U・シンデレラヴィジョン | ナノ



微睡みの誘惑の中、そっとまぶたを押し上げた。蒸し暑いような心地良いような感覚の中、視線を上げれば普段決してそこにないものがあった。
ゆき、むらさん。限りなく近くにある彼の寝顔に、まだ意識がはっきりとしないながらも心臓が高い音を奏でる。ぼうっと、その整った顔を眺めながら、やがて自分も彼も身体に何も纏っていないことに気付く。そうだ、わたし昨日、幸村さんと。
徐々に昨晩の自分の奇行じみた言動を思い出して、背筋に冷たい感覚が走った。あの時、無我夢中で好きだ好きだと繰り返していたのに、頭が冷静になるとなんてとんでもないことをしでかしたんだと焦りが生まれる。昨日と変わらず後悔なんて微塵も感じていないが、果たして彼が目を覚ました時にどんな反応をするか。見た目で分からないだけで本当はものすごく泥酔していて、起きたら覚えていませんでしたなんて落ちになっていたらと想像するとぞっとした。
それでも、眠っている彼の腕がしっかりと芽夢を抱いていることを幸せだと感じてしまう自分がいる。昨夜、眠るのをぐずっていた時にずっと抱きしめていると言ってくれた。それを守ってくれたのが嬉しかった。しかし、もう夏場なのもあり、彼の額に滲む汗を見つけて申し訳なくなる。芽夢は暑かろうが汗がくっ付こうが知ったことではないが、彼が不快な思いをするのはやはり嫌だ。こんなにぴったりと引っ付いていたら汗をかくのも無理はない。芽夢は何だか申し訳なくなって、そっと幸村が起きてしまわないように腕をどけて、その中から抜け出した。汗をかいた身体に触れる空気が若干涼しい。このままでいたら風邪をひいてしまいそうだと思った。ベッドから起き上がり、芽夢は化粧台の前までふらふらする足で歩いた。無造作に置きっぱなしにされた自分の携帯を開けば、新着のメールが一件。何となく相手は予想できて気が重かったが、芽夢はそのメールを迷わず開いた。送り主は日高雅人。恋人の名前の入ったメールの本文に目を通す。一人じゃなくても、女の子なんだから気をつけるように、と。要約するとそんなことが書かれていた。受信した時間は昨日の日付が変わる少し前くらい。ちょうど芽夢と幸村が行為に勤しんでいた頃だろう。
昨日、ホテルに来る前に恋人にメールを入れた。一緒に飲みに来たラクロスサークルの先輩の家に泊まることになったから、迎えはいらないと。もちろん、今ここにいる時点で真っ赤な嘘である。加えて、ラクロスサークルというだけで嘘が見破られるリスクも考えて先輩には「コーチが迎えに来れなくなって、終電ないけど心配かけたくないから先輩の家に泊まるってことにして漫画喫茶にいます。口裏合わせてください」なんてメールまでしている。やはり昨夜の奇行は酒のせいではなかったようだ。視線を液晶画面から上げれば、化粧台の鏡に裸体の自分が映る。スポーツをしているわりには、肌が焼けていないという自覚はある。そのどこを追っても、肌はまっさらな状態のまま。一つだけ、目を凝らして漸く見えるくらいの赤い痕跡は、何日か前に彼でない人がつけたものだ。こうやって、つい見落としてしまいそうなところでも彼の優しさに包まれている。
自分の甲斐性のなさに小さく息を吐いて、携帯を片手で操作しながらベッドの脇に腰を降ろした。幸村は、昨夜の疲れもあってかまだ夢の中だ。先に寝てしまった芽夢には彼がいつまで起きていたのかは分からないが、きっと昨日の言葉通りずっとそばにいて、眠りにつくまで頭を撫でていてくれたのだろう。優しさに甘えて、依存してしまいそうになる。いけないことだと頭では分かっているのに、どうすれば止まってくれるのか分からない。まだ、わたしは弱いまま。こうやっていろんな人を騙して、誰かを傷付けながらでしか自分の居場所を見いだせないのかも知れない。


「わ、っ…」


不意に、腹に伸びてきた感触。そのまま巻きつくようにくっついたそれに身体を引かれ、芽夢は小さな悲鳴を上げながらベッドに背中から倒れ込んだ。柔らかいシーツに落ちて痛みはないが、突然のことに思わず目を瞑った。けれど、倒れた芽夢にすり寄るようにぴったりと寄り添った体温に、その正体を知る。するりと首に回る逞しい腕に、昨夜の情事を思い出す。首だけで振り向けば、藍色の入った黒髪が視界に映る。


「幸村さん…」
「……」
「、あっ」


とろんと微睡んだ目で、幸村は芽夢だけを見ていた。後ろから抱きしめられたことに油断してたのか、素早く伸びてきた手に携帯を奪われる。抵抗しようにも、もう片方の腕でがっちりと捕まっていて動けない。彼の視線が芽夢から離れて、手元の小さな機械に向く。ほんの少し、まだ覚醒しきっていない眠そうな表情に影がさす。その画面には、先ほど芽夢が見たメールの文面が映されているのだろう。けれど幸村は何も言わず、そっと携帯を閉じると枕元に置いた。
怒らせて、しまっただろうか。事実上関係を持ってしまった相手といるのに、恋人と連絡を取っていたなんて。ゆっくり首もとに回された腕が解かれる。けれど、何かしら弁解しなければと起き上がろうとした矢先、離れたはずの手に腕を引っ張られて無駄に終わってしまう。ほんの一瞬でベッドに組み敷かれる形になって、芽夢はまばたきを繰り返した。息をつく余裕も与えないで、覆い被さるように重ねられる唇に言葉も飲み込まれる。触れて、啄んで、離れてはまた重なる。幸村の唇が味わうように芽夢の下唇を挟んで、舌でなぞられて頭に熱が登る。一体どのくらい、そうしていたのか。幸村が漸く離れたのは、芽夢がもう熱で思考をとろけさせてしまった随分後だった。


「おはよう」


何でもないような顔でかけられる挨拶に、芽夢は正しい返し方が分からず戸惑うばかりだった。今まで芽夢を翻弄していた唇が弧を描いて、壊れ物に触れるように指先が熱を孕んだ頬を撫でる。


「真っ赤。かわいい」
「っ!」
「あ、」


不意をつくような恥ずかしい台詞。慣れない言葉に動揺して思わず寝返りをうって、顔を隠すように枕に埋めれば幸村の残念そうな声がした。そんなことを言われるのも、明るい部屋で肌を見られているのも自覚したら恥ずかしくて仕方ない。けれど幸村は、そんな芽夢を見てくすくすと笑うから、その顔が見たくてつい顔を上げてしまう。何から何まで狡い人だ。「身体、怠くない?」大きな手に頭を撫でられながら聞かれて、芽夢は素直に頷いた。身体のどこがが痛かったり、怠いなんてことはまったくない。だいたい、昨夜のひたすら甘やかすようなどこまでも優しい行為で、負担なんてかかるわけがない。本当に、それくらい彼の触れ方はどれも丁寧で優しかった。絶対に無理なんてさせなかったし、言葉と指先で泣きたくなるくらい純粋な愛情を受けた。


「…幸村さん」
「こら。もう忘れたの、芽夢」
「っ、……精市、さん」


「うん、なに?」と、嬉しそうに微笑む彼に、心臓が掴まれたみたいに高鳴る。精市さん。昨夜、芽夢は彼をそう呼んだ。彼も水竿さんではなく芽夢と呼んで、愛おしそうに肌を撫でた。それを思い出してしまって、今になってその呼び方が恥ずかしくなる。けれど、それ以上に幸せだと感じてしまうのは、自分がどうしようもなく卑しい人間だからだろうか。


「わたし、精市さんに貰ってばかり…」
「え?」
「私は、精市さんに何もしてあげられないのに」


たくさん、幸せな気持ちを貰った。優しさと体温に包まれて、彼から多くのものを奪った。彼が、自分を好きでいてくれる気持ちを利用したようなものだ。そう自覚しても、後悔できないくらい自分が可愛くて仕方ない、そんな人間なのだ。
けれど彼は「ばかだなあ」と呟いて、困ったように笑う。


「君はまたそうやって、自分を卑下する。貰ってばかりなのは俺の方だよ」
「、そんなこと…」
「王子様からシンデレラを奪っちゃったんだから、悪いのはむしろ俺だ」
「ち、がいます!私が…っ」


そんな、彼の方が悪いなんてこと、あるはずがない。けれど、反論しようとした言葉は彼の唇にぱくりと食べられる。彼は愛情表現にキスを用いることがすごく多いけれど、こうして芽夢の言葉を遮断することも一晩を通してよくあると思った。聞きたくない、と言われているようで、それ以上何も言えなくなってしまうのが分かっているのかも知れない。反論しようとしたことも、唇が離れる頃にはもう綺麗に溶けて消えてしまっているのだから不思議だ。


「精市さんは、魔法使いみたい」


ぼんやりと、浮かんだ言葉をそのまま声にすれば、幸村は素直に首を傾げる。


「私の嫌な気持ち、全部なくしてくれるから…」
「ふふっ…魔法使いは、シンデレラが好きだったのかい?」
「わ、かりません」


何食わぬ顔で幸村が言ったことが、やけに引っかかった。魔法使いは、シンデレラを好きだったのか。シンデレラ、というのは、彼が以前芽夢と日高の関係をそう表現したことから言い出したのだろう。あの時は、そんな童話に出てくるお姫様なんてとても似合わないと思った。けれど、その娘に付けられた名前の意味は"灰かぶり"。それは、今の自分にこそ相応しい名前な気がすると言えば、また皮肉だと怒られてしまうだろうか。けれど事実、そんな汚い名前は童話の中の純粋な娘には似合わない。彼女こそ、シンデレラと名乗るべき人でなかったのだ。
もし、もしも。幸村の言うように、魔法使いがシンデレラに恋していたとしたら。ずっと娘を想って、だからこそ彼女が本当に困った時に現れて魔法をかけたのだとしたら。シンデレラの可哀想な人生を救うために、故意的に王子の元へ向かわせたのだとしたら。王子と幸せを育む娘を、遠くで見守っていたとしたら。
そんなの、魔法使いがあまりに辛いではないか。


「精市さんは、優しすぎます」
「そんなことはないさ。…でも、そうだな」
「…?」
「そう言うなら、俺も一つ、君にお願いして良いかな」
「え?」
「お願いというより、願掛けみたいなものだけど」


こつん。額同士が触れて、深い色をした瞳が限りなく近くなる。どくどくと脈打つ鼓動を抑えられずに、芽夢は黙ったまま幸村の"お願い"を待った。自分にできることなら、何でもしてあげたい。一晩を共に過ごしてもなお育ち続ける気持ちと、彼への罪悪感からそう思った。


「君が早く、俺を忘れられるように」


形の良い唇から放たれた言葉に、芽夢は自分の息を吸うひゅうっという音を聞いた。世界が反転するような、そんな衝撃があった。穏やかな表情で言い放った幸村に、どうしてという身勝手な疑問さえ感じた。
卑しい自分は、どこかで期待していたのだと思い知る。恋人と別れて、そばにいてほしいと。そう言われるのではと思う自分が確かに居た。もし、実際そうなったとして彼の願いを叶えてあげられる保証なんてないのに。それとも、好きだからという理由をつけて恋人を切り離すことができるとでもいうのか。今でも彼への愛情を確かに感じているのに。彼との未来を望んでくれる人がいるのに。
ほら、やっぱり私は幸村と彼を天秤にかけて、自分の都合で彼を取るのだ。


「俺も、頑張るから」
「っ、…はい…っ」
「そんな泣きそうな顔、しないで。あと少しの間だけど、それまで芽夢のことだけ見てる」


最初から、彼はそのつもりだったのだ。昨夜の優しすぎる愛で方も、決して肌に痕跡を残さなかったのも、それが消えてしまうものだと分かっていたから。タイムリミットは、ホテルを出る時間まで。起きた時、携帯に表示される時計は八時近かった。もう、二時間もない、彼とこうして抱き合っていられる時間は。後悔があるとすれば一つ。一晩限りの関係にするには、彼を好きになりすぎた。時間に怯えて、まるで魔法が溶けるのを恐れているようだ。
ホテルを出るその瞬間まで、二人は言葉を交わさずともずっとそばに寄り添い続けた。


「一人で帰れる?」
「はい、大丈夫です」


裏通りを出る手前、幸村が持っていてくれた荷物を受け取る。ホテル代を半分出すとしつこく言った時に彼に鞄を奪われて、そのまま持たせてしまった。本当なら、駅までは一緒のはずなのに。万が一にも知り合いに見られないように、彼は別の駅から帰ると提案した。やましいことがあると自ら言っているようで、少し切なくなった。


「また学校でね、水竿さん」
「はい、さようなら。幸村さん」


ついこの間まで、そうありたいと思っていた彼との関係そのものだった。友人として、彼との関係を築いていきたいと、確かに思っていた。それを物足りないと感じてしまうのは、彼の熱に触れてしまったからに他ならない。もっと、もっと近くに。そう訴える本能とは裏腹に必死に笑おうとして、きっと今すごく変な顔をしているんだろうなと思った。
思い出にすることも出来ない。忘れてほしいと彼が望むのなら、私は何もしてあげられない代わりにそのお願いを叶えることしか出来ないのだから。

ばいばい、芽夢。
そんな幻聴が、聞こえたんだ。
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テーマ「人外ファンタジー」
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