U・シンデレラヴィジョン | ナノ



もともと、雨は嫌いだった。夏はむしむししてうざったいし、冬は風邪をひかないよう注意が必要だし、何より屋外スポーツであるテニスは出来なくなってしまう。そろそろ梅雨の時期に入るという頃になると、自由に練習も出来なくなってしまう。その前の春は好きなのに、とため息を零すことも増える。
学校へは専ら自転車通学である。免許があるので原付を出すこともできるのだが、体力作りという運動部だった頃の考えが抜けず自転車を三十分走らせているのだ。ただし、雨の日はそういうわけにもいかず電車を使うのだが、時間も金もかかるし人混みも苦手なのであまり好まない。だから、電車通学の日は比較的機嫌が悪かったりもする。
あの日までは。

最初は、別に何とも思ってなかった。俺の鞄に誰かのウォークマンのコードが引っかかったらしく、急にかけられた声に何気なく振り返っただけだ。その女の子の印象は、小さい子。茶髪だし、服装や雰囲気を見ると同年代くらいだろうけれど、中学生くらいの背丈の女の子だった。
だけど、少し話しているうちに変な疑問を持った。あれ、なんかこの子、どこかで見たことあるような。そんな曖昧な感覚で、彼女はといえばまるで珍しいものでも見るように俺の顔を凝視しているものだから、やっぱり知り合いなのかな、なんて思った。だけど、彼女はすぐ逃げるようにいなくなってしまって、俺の疑問は晴れなかった。まあ、いいか。思い出せないならそんな深い仲でもなかったのだろう。なんて、彼女が落とした定期の名前を見るまで思っていた自分を、ほんの少し殴りたくなった。

水竿芽夢。その名前を見た瞬間、疑問は全部晴れた。なにせ、俺が生まれて初めて恋をした女の子の名前だったのだから。これは偶然か、はたまた運命かと思うくらいには俺にとって重要な出来事だ。中学三年間、片思いを続けたままどこかに居なくなってしまった女の子。通学定期に記された駅名は立海大学前。このあたりで大学といえば、自分も通う立海大学しかない。本来なら、落とし物は駅に届け出るのが当たり前だ。だけど、俺にはそんな考えはなかった。もう何年も前の恋だ、今更気持ちが芽吹き返すなんてことは有り得ないだろうけれど、俺はもう一度、彼女に会いたかった。

その日一日、学校内で俺はずっとあの小さな背中を探して歩いた。見つけたのはもう夕方近かったけれど、テラスのテーブルに突っ伏す姿は中学生の頃に苦手な授業を受けている彼女の背中に重なって何だかおかしかった。
やっぱり、その子は俺が知っている水竿芽夢だった。向こうは俺のことを忘れていたみたいだったけれど、少しずつヒントを与えていくと表情を明るくして「幸村精市くん」と確かに俺の名前を呟いた。また、会えた。それが純粋に嬉しかったんだ。それっきりにしたくなかった。だから自分のメールアドレスを書いた紙を彼女の定期入れに忍ばせた。
この時点では、俺には彼女と呼べる女の子が居たし、向こうも恋人がいるようだったから、やましい気持ちなんてなかったんだ。

それから、俺は水竿さんを見かける度に声をかけた。昔とあまり変わらない背丈、同じように笑う顔を見ていると中学生の頃に戻ったみたいで嬉しかった。変に子供に戻ったみたいに、ちょっかいかけたりからかったりもしたし、日毎に彼女と仲良くなっていくのが分かった。
そんな時だ、恋人に別れを告げられたのは。理由は特に聞き出さなかった。ただ、暗い表情をした彼女はきっと辛い思いをたくさんしたのだろうと思うと、引き止める気になれず俺はその申し出を了承した。ショック、でなかったわけではない。それなりに長い付き合いの子だったし、俺なりに優しく接してきたつもりだった。彼女が何を思って別れようと言い出したのかは知れないままだったけれど、それまでの日常に喪失感を覚えたのは確かだった。

そんなタイミングで、一人街中に佇む水竿さんを見つけた。枷が外れたみたいに彼女をデートに誘う自分が、すごく嫌な奴だなとは思った。この子を、好きになるような気はしていたんだ。ただ、恋人のいる子を好きになったってしょうがないし、そこまで近付くつもりもないはずだった。彼女を水族館に誘った時、多分俺は恋人からこの子を奪えたらくらいの気持ちはあったのではないだろうか。恋人じゃあない男と居るのに、純粋に水族館を楽しんでいる彼女を見て、普通に可愛いと思った。海に行きたかった、と何気なく零した本音を拾い上げたのも、少しでも彼女の印象に残りたかったから。振り向いてくれないかな、意識してくれないかな、なんて淡い期待を抱いて目一杯優しくしたつもりだ。けれど、一日一緒に過ごした俺と居ても、意中の相手から連絡が入ったかと思うとすぐそちらに行ってしまう。散々思わせぶりな態度とっておいてそれなんだから、もちろん俺だって勝手にしたことだと分かっているが何だか苛々して仕方なかった。そんなの、悟らせるほど馬鹿じゃあないけれど。
いつの間にか、心を掴まれているとその時は気付かなかったのだ。

水竿さんが俺に"優しい大人な先輩"という印象を抱いているのはすぐに分かった。だから俺は、何が何でも彼女が想像する俺でいようと決めた。水竿さんに、絶対に俺を好きになってほしかった。もう意地だ、恋人なんて関係ない。絶対にこの子と付き合いたい。中学生の頃に叶わないままになっていた気持ちが、余計に強くそう思わせた。

適わないな、と感じたのはそのすぐ後のことだった。水竿さんと、恋人の日高雅人が俺が想像していた以上に深い絆で繋がっていると彼女の話で気付いた。付け入る隙なんて、なかった。彼女は恋人のために一度は諦めたラクロスの道に向き合った。日高も、ただ彼女のためだけに一年以上もそばに寄り添っていた。俺だってその場に居たら、と反発する気持ちがなかったわけではないけれど、そこに居るのは日高雅人以外、有り得ないというのも分かっていた。八つも上の人を一途に思う彼女を見て、ああ、適わないなって。思いたくもないことを察してしまった。
俺にも、ちゃんと好きな人が出来ると彼女は言った。誰かを心から好きになれないと言った俺への励ましだったけれど、彼女の素直さが伝わってくる言葉は嬉しかった。
君が、その人だよ。そう言ったら、多分この子はすごく困った顔をするのだろう。この頃にはもう、前の彼女には悪いと思ったが俺は水竿さんが大好きだったんだ。
昔と変わらない笑顔。真っ直ぐ前を向く姿勢に、俺は彼女に二度目の恋をした。自分の知っている彼女のままでいてくれたのが、純粋に嬉しかった。

なのに、まさか思うはずがないだろう?俺の大好きな水竿芽夢が、本当は数年の間にどうしようもない卑屈に育っていたなんて。明るいのは表向きの姿で、ちょっとつついたらすぐ剥がれ落ちてしまうような弱い皮を被っていたなんて、気付かなかった。
彼女は昔の自分にコンプレックスを抱いていた。誰にでも期待されていた自分、必要とされていた自分。それに苦手意識を抱いているばかりでなく、嫌っていたのだ。中学生の頃の自分を卑下する彼女を見て、俺はすごく嫌な気分になった。俺は事実、入院中に彼女から元気をもらった。なのに、本人がそれを否定して、子供だっただけなんて、無神経なことだなんて言うから。俺が好きになった子をそんなふうに言われて、苛立たないはずがない。少なくとも、自分を悪く言ってばかりの今の水竿さんより、中学生の彼女の方がずっと前向きで明るい良い子だったと思う。彼女が、俺の望んだ水竿さんではなかったことがショックだったのかも知れない。思ったことをそのまま言って、今までにないくらい寂しそうな顔をした彼女に気付いても何もする気になれなかった。

それからしばらくは彼女を見かけても、話しかけに行く気になれなかった。良い機会かな、なんて自分に言い聞かせて。どうせ好きで居たって叶わないのは分かりきっているし、喧嘩別れなんて後味悪いけれど、馬鹿みたいに追いかけ続けるよりは良いかも知れない。この間まで他人だったのだから、出来ないことではない。
だけど、偶然道路で倒れている水竿さんを見かけて、そんなの頭から吹き飛んだ。下手をしたら事故に遭いかねない場所に座り込んでいたら、そりゃあ慌てるに決まっている。何を馬鹿なことをしているのかと思ったら、水竿さんが泣きそうな顔で見上げてくるから余計驚いた。脚が動かないという彼女を抱えることに、抵抗はなかった。拒絶されるかも、と思うと少し不安だったけれど。

水竿さんが昔の自分を嫌う理由を聞いて、なんて馬鹿な子だろうと思った。要らない、なんて言うわけないのに。いや、実際に似たようなことを言われた経験がなければ、こんなに怯えたりはしないか。可哀想だな、とそう思った。昔の姿に怯えて、評価されることを恐れてばかりいる。けれど同時に、俺が彼女にしていた期待も、彼女を苦しめた言葉と同じだと自覚した。俺が昔の水竿さんを評価する度に、彼女は辛い思いを隠していたのだろうか。
要らないなんて、言わない。少なくとも俺は絶対に。ついこの間、自分から離れたばかりなのにそんなことを言っても信じてもらえないかも知れない。だけど、そう言わずにはいられなかった。
ねえ、やっぱり俺は君が好きだよ。どんなに見た目を変えても、表面上で性格が変わったように感じても、どうしてか好きだと思ってしまうんだ。叶わないから離れようなんて、思っていたのが馬鹿らしく思える。

たとえ叶わなくても、やっぱり俺は水竿さんにとって優しい良い先輩でいたいんだ。だって、そしたら昔はなれなかった友人として、一番近くに居られるようになるかも知れない。それで十分だ。恋人と寄り添って幸せそうにする笑顔に割り込むことは出来ないけれど、それくらいの期待ぐらいしたって、罰は当たらないだろう?

だけど、やっぱり辛いことだってある。いつの間にか弦一郎や蓮二、それどころか赤也とまで知り合っている彼女を見て少し詰まらない思いもした。俺のことはなかなか思い出してくれなかったのにそういえば蓮二のことは覚えていたみたいだし、勉強面で俺を通して蓮二を頼ったことも些か腹が立った。だけど、そんな些細なこと、あの瞬間の虚しさに比べたらなんてことない。
水竿さんと恋人の仲の良さを意識せず見せつけられた時、俺があの人に劣っていると突き付けられた時。彼女の首筋から覗く赤い所有印を偶然見つけてしまった時は、本当に気が狂うかと思った。同時に、そこまで深く愛し合える関係が羨ましくて仕方なかった。好きな子の全部が欲しいと思うのはそんなに変なことだろうか。俺だって、スポーツをしている割には白い彼女の肌に目を奪われたことくらいある。もっといえば、触れたいとか、その奥まで暴きたいとか、そういう獣じみたことだって考えた。もしも手を繋げる関係だったら、唇で触れ合えたら、抱きしめていいなら、いくらでも飽きずに繰り返すのだろう。とても口外できないけれど、そういう夢を見たことだってある。届かないからこそそういう妄想は広がっていくばかりだ。あーやだやだ、どんなに大人で良い人ぶってても下世話な想像が止まらないんだから、俺っていうやつは。身体の痛みを訴えながらも、それさえ愛情として幸せを噛みしめるであろう彼女が、少しだけ憎たらしい。

そうやって彼女を独占する恋人を羨んで、汚いことばかり考えてしまう時点で、俺は気付かないといけなかったんだ。
良い先輩として仲良くしたい。そんな建て前じみた虚勢、ちょっと揺らしただけで簡単に崩れてしまうものだったんだって。
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