U・シンデレラヴィジョン | ナノ



芽夢ー、と聞き慣れた声に返事を返す。洗濯機の上に広げられた化粧品をポーチに詰め込み、鞄に投げ入れた。たまにはカチューシャを使って前髪を全部上げてみる。今日の格好に似合わないアラレちゃん眼鏡はお留守番だ。鞄を引っ付かんでリビングに出れば、エプロンをした母親が天気予報を眺めていた。


「なに?」
「今日、午後から雨降るって。折り畳み持って行きなさい」
「はあい」


テーブルに置いたままの紅茶を飲み干しキッチンの流しに置く。ちらりと横目でテレビを見れば、いつも家を出る時間になっていた。そろそろ行こうと玄関に向かう芽夢に、「ああそれと」と思い出したように声がかかり振り向く。見れば、母親は困ったように笑いながらこちらを向いていた。


「一昨日、帰って来なかったけど雅人さんのところ?」
「ん、メールしなかったっけ」
「泊まるとは聞かなかったわよ。あなたたちのことはお母さんもあまり厳しく言うつもりないから、連絡だけはちゃんとしなさい」
「うん、ごめん。いってきます」


玄関でミュールに足を突っ込みながら、母親の言葉に苦笑。何やかんやと言いながら、あの人の方が雅人に関しては甘いのだ。最初に付き合うことになったと言った時は、父親はともかくとして母親からの反発がとんでもなかった。八つも離れた相手というのが、一番の問題だったのだろう。けれど、日本に帰国して何度か話すうちに、自然と打ち解け今では家族公認の仲だ。もともと、献身的に芽夢のリハビリを支えてくれていた彼に対し、悪い印象は抱いていなかった。ただ少し年齢の差が気にかかっていたに過ぎないのだ。現に、今となっては母親は雅人に対して絶対的な信頼をおいている。礼儀正しくて、社会的にも熱心で、顔立ちも良くて、何より病気で自暴自棄になっていた娘の心を救った人だ。そんな彼のことを、良く思わない方がどうかしている。母親の中では面白いことに、娘とその恋人はもう大学卒業後には籍を入れるものだと思っているらしい。おそらく、交際の説得の際に彼が将来のこともしっかり見据えて、なんて言ったことが原因だろう。結婚、なんてさっぱり想像がつかないけれど、否定しようという気には全くならない。自分も知らないうちに、そうなる未来が何となく想像できてしまうようになっていたのだ。というか、娘が若くして嫁に行くことに抵抗はないのだろうかあの両親は。まあ、あと四年は先の話だ。鞄からウォークマンを引っ張り出して、思考を打ち切った。

満員電車、というのはいつまでも慣れないものだ。特に夏に近付くと車内は冷房がガンガンにかかっているせいか、気分が悪い上に体調まで崩しやすくなる。この季節の登下校が、一番憂鬱なのだ。特に地元駅から乗り換えた後、この間は最早地獄である。今日もそんな地獄に、音楽で気を紛らわしながら乗り込むのだ。ホームで電車を待つ間、聞き慣れたアナウンスが入ると皆顔を上げる。まもなく電車が参ります、放送通り、レールの向こうからやってくる電車。と、不意に肩にとんとん、と何かが触れた。


「へ、…いたっ」


ぺちん、と額を叩かれた。振り向いた途端にどんな仕打ちだ。額を押さえながら顔を上げる。芽夢のすぐ後ろに立っていたのは、楽しそうににこにこと笑う先輩だった。


「幸村さん…痛いです」
「おでこ出してるから、そういう振りなのかと。おはよう」
「…おはようございます」


何でこんなに楽しそうに嫌がらせをするのだろう、とは聞かないことにしよう。そういえば、彼もこの電車を使っていたのだった。初めて大学で会った日以来なかなか見かけないものだから、すっかり忘れていた。やってきた満員電車に、二人して乗り込む。今日は雨降るらしいから電車なんだ、と聞いてもいない説明をする幸村に頷く。芽夢が尋ねようとしていることが分かったのだろうか。しかし、いつもは一人の満員電車も、誰か知り合いがいるだけで随分気が楽になる。今日はついてるかも、なんて考えた矢先のことだった。最初は、人が多いからだと思っていた。けれど、徐々に這い上がってくる違和感に無意識に眉を顰める。顔は見えないが、明らかに男の手が芽夢の腰を撫で回していた。隣に立つ幸村に悟られないよう、表情を隠しながらその手を振り払う。が、そんな些細な抵抗なんて障害にもならないというように再び太ももを触られ、ぞわりと鳥肌が立つのを感じた。痴漢に遭ったのは初めてではないし、叫ぶなり蹴るなりのアクションを起こすことも考えた。しかし、今隣には幸村が居る。ここで騒ぎを起こせば彼にまで迷惑がかかってしまうことを考えると、どうしても行動に出せなかった。あと十分、十分だけ我慢すれば解放される。無心になることを決意した。次の駅について電車が停止する。まだ尻や脚にまとわりつく感触に嫌悪感を抱きながら、下車する人混みを避けるように身体を傾けた。


「水竿さん、こっち」
「、わっ」


ぐい、と急に手を引かれ、傾けた身体は倒れるように前のめりになる。転びそうになるのを幸村の腕に誘導され、あっという間に壁際に移動させられた。見れば、彼のもう片方の手は混雑の中で誰かの腕をしっかりと掴んでいた。開いたドアから人が雪崩のように下車していく。すると、幸村はその人の波に腕を掴んだ相手を思い切り放り込んだ。あ、と芽夢が声を上げた時には、雪崩に呑まれて電車から降りていくサラリーマンの背中はもうホーム側に渡っていた。サラリーマンの抵抗も虚しく、電車は何事もなかったかのように扉を閉めて再び走り出した。


「ゆ、きむらさ」
「隣に男がいるっていうのに良い度胸だよね」


あ、やっぱり気付いていたのか。口調は普段と変わらないが、何だか苛々しているようにも見える。やはり男のプライド、というやつだろうか。どこの誰かも知らないサラリーマンに向いていた膨れっ面が、今度は芽夢に向かい合った。そんな子供みたいな表情も様になるのだから、顔が整っている人は凄いと思う。


「水竿さんも、抵抗するなりしないと」
「一応してたんですけど…大声出したら幸村さんに迷惑じゃないですか」
「馬鹿、俺のことなんか気にしてる場合じゃ…うわっ…!」


ああ、長い説教になるのだろうか。そう思った矢先、がたんと電車が大きく揺れた。満員電車には良くあることだが、車体が傾いたせいで人混みが一気に片側に寄ってくる。真正面に立っていた幸村が突然近づいてきて、がつんと痛々しい音を立てて芽夢の顔の両側に肘をついて止まった。思わず小さく悲鳴を上げてしまった芽夢に、幸村が苦笑を浮かべる。


「いった…、大丈夫?俺、蹴ってない?」
「は、はい…」


不可抗力だが、覆い被さるように幸村が人混みとの壁になってくれたおかげで芽夢は何ともなかった。しかし、問題は怪我ではなくこの異様に近い距離だろう。身長差があるので顔と顔はそうでもないが、身体はほとんどぴったりくっ付いているくらいだ。幸村は腕に力を入れて距離を置こうとするが、背中にかかっている負荷が大きすぎるのか苦い表情を浮かべるばかりでスペースは一向に広がらない。小刻みに震える腕を見て、何もしていないのに悪いことをしているような気分になる。自分がこんな窮屈な空間で苦しいと感じないのは、彼が身体を張って壁際に空間を作ってくれているからに他ならないのだ。


「幸村さん、寄りかかっても良いですよ…?」
「駄目。君はもっと女の子だっていう自覚をした方が良いよ。誰にでも甘いんだから」
「だ、誰にでもじゃないですよ…幸村さんだったら別に気にしませんから」


だから、と言葉を続ければ、ぽかんと口を開けて黙る幸村に、芽夢も自然と言葉を失う。次第に、その驚いたような表情はくしゃりと崩れ、彼は芽夢の見たことのない顔で笑った。照れているのか、頬が少し色づいているようにも見えた。物珍しさにその表情をまじまじと見ていたら、こつんと頭に幸村の顎が乗って顔が見えなくなった。


「でも、駄目。水竿さんは大人しくしててよ」
「…は、い」


優しげな声がすぐそばでする。顎を乗せられて、彼のふわふわの髪が近くで揺れてどきりと心臓が高鳴った気がした。知らない表情、知らない距離、まるで彼ではない誰かといるようだと感じた。今の今まで平気だった、とにかく彼の負担が減るならとそれしか考えていなかった。なのに、実際こうして近くに感じて、困惑している自分に気付いた。呼吸もすぐ近くで感じる、視線を少しずらせば彼の腕が映って、まるで抱きしめられているみたいに錯覚する。彼の表情をきっかけに、一度騒ぎ出した心臓はなかなか落ち着いてくれなくて、芽夢は手のひらを握り締めて強く目を瞑った。次の駅について彼と離れるまでの数分が、今までにないくらい長く感じた。あまりにも余裕がなくて、それがおかしいことだということにさえ、まるで気付かなかったのだ。


「水竿さん?」


優しく呼びかけられて、芽夢は裏返った声で返事をした。駅から学校までの道のりも、もちろん幸村と一緒だった。最近、どこにいても彼と良く会うとは思っていた。少なくとも、それが自然だと感じるくらいの頻度で。ただ、それを自分がどう感じているか、考えたことはなかった。
改めて考えてみれば簡単なことだ。海に連れて行ってもらった時も、テニスに誘われた時も、お気に入りの小物を貰った時も、学校で偶然会った時でさえ、嬉しいと、確かに感じていたではないか、自分は。その意味も、いつまでも理解しきれないほど幼くもない。ただ、もう誰かにそんな気持ちを抱くなんて考えがなかっただけだ。
私は、この人が好きなんだ。幸村精市という人間を、人としても、異性としても強く意識していることを、漸く自覚した。


「なんでもないです、ごめんなさい」


だから、その瞬間に無意識の警告にも気付いた。この人に近付きすぎてはいけない。自分には、将来を共にと決めた人がいる。一時の感情で揺らいではならない。彼を裏切るような気持ちを抱くこと自体、罪でしかないのだ。近寄りすぎて感情が麻痺していただけだ、きっと少し距離を置けばすぐに消える。

恋かもしれない。けれど、まだ愛ではないから。知らないふりをして、消えてくれるのを待つのだ。
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