れた彼の手が、少し躊躇いながら芽夢の頭に触れて、一度だけ撫でるように髪を梳く。
「良く似合ってる。金魚柄の浴衣」
「…っ」
「これが、今日一番言いたかったこと」
夜空に、一際輝きを放ちながら打ち上がる三尺玉。その光と同時に浮かんだ笑顔に、芽夢は心ごと意識を全て奪われた。
「…反則だったかな?ごめん、少し欲張った」
「そ、んなことないです」
「でも、泣きそうだよ」
「泣きませんっ」
幸村が泣かないでほしいと言うなら、絶対に泣いたりしない。この人のために、この人にできることは全部してあげたい。罪滅ぼしとか、恩返しだとか、そんな理由ではなく。だって、恋愛感情を抜きにしたって、私はこの人が大好きだったんだ。
もう少し花火を見ていたいと言えば、彼は優しく笑った。隣に座って、身体半分の隙間を開けて、だけどずっと寄り添っていてくれた。つい数分前まで煩いと思っていた虫の鳴き声が、今はオルゴールが奏でられているように穏やかに感じる。
「私、幸村さんの笑った顔が好きです」
不意をつくようにその横顔に言葉を投げかければ、驚いた顔がこちらを向く。かと思えば、照れたように表情が綻んで、浮かんだのは芽夢が好きだと言った笑顔だった。それから、彼は優しい目をして柔らかな髪を揺らしながら言葉を紡ぐのだ。
「俺も、水竿さんが笑ってると嬉しい」