U・シンデレラヴィジョン | ナノ



あの日から、芽夢の中で幸村の印象が大きく変わったことは自覚していた。簡単にいえば、彼を意識してしまうようになった。知らず知らずの間に芽吹いてしまった恋心と、同時にそれを潰そうとする罪悪感が共生しているのだ。そんなことはあってはいけない、誰に聞いてもきっと全員がそう言うだろう。忘れてしまうのが一番だ。自分のためにも。それなのに、恋心というのは残酷なものだと思い知らされる。忘れようとするほど、自然にしようと意識する度、気持ちは余計に高まっていくものだと知った。名前を呼ばれる、肩を叩かれる、笑顔を向けられる。今まで当たり前だと思っていたようなほんの些細な出来事でさえ、心を揺さぶるには十分だった。そういえば、こんなふうに自分の恋心をはっきりと自覚したのは、初めてなのかも知れない。
だから余計に、呼ばないでほしい。触れないでほしい。笑いかけないでほしい。その度に、焦げるような熱が思考を支配してしまうのだ。胸の底から沸き上がるような恋人への罪悪感に挟まれて、どうにかなってしまいそうで無性に泣きたくなるのだ。


「水竿!」


怒気を含むその声に、びくりと肩が跳ね上がる。今日何度目かのそれに、血の気が退くのが分かった。震えそうになる手にぐっと力を込めて振り返れば、あの怒声と違わない苛ついた顔をした恋人の姿があった。否、今の彼は恋人ではなく、このサークルのコーチだ。心配そうに見守るチームメイトたちの視線なんてまるで気にもならなくて、芽夢は明らかに怒っている態度の彼がとにかく恐ろしかった。


「これで何度目だ。やる気がないなら帰れ」
「っ、すみません!最後までやらせて下さい!」


冷たい態度の彼を見ることは滅多にない。それだけ、今の自分が不甲斐ないのが分かる。今日だけではない。ここのところ、ずっとこうだ。自分のことで精一杯になって、サークルでも授業でも集中できない。それが周りに迷惑をかけていることも分かっているのに、自分をコントロールできない。今も、頭を下げることで彼の顔を見ないようにと逃げている。
悪いのは、全部自分だ。決められた未来を幸せだと思っていたのに、今になって違うことに現を抜かしている。それが、彼にも両親にもどれだけ失礼なことか、分からないわけがない。それでも、積み上がっていく想いが崩せないでいる。このままで良いわけがないのに、どうしたら忘れられるか分からない。


「…十分休憩にする!水竿、少し話がある」


俯いた芽夢に、先ほどより幾分か落ち着いた声がかかる。チームメイトが散り散りに休憩を取りに行く中、芽夢は黙って彼の背を追った。
グラウンドから少し離れたところまで来て、日高は振り向いて芽夢を見据えた。身長の差のせいか、彼の表情が良く窺えないからか、それをとても怖いと感じた。


「…芽夢、最近元気がないな。何かあったのか?」


けれど、かけられたのは酷く優しい声で、芽夢は弾かれたように顔を上げた。怒られると、思った。情けないプレーしかできない、明らかに気の抜けた姿を貶されるものだとばかり。ああ、けれどそうだ。彼はいつだって、芽夢のプレーを否定したことはなかった。あの学校の人たちみたいに、表の姿だけを見て笑ったり、卑下したりなんて絶対にしない人だ。芽夢はいつも、そんな彼の包み込むような愛情に全部救われてきたのだ。そう感じた瞬間、今までの罪悪感とも違う感情が込み上げてきて、止める間もなく涙が溢れてきた。ぼろぼろと滴が頬を伝う。泣くつもりなんて、全然なかったのに。彼はまたいつものように、両手で一つ残さず掬ってくれる。


「っ、ごめっ…ごめんなさい…っ」
「謝らなくて良い。悩み事があったんだろ?プレーに集中できないくらいの」


どうして、全部分かってしまうのだろう。心の隅まで見透かされているみたいで、少し怖いくらいだ。涙を拭ってくれる指は固くて、とても熱かった。


「俺はコーチとしておまえを叱るけど、何かあった時に聞いてやるのも、俺の役目だと思ってるからな」
「ん、…ありがとう、雅人さん」
「コーチ、だろ」
「…はい」


まるで動物と触れ合うみたいに、乱暴に髪を掻き回される。いつもなら文句を言うはずのその行為も、今は嬉しかった。出会った頃と変わらない愛情を今も感じることが、どれほど幸せなことか分かった気がした。この人と一緒に居たい、この人の歩む道に寄り添いたい。彼には、幸村にはこんな気持ちは抱かない。何を迷っているのだろう。悩む前に最初から、自分が出す答えは一つしかないのに。
このままでは居たくない。自分のために、いつも支えてくれる人のために。それでも、我が儘な心はまだ二人の間で揺らごうとするから。自分で、終止符を打たなければならない。
一度だけ。一度だけこの気持ちを言葉にして、さよならしよう。自分の意志で。私が帰る場所は、最初から決まっているのだから。


「水竿さん、お待たせ」


優しい声が聴覚をくすぐる。振り返れば、ラケットバックを肩に掛けた幸村が立っていた。
心を決めてからの芽夢の行動は早かった。翌日、学校の前で張って登校してくる幸村を捕まえた。偶然以外で彼と会ったのは、それが初めてだった。突然の行動に困惑する幸村に、話があると呼び出した時、柄にもなく震える手を抑えるので精一杯になっていた。今日はサークルがあるから、と困ったような彼に待っていると言えば、驚いたように目を見開いて、そして優しく細めて笑った。そんな些細な仕草に、心がくすぐられる。もったいないな、と思った。こんな、中学生の初恋みたいな感覚は初めてで、もう自分から切り離してしまおうとしている。でも、大丈夫。迷ってなんかない。
テニスサークルが終わって彼が来るまでの間、何て言おうか、どう伝えようか、そんなことばかりが頭を埋め尽くして、けれど何も浮かばなくて。日高雅人には感じたことのないくすぐったいような気持ち。恋、ってこういうことなのかと、そう思ったらどうしようもなく大切なものに思えたりもして、心が暖かかった。短い間だったけれど、ありがとう。なんて、自分の気持ちに呟いたりして。


「幸村さん」


名前を呼べば首を傾げてこちらに向き合う彼は、やっぱり綺麗な人だと思った。中学の頃も、今も彼は女の子の間で人気者で、中学生の自分はその気持ちが良く分からないでいた。今になって、漸く理解できた。綺麗なのは、見た目だけではない。意地悪だけど、優しくて、強くて。そんな漠然としたことしか言えないけれど、その全てが彼の魅力のほんの一部なのだ。昔の自分を好きでいてくれた、今のこの姿も否定しないで受け入れてくれた。言葉にしなかった感謝の気持ちが、こうやって彼を想う心に変わった。いけないことだ、間違っていると分かっていても、自分からその気持ちを否定することなんて出来なかった。だから、一度だけと、そう思った。


「話、あるんだよね?」
「はい。…何も言わなくて良いので、聞いてください」
「聞く、だけ?」
「はい」


迷わず頷く芽夢に、幸村は不思議そうな顔をする。疲れているところを呼び出して、こんなことを言うのは失礼だということは重々承知の上だ。ただ、聞いてもらいたいだけだ。そう思ったら、今までの緊張も不思議と溶けていく。他の誰でもない、彼がそれを知ってくれればそれで、もう十分だ。風に靡いた髪を押さえて、何だか彼の前だから着飾っているみたいだと思って少し笑みがこぼれた。彼はどう思うだろうか。優しい人だから、きっと何を感じても芽夢の言った通りに黙って聞いてくれるのだろう。顔を上げて彼を見据える。こんなに、一秒一秒が長く感じたことはなかった。


「私…幸村さんが、好きです」


まるで漫画みたいな、偽りない言葉。こんなにまっすぐな言葉を、意地っ張りな自分が言えるなんて思わなかった。だけど、それ以外に言葉が浮かばなかったから。一言だけで、全てを伝えたかったから。言い切った達成感に、浅く息を吐く芽夢。正面に立つ幸村は、豆鉄砲でも食らったみたいな顔をしていた。当然の反応だ。これ以上、手間を取らせて彼を混乱させてしまうのは申し訳ない。「…え」と二拍も三拍も置いて漸く声を上げた彼に、芽夢は深く頭を下げた。


「聞いてくれて、ありがとうございます。嫌だったら忘れてください」


それだけ告げて、芽夢は顔を上げた。幸村は未だに状況が理解しきれてしないようで戸惑っていた。また、明日。少し怖かったけれど、そう言って精一杯笑った。急にこんなことを言って、もしかしたら明日から声をかけてくれなくなるかも知れない。それでも、せっかく彼が言ってくれた"友達"はやめたく、ない。そんな気持ちを込めての挨拶だった。すぐに踵を返して、その場から去ろうと足早に踏み出した。


「っ、ちょ、待った!」


なのに、すぐに腕を掴まれて足は止まった。驚いて振り返れば、どこか焦ったような幸村と視線がかち合って、戸惑った。顔を下げれば、彼の手が芽夢の手首をしっかりと掴んでいる。怒らせてしまった、だろうか。ふと不安が過ぎる。急に告白して、挙げ句に逃げ出したのだからそれも無理はない。けれど、彼はもう片方の手も使って、逃がさないとばかりに芽夢の手を強く握った。彼の髪が揺れて、顔が下を向く。けれど、身長が違う芽夢からはその表情が、薄く色づいた頬がはっきりと見えてしまった。


「…今の、本当?」
「え…」
「冗談とか、気まぐれじゃないよね」
「幸村、さん」
「分かってるよ、君はそんな子じゃないし、でも…っだから、」


この人は、何を言っているのだろう。ただただ、疑問に思った。赤い頬に、少し眉を潜めた悩ましい表情に、また心がくすぐられる。けれど、駄目だと思った。今すぐにこの場から逃げ出したい。何度も何度も遠くに感じていた警報が、すぐ近くでがんがんと響くような。なのに足が動かない。彼の両手が振り払えない。がちがちに固まってしまった身体。そっと、幸村が顔を上げた。癖のある髪に隠れていた色づいた表情が、熱のある瞳が露わになる。形の良い唇が薄く開かれて僅かな呼吸の音もはっきり聞こえるくらい、芽夢の五感はおかしいと思うくらいに研ぎ澄まされて、正面の彼のこと以外、もう考えられなくなっていた。


「水竿さん、好き」


初めて見る、追い詰められたような、余裕のない顔の幸村に、発せられた言葉の意味に、芽夢はとうとう息をするのを忘れた。
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