U・シンデレラヴィジョン | ナノ



その日はひたすら憂鬱だった。否、気分ではなく体調の問題だったが。
まあ、確かに、思い返してみれば一カ月と少しくらいご無沙汰だったかも知れない。週に最低三度も顔を合わせているのにそんなことが今までなかったのも事実。仕事のストレスだとか、コーチをする上での悩みだとか自分の予想の範疇でないことも良く分かっているから多少の事後文句はあっても抵抗はしない、基本的に。ただ、今付き合っている相手以外に男を知らない芽夢にとっては理解し難いものでもあった。男の性欲とは恐ろしいものだ。良い歳をして無駄に若々しい恋人に、明け方まで付き合わされたのは久しぶりだった。じくじくと痛む腰と四肢を労りながら、芽夢はため息をつく。これで向こうは休み、こちらは一限からというのだから解せない。今日は三限までだから終わったらさっさと帰って寝よう、と登校して時間も経たないうちから考えていた。そうやって呆けていたから、廊下の慌ただしさに気づけなかったのかも知れない。


「待たんか馬鹿者がぁあああああ!!」


びくり、肩が跳ね上がる。普通に考えておかしい声量の怒鳴り声にブルーな気分など一瞬で吹き飛んだ。しかし芽夢が顔を上げた瞬間、前方から思い切り突き飛ばされてその正体を確認することはできなかった。どさりと尻から床にひっくり返って、同時に身体の芯から来る激しい痛みに顔を歪ませた。う、と軽いうめき声を上げて顔を上げれば、ぶつかったであろう相手が目の前で慌てた顔をしていた。


「うわっ、わりい!大丈夫かあんた!」
「赤也ぁああああああ!」
「うっわぁあ真田さん…っ!」


すぐに助け起こそうと手を伸ばしてきたが、背後からの怒号に今度はその青年が飛び上がっていた。くりくりとした黒髪の彼は、あろうことか尻餅をついたままの芽夢の背後に周り、隠れるように膝立ちになった。廊下の曲がり角から、けたたましい足音と共に姿を現した声の主に、彼はひええっと悲鳴を上げた。


「さ、真田さん…?」
「…水竿…?一体なにを…、っまさか!赤也貴様、他人にまで迷惑をかけるなどと!たるんどるぞ!」


現れた人には、ものすごく見覚えがあった。いつか、テニスサークルを覗いた時に遭遇した真田弦一郎だ。というか彼が、朝っぱらからどうしてこんなに怒っているのかが分からないし、自分の背中に隠れる彼が何故追われているのかもさっぱりだ。あれ、ていうか、この人が噂の赤也?いや、しかし彼は大学は立海ではなかったはずだ。けれどテニスサークルの真田が、確かに赤也と叫んでいたのだからそれが彼のことなのは間違いない。というか何故自分は真田と赤也の板挟みに遭っているのだろう。


「何の騒ぎだい?」


混乱と困惑の中、割り込んできた静かな声に三人して固まる。今にも赤也につかみかかりそうな勢いだった真田も、一瞬にして大人しくなり声の方へ視線を向けた。芽夢もゆっくり振り向いて、少し離れたところに立つ穏やかな雰囲気で微笑む彼にあっと声を上げた。


「幸村ぶちょ…幸村さん!」
「赤也…どうしてここに居るんだい?それと、さっきからおまえが盾にしてる人、俺の友人なんだよね」
「え!?すすすんませんっす!」


途端に、赤也は飛び退くように芽夢から離れる。代わりに幸村が近くに寄ってきて、尻餅をついている芽夢に合わせるように膝を曲げた。「おはようございます、幸村さん」「おはよう。はい」軽い挨拶と一緒に差し出された手を、遠慮なく掴む。ぐっと腕を引かれ立ち上がるが、その時にすっかり忘れていた腰の痛みが鈍く響き顔をしかめた。


「い、っ…」
「…大丈夫?どこか痛めた?」
「マジっすか!?うわああ本当にすんません!!」
「あ…身体痛いのは元からだから、えっと…赤也君、のせいじゃないよ、大丈夫」


片手を振って笑えば、赤也は安心したように息を吐いた。
どうやら、彼はわざわざ学校をサボってここに来たらしい。かつての仲間が懐かしくなって、とにかく三強に会いたくて仕方なかったと必死に訴えていた。三強が何のことかさっぱり分からなかった芽夢に、幸村が耳打ち気味に説明してくれた。幸村、真田、柳の三人はかつてテニス部で突出した強さを誇り、三強とまで言われていたとかなんとか。ちなみに、学校を休んだという時点で真田は再び怒り心頭だった。幸村がいなければ問答無用で雷が落ちていただろう。


「赤也、俺たちとテニスがしたいなら、休みの日にでも連絡を入れてくれれば時間は作るよ」
「本当っすか!」
「ああ、だから今は大人しく弦一郎の鉄拳でも受けときなよ。俺は迷惑をかけたおまえの代わりに水竿さんを送り届けてくるから」


天国から地獄。正にそんなふうに表情を変えた赤也の肩に、真田の手が無遠慮に乗った。途端に泣きそうな顔になりながらこちらを、正しくは幸村を見る赤也が、何だか可哀想になってくる。思わず私なら一人で大丈夫、と言おうとすれば幸村に腕を引かれて、見上げると有無を言わせない笑顔を向けられた。赤也の願いはどうやら届かなかったらしい、ご愁傷様。芽夢が大人しく着いていくと、満足したのか幸村は腕を離した。罪悪感に負けそうになってしまうから、後ろは振り向けなかった。


「身体、大丈夫?」
「あ、はい」
「筋肉痛…なわけないよね。怪我してるわけでもなさそうだし。何かあった?」
「…いや、えっと」


しまった。ぼうっとしていて普通に返事をしてしまった。珍しく筋肉痛になった、とでも言っておけば良かったものを。心配、してくれているのだろう。顔を覗き込んでくる幸村に、だらだらと冷や汗が浮かんでくる気がした。どうしたものか。まさか心配してくれている人に対して馬鹿正直に一晩中恋人と愛し合っていましたなんて言えるはずもなく、しかし急に黙り込む芽夢を不思議に思った幸村は首を傾げるばかり。


「…あ」
「え?」
「ごめん、良い、言わないで」


ふい、と彼の綺麗な顔が背けられる。急に素っ気なくなる口調に、さあっと血の気が退くのを感じた。ばれた、この反応は間違いなくばれた。うわああと叫んで頭を抱えたくなる気持ちを必死に抑える。いや、でも、どうして分かった。それらしいことなんて何も言っていないのに。一人で顔を蒼白させる芽夢に、幸村が控えめに、言いにくそうにそっと声をかける。


「あのさ…あんまりにも可哀想だから教えるけどさ」
「は、はい…」
「……見えてる、首のとこ」
「え…は、えっ!?」


言われて、理解した瞬間に両手で服の襟を掴んだ。見えてる、と言われて思い浮かぶのは一つ。昨晩、恋人が執拗に残していた所有の印。それを隠すために襟のあるシャツを着てきたのに。え、え、と混乱する芽夢に幸村が深くため息を吐いた。気だるそうに芽夢の正面に立って、手を払うと襟を整えながらシャツのボタンを上げる。「はい、もう見えない」と離れた彼に、戸惑いながら礼を返した。


「相手、28だろ」
「え、」
「いい歳して良くやるよ」


心底呆れているのか、彼はこちらを見なかった。というか、今もさっきも全く目を合わせてこなかった。呆れているというより、軽蔑、されてしまったのだろうか。ざわざわと胸騒ぎが過ぎる。いつになく淡白な口調に、態度に不安になってくる。相変わらず歩く距離は変わらないけれど、何だか意図的に壁を作っているような、今までにない感覚。寂しいというか、悔しいというか、ぐちゃぐちゃした感情が頭の中を支配していく。どうして、なのか分からない。


「やめてください」
「え?」
「そんな言い方…やめてください。配慮が足らなくて、すみませんでした」


そうだ、悪いのは自分で、嫌な思いをしたのは彼のはずだ。なのに、こんなふうに怒っているみたいな言い方をするつもりは、なかったのに。俯いた表情は、背の高い彼からは見えないだろう。どうしてこんな気持ちになるのだろう。彼の言い方に少なからず嫌な気持ちになったのは事実で、なのに怒るどころか悲しくなる。泣きたくなるのは、どうしてなのか。下唇を噛みしめても、痛いだけで良いことなんかないのに。
そっと、髪に違和感が触れた。緩く下に引かれて、芽夢は目線を上に上げた。優しい、芽夢の良く知る顔で笑う幸村がいた。


「ごめん。そういうつもりで言ったんじゃないんだ。嫌な思いをさせたね」


くしゃり、寂しそうに表情を歪めて、尚も笑顔を作る彼。あ、その顔は嫌だ。と、素直に感じた。大きな手が、指が髪を梳いて、何度も撫でる。まるで恋人か犬にでもするような触れ方に、心が疼いた。それを誤魔化すように、小さく首を左右に振った。


「ごめんなさい、私も」
「いいよ、大丈夫」
「良くないです。こんな子供っぽくて、幸村さん困らせて、もう」
「本当に、気にすることじゃないよ。そういう君が良くて、俺がちょっかい出してるだけだから」


どうして、こんなに優しいのだろう。同い年の彼は、自分なんかよりずっと大人で、きっと嫌なことも我慢してしまっているに違いない。せっかくこうして気にかけてもらっているのに、迷惑ばかりかける自分が不甲斐なくて、もどかしい。
ほら、行こう。そう言って手招きをする彼に、頷いてついて行く。あの、芽夢の好きな花のような笑顔だった。

大人になりたい。彼に嫌な思いをさせないで良いように、困らせてしまわないように。子供な自分を、狡い本性を見られたくない。綺麗で優しい彼と同じくらい、彼に優しく接したい。もう迷惑をかけなければ、もっと強く大人になれたら、彼と一緒に笑っていても不格好には見られないようになれるかも知れない。
けれど、分からないでいた。どうして、そんな醜い子供じみた感情を、良く見られたいなんていう自尊心を、彼に対して感じるのか。
本当に分からないのだ。分かってはいけないと、本能が無意識に警告していた。
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