U・シンデレラヴィジョン | ナノ



そんなふうに見られたかったわけじゃない。気付いて慰めてほしかったわけでもない。ただ、どうして自分は自分以外の何かではいられないのか。そんなことばかり考えている時点で、他の誰よりも自分自身が今を否定していることは分かっていた。


「芽夢、今日どうしたの?」


そんな呼びかけによって我に返る。顔を上げればすぐ近くにチームメイトの姿があって、ついスティックを落としそうになる。ああ、これで何回目の注意を受けたのだろう。集中力が散漫になっていることは自分でも良く分かっている。その原因が、この間の出来事だということも。けれど、私情でいつまでもふさぎ込んでいるわけにもいかない。せっかくメンバーに選ばれた試合も、失敗とまでいかないまでも十分な結果を残せなかった。こんな半端なプレーをずっと続けるわけにはいかない。ただでさえ、不完全なままなのに。


「すみません、ちょっと走ってきます」
「え?いや、別にそこまでやらなくても…」
「いってきます」


止める声を振り切って、芽夢はスティックをベンチに残してグラウンドを出た。走って忘れられるようなことなら、初めから気にしたりしない。ただの気休めにしかならないけれど、記憶に張り付いたまま消えない彼の言葉が、まだ鮮明に思い出されるのが少しでもなくなるなら。
あれから、一週間経った。今まで面白いくらいあちこちで遭遇していた幸村とは、彼の方が避けているのか一度も会わなかった。相当頭にきていたようだし、きっともう顔を見るのも嫌になったのだろう。昔の芽夢と違う姿を見て、愛想を尽かされてしまったらしい。当然だろう。あの頃輝いていたものを、芽夢は全て落としてきてしまったのだから。光を持たないものは、人の目には触れない。魅力なんて一つもないこんな自分に、誰かをつなぎ止めておく力もない。何となく、彼なら大丈夫なのではと思っていたのだ。人の表面しか見ていないのは、自分も同じだ。予想と違っていた彼に、こうして失望している。そのくせ他人には本当の自分が受け入れられないと嘆くのだから、本当に最低だ。
けれど、目を閉じれば、耳を塞げば浮かぶのだ。過去に浴びせられた中傷、陰口、罵声の数々が。まるでそこに存在することが間違っているのだと言うように、重くのしかかるそれに堪えきれるほど、人間は出来た生き物ではない。「身の程知らず」「昔のプレーなんて見る影もない」「故障品」その全てが、幼い芽夢に向けられた刃だ。
日本に帰ってきてから、化粧をするようになった。暗い本性を隠すために明るくした髪、似合わないヒールの靴。顔を隠したくて帽子や伊達眼鏡をたくさん買い込んで、別人になりたかった。それでも、ラクロスから離れることは出来なくて。今でも宙ぶらりんのまま、細い他人の糸に捕まって生き長らえている。

苦しい。そう不意に感じた。途端に周りの景色がはっきりとして、芽夢は走るペースを落とした。あれ、ともらして腕時計を見れば、走って来ると学校を出てもう三十分近く経っていたことに気付く。そんなに長い間、ペース配分も考えず無意識に走りつづけていたのか。どうりで呼吸が苦しくなるわけだ。そんなに遠くに来るつもりではなかったのに、今から学校に戻るなら電車を使った方が早いくらいのところにまで来てしまった。携帯も置いてきてしまったし、迷惑をかけているかも知れない。帰ろう、と芽夢はくるりと方向転換する。


「いらないよ」


そんな声が頭に響いた。途端、ふわりと身体が浮いたような感覚に捕らわれ、しかし次の瞬間に足元が崩れ落ちる。空白に染まった頭は、衝撃と痛みで覚醒した。膝から崩れるように転んで、身体を強く打ったのは分かった。じくじくと痛む肘を見れば、コンクリートで擦ったのか血が滲んでいる。随分と間抜けな転び方をしてしまった。誰かに見られても恥ずかしい、早く起き上がらなければ。なのに、身体が動かない。否、足に力が入らなかった。


「あ…」


その感覚を、芽夢は良く知っていた。一年以上もその身体を苦しめていた、あの症状だ。頭ではイメージできているのに、筋肉が動いてくれない。どうしよう、どうしよう。ここには彼も、家族も居ないのに。
また、あの声が響く。視界が、頭の中が真っ暗闇に染められていく。「いらないよ」弱い君なんて、いらないよ。そう言っていたのだ。確かに、そう。水竿芽夢なんていらない、と。


「何やってるんだ、馬鹿!」


そんな声に、弾かれたように闇は晴れていった。顔を上げれば、コンクリートばかりだった視界が開ける。目の前にいたその人を、幻覚かと思った。


「幸村さん…?」
「なんだよ!良いから早く立って、車に轢かれでもしたらどうするんだ!」


柔らかい髪を揺らして、あの日と同じ怒ったような顔。怒鳴りつけられて、漸く自分の状態を把握した。そうだ、走りやすいし車が少ないからとガードレールの内側を走っていたのだ。車道で倒れていたら、確かにあまりにも危険だ。しかし、幸村が腕を掴んで起き上がらせようとしても、肝心の脚はまだ感覚が戻らない。地面に座り込んだままの芽夢を、幸村は訝しげに見つめる。やがて、その視線は芽夢の脚へと向いた。


「…脚、動かないの?」
「…っ」
「うん、分かった」


一週間振りの彼は、まだ少し怖かったけれど素直に頷いた。すると、今度は頭上から優しい声が降ってきて、不思議に思って顔を上げたら彼の顔がすぐ近くにあって反射的に肩が跳ねた。その肩を彼の腕に抱かれ、もう片方の手が膝裏に当たる。瞬時に彼のしようとしていることを悟ったが、抵抗する間もなく身体を持ち上げられ小さな悲鳴が上がっただけだった。男性に抱き上げられるのは初めてではないが、父と恋人以外では彼が初めてだった。恥ずかしいし、申し訳ない気持ちでいっぱいで。しかし不意に下げた目線の先、彼の青色のシャツに色濃い染みを見つけて、血の気が引くのを感じた。


「ゆ、きむらさ…っ」
「はい、少しだけ我慢。あんなとこに居たら危ないだろ?」
「じゃなくて、血!血が服に…」
「ああ、良いよ別に」


良くないです!と叫んだら煩いと一喝された。そうだ、そういえば彼は怒っていたのだった。怒っているなら放っておけばいいのに。否、たとえ自分が彼の状況だったとしても、知り合いが車道に倒れ込んでいたら声をかけるのだろう。けれど、変に優しい声をかけられるから、気を緩めてしまう。
それから、すぐ近くのベンチに座らされて、彼はその隣に腰を下ろした。一週間前の、あの日のようだと思った。「見せて」と言うなり腕を取られて、まだ血が乾かない傷口をじっと見られる。ただの擦り傷だから、放っておいても問題はないだろう。それなのに、彼は鞄からペットボトルの水を取り出したかと思うと、その中身を傷口に流した。


「え、や、大丈夫ですっ」
「大丈夫じゃない。とりあえず傷口洗うだけでもしないと」


痛いくらいの正論だった。芽夢もスポーツをする身、怪我をした時の対処法くらいは心得ている。しかし水道の水ならまだしも、明らかにお金をかけているであろうミネラルウォーターを傷口を洗うために惜しみなく流しているのを見るのは、いささか心苦しい。けれど、腕を掴む力は強く抵抗のしようもなく、されるがままだった。結局、ペットボトルの中身はほとんど残らなかった。


「病気、治ったんじゃなかったの?」


そう、静かに告げられたのは、彼のハンカチで濡れた肘を拭いてもらった後だった。突然の核心をつく質問に、芽夢は口を噤んだ。言って、いいものなのか分からない。けれど動けないところを助けてもらって、こうして怪我の手当てまでさせておいて黙ったままというのは、あまりに礼儀がなさすぎる。彼の真剣な眼差しにも、弱いのだ。


「病気、自体はもう完治しています。さっきのあれは…」
「うん」
「あれ、は…たまになるんです。昔を思い出した時とかに、急に同じように身体が動かなくなったり」
「…トラウマ、みたいなもの?」
「わかりません…」


リハビリ生活が終わって、しばらくはこんなことはなかった。またラクロスができるようになって、本当に幸せだと思っていた。
いつからだったか、他人の目に触れるのを恐れるようになったのは。以前のプレーを知っている人間は、復帰した芽夢を見ると揃って同じような顔をした。失望、嘲笑。その二つの視線が、怖くて仕方なかった。そしてある日、治ったはずの症状に襲われた。しかし、医師に見せても問題はないの一言で片付けられ、実際身体には何一つ異常は見られなかった。
それからも、稀に起こるこの症状をどうすることも出来ないまま、ずっと抱えてきている。その間に分かったのは、それは自分に向けられてるあの視線を、言葉を思い出した時に限って起こるということ。


「怖いんです。昔の私と比べられたら、今の私はいらないって言われてしまうから」


みんなが求めているのは、みんなが好きなのは、いつも昔の自分。欠陥を抱えたままの自分なんて必要とされないから、いらないものだから。そう思うと身体が、心が動くことを拒絶するみたいに感じるのだ。「いらないよ」その通りだ。「弱い君なんて」弱い私なんて。


「いらないなんて、言わないよ」


吹き抜けた風に、攫われて聞き逃しそうになった。そう言ったのは誰なのか、隣に居るのは一人なのにそう思ってしまうくらい、芽夢は戸惑っていた。ゆっくり視線を上げて、彼を見る。そっと盗み見るつもりだったのに、まっすぐこちらを見る瞳と視線がかち合って肩が震えた。だけど、もう目が離せない。「ごめん」小さく呟いた言葉。芽夢はその意味が分からずにいた。


「今、君の話を聞いて気付いた。俺も、昔と今の君を比べていたのかも知れない」
「、あ…」
「勝手な期待ばかりして、嫌な思いをさせた。本当に、ごめん」


そんなこと、初めて言われた。みんな、芽夢を笑ったり同情したり、好き勝手言っているのに誰一人として直接芽夢に話しに来た者はいなかった。遠巻きに噂されて、否定されて。だけど今、芽夢は芽夢だから、そのままで良いと、そう言われたような気がした。


「私、自分が嫌いです」
「うん」
「私を認められない、自分自身が一番、嫌い」
「うん」
「今も、昔の自分が怖くて仕方ないんです」


本当は、誰より今を受け入れられていないのは自分自身だった。みんなが選ぶのは過去の私だから、誰も今の私を見てくれないから。そうやってふさぎ込んで、誰かのせいにしてきた。自分を認めてあげられなくて、誰かに受け入れてもらいたいなんて。そんなの、失望されたって仕方ない。


「水竿さん」
「…は、い」
「帰ろう」
「え…?」


腕を引かれて、芽夢はふらつきながらもベンチから立ち上がった。いつの間にか動くようになった足で、しっかりと地面に立つ。帰ろう、と言った彼の意図が分からない。帰る場所は、きっと学校なのだろうけれど。足を止めようにも、腕をぐいぐいと引く幸村は、一週間前とは違いとても柔らかい表情をしていて声がかけられなかった。少し、前を行く幸村は芽夢を振り返らないまま薄く唇を開く。


「君が思っていること、彼氏に話したことないだろ」
「え…」
「言ってみなよ。いらない、なんて絶対に言わないから」


泣きそうになった。実際に泣いていたのかも知れない。ぼんやりと視界が滲んで、彼の背中が歪む。ああ、もう、本当に不思議な人だ。どうしてこんなに的確に、私が欲しい言葉をくれるのだろう。穴ぼこだらけの心を誰かに掬ってほしかった。大好きで大切でずっと一緒にいてくれる彼に助けてほしかった。入院生活の私を救ってくれたあの人なら、もう一回助けてくれるはずだと思って。だけど、彼は大人で、私はまだまだ子供のままだから、言わないと伝わらないことなんて山ほどある。昔の自分を怖がる気持ち、昔を知っている人でないと分かるはずもないのに。隠れたままの私を見つけてくれたのは、意外にも助けを求めていた人ではなく。だけど、嬉しいと思ってしまった。


「幸村さん、大丈夫です」
「…なにが?」
「幸村さんが聞いてくれたから、大丈夫なんです」


比べられるのは、やっぱり怖い。そのたびに、愛されていた過去に心が負けてしまうから。弱くなってしまった自分も、光を浴びていた過去の自分も嫌いになってしまうから。私が私を嫌いだから、誰かに愛してもらうことが怖くなる。本当は、自分を好きでいたい。それから、大好きな人に大好きだと思ってほしい。


「泣いてるくせに」


そっと、頭にぬくもりが触れた。優しく撫でられるのが心地良くて、目を閉じれば溜まっていた涙が頬に零れた。
泣いてるくせに。それでも、心は清々しく晴れ渡っていくようだった。思っていることを話しただけで、こんなに心が軽くなるなんて思わなかった。ずっと、私を過去に縛り付けていたのは自分自身だったと、初めて気付けた。


「君といると、妹がもう一人できたみたいだな」
「妹…?」
「ああ、言ってなかったっけ。妹、高三なんだけどさ、君よりずっとしっかりしてるんだよね」


慰めてくれたのかと思えば毒を吐く。そんな美形男子が自慢する妹さんが少し気になる話だった。しかしなるほど、妹がいるからこその面倒見の良さというわけか。こんな馬鹿で天の邪鬼な私。一度は怒っていたのに、こうやって励ましてくれる彼は、やっぱりお兄さんという雰囲気だった。同い年なのに情けないと思う反面、こんなお兄さんがいて羨ましい、とも思う。自分は一人娘だから、余計に兄弟というものに憧れたりもする。


「おにーちゃん」
「嫌だよ、こんな不器用で素直じゃない妹」
「…ですよね」
「水竿さんは水竿さん。俺の友達、だろ?」


予想外の言葉に、まばたき。友達。そんなふうに思われていたとは考えもしなかった。思えば、今まで自分たちを表現する言葉をしっかり認識していなかった。昔のクラスメイトだが学年は違うし、しかし先輩後輩という感じでもない。友達、と彼は何気なく言ったようだが、改めて言われると何だかむず痒いような違和感。嫌というわけでは、全くないけれど。


「まだ練習の途中なんだろ?コーチ、心配してるんじゃないの」
「あああそうでした!怒られる!」
「ははっ、気を付けて帰りなよ」
「はい、ありがとうございます幸村さん!」


大きく手を振って、芽夢は走り出した。一歩、駆け出した足が思ったよりもずっと軽くて驚く。肩の荷が下りるというのは、もしかしたらこういう感覚のことを言うのだろうか。
今まで悩んでいたものは、そう簡単には消えないけれど。それでも自分の中で、気持ちが少しずつ動いているのを感じた。

三十分後、無事学校のグラウンドに戻った芽夢にチームメイトの鉄拳と最愛の恋人からの説教が下された。さらに後日それを話したところ、幸村に爆笑されたのだった。世知辛い世の中だ。
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