U・シンデレラヴィジョン | ナノ



「芽夢、さっさと受け取んなよー」そう白井に促されるまで、芽夢の時間は止まったままだった。え、と間の抜けた声を上げて見れば、訝しげな視線を集めていることに気付く。そりゃあ、テーブルのほぼ対角線で腕を伸ばしたまま固まっていれば、怪しくも思われる。芽夢は漸く、慌てて幸村の手からサラダの皿を受け取った。ほとんど中身は残っていないのに、先ほどよりもずっと重いような気がした。


「あ、そっか、幸村君と芽夢って仲良いんだっけ」
「通学路が途中まで一緒だからたまに会うんだよ」


荒木と幸村の会話が意識をすり抜ける。そうだ、幸村と良く会っていることはサークルの仲間も知っている。だったら、無言で皿を受け取った今の態度はかなりおかしかったかも知れない。しかし、酒の入った連中にはそんなことは気に止めるほどのものでもなかったようで、今まで障害物となっていた二本の腕が引っ込むとまた各々で話したり、新しく料理を注文したりとしていた。今が酒の場で良かった。幸村も、今も荒木と話し続けているし、芽夢の行動が追及されることはなかった。
しかし、まさか同じ店の違うテーブルで飲んでいたのがテニスサークルだったなんて。見たところ、芽夢が知っているのは幸村一人だけだった。ここで柳や真田にまで出くわしていたら、何かと言われるような気がしてぞっとした。特に柳は勘が鋭い気がする。あまり親しい付き合いではないが、常に冷静沈着といった雰囲気の彼はそんなイメージがある。とにかく、彼は対角線の向こう側だ。適当に近くのメンバーと話していれば、さほど問題ではないだろう。目が合った時の、彼の驚いたような、信じられないといった表情に少し居心地の悪さを感じたが。


「芽夢ちゃんって、水竿ちゃん?」
「あ、はい…って、あれ?」
「お、わかる?ドイツ語一緒の河野」
「うん、分かる分かる」
「さっすがー。芽夢ちゃんって言うんだ、初めて知った」


正面に座る、にこにこと笑うえびす顔の彼には覚えがあった。苦手なドイツ語の授業で何度かペアを組まされ、多大なる迷惑をかけたことはまだ記憶に新しい。どうして英語すらまともに出来ないのにドイツ語の授業なんて取ったかというと、恋人からのすすめだったのだが、これは大きな失敗であることはだいぶ以前から自覚済みだ。河野はテーブルに頬杖をつき、片手で枝豆を摘んだ。


「芽夢ちゃん、今日いつもと服違うな」
「うん、飲み行くならハタチに見られないと面倒くさいから」
「ああそっか。や、でもそれ似合う似合う、可愛い」


いつの間にか名前で呼ばれていることは、まあご愛嬌として。今日の黒地のワンピースについては、初めて触れられた。うるさくない程度に散りばめられた白いドット柄に、落ち着いた薄い水色のカーディガンは冷房対策で羽織ってきた。以前、外食をした時に年齢確認をされてからは、お酒の出る時は普段以上に大人に見える服を選ぶようになった。背が低い童顔、なんていうデメリットの塊のような容姿でも、身なりを気をつければそれなりには見えるのだ。さっきから、やたらとそれを褒める河野。不意に、芽夢の肩に誰かの腕が回った。


「ちょっとー、河野君だっけ?こいつこれでも彼氏持ちだから口説くなら他のにしときなー」
「お、越知さん…」
「え、芽夢ちゃん彼氏いるんだ?」
「そーそー!何を隠そう我がラクロスサークルのコーチ!超イケメンなんだからー」
「褒めすぎですよ」
「あ、でも大丈夫?彼氏いるのに俺らと飲んでて」
「あ、うん。その辺は理解あるから全然」
「コーチやっさし〜。今日も遅くなるなら迎えに来てくれるって言ってたんでしょ?うわーいいなぁそんな人が婚約者とか羨ましー」
「越知さんちょっと、はい、枝豆あげるから落ち着いて下さい」


何を聞かれてもいないことをぺらぺらと、この酔っ払いの先輩は。婚約ってなんだ、そんなものまだしていないぞ。一人でどんどん出来上がっていく彼女に枝豆を皿ごと押し付けて、ついでに手元のサワーを自分の水の入ったコップと取り替えた。正面の河野といえば、越智の酔いっぷりに引いたのか話の内容に驚いたのか、芽夢と越智のやりとりに口を挟むことなく傍観していた。


「あ、タバコ良い?」


そう手を上げたのは荒木の想い人、盛岡だった。居酒屋で喫煙の了承を取るなんて、ずいぶん謙虚な人だ。何人かが頷いたのを確認すると、盛岡はジーンズのポケットから潰れて皺になった煙草のケースを取り出した。


「盛岡、セッターだっけ?」
「ライト」
「一本ちょうだい」


するり。長い指が盛岡の煙草ケースから一本抜き取る。それは隣に座る幸村の手だった。「おーい勝手にとんなよ」「幸村君って煙草吸うんだー」「たまにね」そんな会話を、視界に入れないように聞いた。幸村が喫煙者だというのは、初めて知った。一緒にいる時に吸っているところを見たことがなかったし、そんな匂いがしたこともなかった。もしかしたら学校では吸わない主義なのかも知れない。二人が煙草に火をつけると、場の空気が少し変わった。じゃあ私も、と一番奥に座る菊川がピンクの小さい煙草のケースを鞄から取り出す。


「ていうか幸村、人の貰ってねえで自分の吸えよ」
「良いだろ、別に」
「幸村君いつも何吸ってんの?」
「ん?こいつはアイシーン」
「おい」
「アイシーン?えー可愛い!」


なんと幸村の愛用は女性煙草だった。可愛い、と表現した荒木にため息を吐いたのが聞こえた。どうやら、そう言われるのが嫌で盛岡の煙草を貰ったようだが、無駄に終わったらしい。まだ火をつけたばかりの煙草を乱暴にもみ消した幸村に、盛岡が隣から文句を言う。諦めた、というように自分の煙草を出して火をつけ直した幸村に、荒木が笑う。最近は男性でも女性煙草を好む人は少なくはないし、恥ずかしいようなものでもない気はするが。前はクールナノだった、とか病気をしたことがあるからあまり強いのは吸いたくない、だとか言い訳みたいなことを言っているのは珍しいと思った。これも酒の力なのだろうか。ちなみに芽夢は非喫煙者だが、コンビニでアルバイトをしていたこともあり少しなら知識があった。


「次、何飲む?」
「俺ビール」
「私もー」
「じゃカシオレ」
「何その可愛いの。俺すだちサワー」
「そっちも十分可愛いじゃん。あ、角玉ね。芽夢ちゃんは?」
「んー…角玉ってなんだっけ」
「焼酎」
「…私、焼酎って初めて見るかも」
「え、マジで?」


あー芽夢って帰国子女だからー。日本酒も知らないんじゃん?なんて、自分で言わなくても勝手に話が進んでいくのは楽で良いものだ。


「コーチは?飲まないの?」
「うーん…多分飲むと思うんだけど…」
「多分?」
「私の前だとお酒自体たまにしか飲まないから」
「えー、なにそれかっこいー」


越知の腕がまた肩に乗って、荒々しく引き寄せられる。うわっ酒くさ。そういえば、彼女が先ほどから一番飲んでいる気がする。普段から明るい人ではあるが、こうも羽目が外れまくっているのは初めて見る。「それってさー、芽夢を気づかって飲まないんでしょ?うわー愛されてるー」ごちん、と頭をぶつけながら言われた。恥ずかしさよりも痛みの方が勝って苦笑するしかなかった。見れば、焼鳥の串を持ったまま河野も困った顔で笑っていた。いや、彼はいつも笑顔に見える典型的なえびす顔なのだが。


「じゃあさ、芽夢ちゃん飲んでみたら?」
「え、焼酎?」
「お、いーじゃん!何事も経験よ!そしたらコーチとも飲めるようになるかもだしね〜」


あれよあれよという間に展開していって、芽夢が呆然としているうちに河野と同じ焼酎が注文されてしまった。こういうのを、雰囲気に流されるというのだろうか。初めてのお酒に微妙な心境だ。初対面の人が居る場だというだけ余計に。
まあ、少し飲んで駄目そうなら隣の酒好きに回せば良いか、なんて軽い気持ちで了承した。


「…ん、んー…」
「ちょっと、芽夢大丈夫?」
「うー……」


なんて、考えたのが甘かった。そうか、私は焼酎が駄目なのか。そう自覚したのは、もう中身が空になった後だった。最初は、何だ案外大丈夫そうだ、なんて思っていたのに。今は自分の顔が完全に火照っているのがはっきりと分かる。左隣の越知は原因を作った張本人のくせに、今は河野に絡みまくっていて芽夢に見向きもしない。右側から背中をさすってくれる白井が天使に見える。意識もはっきりしているし、気持ち悪さもあまりないが、視点が上手く定まらない。くらくらする頭を押さえ、芽夢は背中の手が上下するのに合わせて深呼吸をした。煙草の煙が入って余計に頭が痛くなって後悔。


「ちょっと、外の空気吸ってきます」
「着いて行こうか?」
「だ、いじょぶです。すぐ前に居るんで。越知さん、そんな暴れてると踏みますよ」
「えー!芽夢の鬼畜ー!」
「はいはい、越知はこっちおいで」


絡み酒代表の越智を白井に預けて、芽夢は席を立った。心配するサークル仲間に軽く笑って、その輪から出た。最後に、すれ違った幸村とは視線が合わないように。
がらり、と木造の引き戸を開けるとぬるい風が頬を打った。この季節の暖かい風も、アルコールによって火照った身体には涼しいくらいだった。はしたないとは思いつつも、身体のだるさには適わず店先のレンガで作った花壇に腰を下ろした。小さく肩を落として、深く呼吸を繰り返す。こんなに酔ったのは初めてかも知れない。酒の加減を自分で把握していないというのは怖いものだ。とりあえず、恋人と酒を交わすことはこの先しばらくはなさそうだ。


「…っ」


きもち、わる。
俯いて、腕を膝に置いて屈んだ姿勢になる。気持ち悪い。だけど、酒のせいではない。本当は、ずっと感じていた気持ち悪さだ。
なんで、と理不尽な疑問が浮かぶ。なんで、目が合った時に笑ってくれないの。名前を呼んでもくれなかったの。わかってる、自業自得だってことくらい。そんなもの、求める方がどうかしている。
だけど、本当は。気付いた時に「あ、水竿さんだ」って、いつもみたいに柔らかい笑顔で言って欲しかった。仲良いよね、って言われた時に頷いて欲しかった。近くの席に来て欲しかった。好きな煙草がアイシーンだって良いじゃないか、何も変なんかじゃない。そう言いたかった。焼酎を飲むなんて越智に決められた時に、止めてくれるんじゃないかって期待した。ふらふらになって通り過ぎたら、肩を支えてくれるかも知れない、なんて狡いことを思ってわざと余計に気分が悪い振りをした。
そんな期待、全部全部無駄だったけれど。裏切られた。違う。裏切ったのは自分の方だ。
他人、なんだ。今まで避けてばかりではっきりしなかった、その自覚をさせられた。駅で運命みたいな出会い方をしたことも、一緒に水族館に行ったことも、季節外れの海でストールを貸してもらったことも、過去の話をしたことも、人を好きになれないと言った彼を心から応援したいと思ったことも、私を認めてくれたことも、一緒にテニスをしたことも、今でも大切にしまっているアクセサリを貰ったことも、一瞬でも想いが通じたことも。もう、なかったことにされているんだ。そうしたのは、他の誰でもない自分自身なんだ。
また、あの、花が綻ぶような大好きな笑顔を、一番近くで見たいのに。


「幸村、さん…っ」


じわり、視界が滲む。ああ、泣いているんだ。そう気付いたら、もう止まらなかった。ぽたぽたと膝に落ちる水滴はとめどなく流れる。いつもそれを拭ってくれる恋人の手も、今は少しも欲しくなかった。
欲しいのは、幸村さん。あなただけなのに。


「ワンピース、汚れるよ」


こつ、石ころを蹴ったような音と、頭上から降る声。間違いなく自分にかけられた言葉。だけど、顔を上げられなかった。嘘、それか、夢。すぐそこに立つ人を姿を想像して、そんなはずがないと打ち消して、怖くて見れなかった。


「…無視?良い度胸だよね」
「っ、」


スニーカーのつま先が視界に入り込む。喧嘩腰に聞こえる苛立った声に、あの日のように身体が震えた。ああ、夢なんかじゃあ、ない。すぐ、そこにいる。たった今呼んで、求めたばかりの人が。同時に、欲しかった優しい声でなかったことに気持ちが落ちていくのが分かった。


「なんで、幸村さんが来るんですか…」
「…悪かったね。俺が一番出口に近かったからだよ。あの馬鹿みたいに酔ってる人にみんな手間取ってるんだから」


ああ、最悪だ。一カ月振りの会話が、こんなものだなんて。嫌悪を表に出して、苛立ちを声と態度で示す彼は、あの日と変わらず怖かった。「そろそろ出るから、さっさと戻って来いってさ」そう冷たく告げられ、芽夢はくらくらする頭で小さく頷いた。心配する素振りもない。理想の言葉も、期待を抱いた笑顔も、どこにもない。
でも、私は頭がおかしいみたいだから。仕方ないでしょう。そんな冷たい言葉でさえ、聞けて嬉しいと思ってしまったんだ。


「、水竿…さん…?」


漸く顔を上げたら、暗い中でも分かるくらい幸村の表情が崩れた。一歩、こちらに近付いて止まる。戸惑いがちに呼ばれた名前は、求めた声の色によく似ていた。ぼろぼろと流れる涙をそのままに彼を見上げれば、拳が握りしめられて眉間に皺が寄るのが分かった。立ち止まって、ほんの少し上げられた手が降りた。


「そんな辛くなるなら、無理して飲まなければ良いだろ」
「……」
「先に戻るから」
「…っ」


踵を返して、見えなくなる顔。向けられる背中。気がつけば、覚束無い足を無理に動かして後を追っていた。上手く動かない手で、できる限りの力を込めて彼の手を掴んだ。暗い髪が揺れて、振り向いた彼はさっきよりもずっと驚いた顔で、動揺して見開かれる瞳に小さな自分の姿が映った。いきなり走り出したせいで、彼を掴んだところで足がもつれて崩れた。倒れかける身体を彼に支えられて、呼吸が苦しくなった。


「や、だ」
「は…?何言って」
「すき」
「…!」


大きく開かれた目に、息を呑む声に、仕草のすべてに心が揺るがされる。これを、この感情を何と呼んだら良いのか、分からない。最後に彼と会った時に、自分が何と言ったかもう忘れたのか。愛しているのは一人だけだと、確かにそう言った。その気持ちに迷いはなかった。今も、嘘にするつもりはない。なのに、心がいうことをきかない。欲しい。彼が、彼の心が、ただひたすらに欲しくて欲しくて仕方ないんだ。わがままで、欲張りで、恥知らず、醜い、狡い、こんな私嫌いだ。だけど、こんな私を一度でも好きだと言ってくれた彼が恋しい。動揺して揺れる瞳が、私だけを映しているのことが汚い独占欲を駆り立てる。


「っ…馬鹿なこと言うなよ。ちょっと飲みすぎなんじゃないの?」
「ちがう。好き、幸村さんが好きっ…す、き…っ」
「君は、あの人が大事なんだろ」
「知らないっ…そんなの、わかんない…!」
「水竿さ、」
「いか、ないで」


自分が何を口走っているか、良く分からなかった。頭を振って、できる限りの力で手を握って、とにかく彼を引き止めることに必死になっていた。行かないで。勝手に口から出たそれは、間違いなく本心からだった。涙で視界が歪んで彼の顔が見えなくなる。情けなくしゃくりあげた声で、何度も行かないでと縋った。
そっと、黙っていた彼が芽夢の手を掴む。ほんの少し力を込められて離されて、視界が真っ暗に変わったような気がした。拒絶。ああ、駄目なんだ。遠ざけられた手が力なく落ちて、ひたすら彼を見つめていた視線が外れる。俯けば、また水滴が顔から落ちる。あの、嫌悪に満ちた表情で「最低」だと蔑まれるのだろうか。そう思うと、また指先が震えた。

だから、ふと髪に触れた違和感に、ぬくもりを意識出来なかった。
それが頬に触れて初めて、それが彼の手のひらだと分かった。弾かれたように上げた視線は、すぐまた遮られて、代わりに覆い被さるように包まれた熱に息が止まった。両手で顔を掬われて、上から被さる唇に言葉も、涙もさらわれた。
長いようでとても短い間触れていた唇が離れて、今までにないくらい近い距離で顔を覗き込まれた。熱のこもった視線、悩ましげに寄せられた眉、余裕なんてないみたいに浅く繰り返される呼吸に、心も身体もすべて支配されていく気がした。頬を包んだままの手が動いて、指先に涙を掬われる。まるで、もっととせがむように止まっていたものがまた溢れ出してきて、彼は文句も言わずすべて暖かい指先で拭ってくれた。だらりと下ろされていた手で、緩く彼の服を掴む。ほんの少し、苦しそうに笑った顔が愛しい。片方の手が後ろ頭に周り強く引き寄せられる。言葉もないまま、再び合わさった唇の熱に、思考が溶かされていく。包み込むように抱き締められて、全てを奪うように深く重なった唇に、考えることを放棄した。

もう、どうでもよかった。幸村が一番近くにいて、その全てを感じているという事実があれば、もう何もいらないとさえ思えた。
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