ロストエンドスタート | ナノ


青春学園中等部。芽夢がそこに入学した理由は二つ。通学時間が比較的短いこと、そしてスポーツに力を入れていることだ。
女子ラクロス、種目自体の知名度は悪くはないものの、メジャーとは言い難いスポーツ。よほど大きな中学校でもないと、部活どころか用具すら置いていないというのも珍しくなかった。芽夢が暮らす街の周辺で、ラクロスを思う存分にできる学校は青春学園だけだったのだ。私立というプレッシャーは、ラクロスで全て返す意気込みで入学した。女子ラクロス部で、持ち前のフットワークを駆使してコーチの信頼を得るまで、そうかからなかった。
運動部が特別ハードになる季節、夏のある日のこと、芽夢は一人の少年と出会った。


「ふざけんなよテメェ、一年の癖して」


そんな荒々しい怒鳴り声が聞こえたのは、普段通り練習が終わって、さあ帰ろうとした時だった。夏休みの夕方、いつもなら比較的静かなはずの廊下で、そんなあからさまな揉め事に遭遇してしまったのだ。怒鳴り声からして、上級生が一年生に突っかかっているということはすぐに分かった。しかし、よく聞けばその声は一人ではなく、何人か仲間を連れているようだった。後輩一人に対し多勢とは。芽夢は興味とほんの少しの正義感から声のする廊下の曲がり角を覗き込んだ。本当に理不尽な苛めならすぐさま職員室に駆け込んで告げ口しようという目論見だ。
しかし、芽夢はその先を見て絶句した。背の高い男子生徒三人が、頭一つは違う小柄な少年を囲っていたのだ。広い肩幅から覗く線の細い身体や髪、それに何よりその整った顔。女かと思った。しかし良く見れば彼は学ランを着ている、男子生徒だ。「一年坊主がテニス部にも女にも付け入りやがって、先輩の女に手出して調子乗ってんじゃねえぞ!ああ!?」囲まれている彼に上級生が汚い言葉を吐きかける。なんだそれはただの逆恨みじゃあないか。芽夢の意識に怒りの感情が生まれた。相手は酷く興奮している、今から職員室に助けを求めていたら間に合わないかも知れない。囲まれている少年はといえば、抵抗も反論もなく黙ったまま。筋違いに責め立てる罵倒を繰り返しているうちに、更にヒートアップしたらしい男子生徒の一人が、とうとう彼の胸倉に手を伸ばした。瞬間、ブチリと嫌な音を意識のどこかで捉えた。
ヒュンッ。鋭い音が廊下を突き抜ける。続けて、壁が石か何かが勢い良く当たったような音を立てた。ぽてん、ころころ。自分たちの間を駆け抜けたそれが床に落ちて転がっている様子を、男子生徒は目を瞬かせながら凝視した。


「先輩、苛めは犯罪ですよ」
「っ、誰だ!」


恐ろしい形相の男の視線が一斉にこちらに向く。ころころと転がるボールは、男の足元まで戻ってきている。芽夢は振り抜いたスティックを軽く振って、肩にかけた。


「ラクロス部一年の水竿です」
「…ちっ。一年が何の用だよ、痛い目見たくねえならさっさと帰っ…」


ヒュンッ、ドゴッ。一瞬のステップと振り抜きから、飛び出したボールは男の足元に叩きつけられ股の間を強くバウンドした。一瞬、時が止まったかのように固まった男は、次第に反抗的な態度に腹を立てたのか鬼の形相で芽夢を睨みつけた。


「早くその子を離して下さい」
「何だと、テメェ…!」
「離さないなら、これ押しちゃいますよ」


新しい球の乗ったスティックのヘッドで指したもの、それは校内にいくつも設置されている非常ベルだ。芽夢の意を察した上級生たちは見るからにたじろいだ。こんな場所で非常ベルを押せば、慌てて教師が駆けつけて来るだろう。紛れもない苛めの決定的瞬間を、見せつけることになる。生意気な後輩に危害を加えるために、自分たちの学校生活を棒に振るほど青学の生徒は馬鹿ではない。明らかに分が悪いことを察し、三人組は嫌みな舌打ちを残して走り去って行ってしまった。その慌ただしい足音も聞こえなくなってから、芽夢は深くため息をついてスティックを下げた。すると、今まで俯いていた少年がゆっくりと顔を上げて、芽夢を見据えた。若干、戸惑わずにはいられなかった。遠目からでも分かったが、障害物がなくなると美人なのが更にはっきりと分かる。切れ長の瞳は鋭く、けれど自分と同じくまだ幼さを持ち合わせている、そんな雰囲気の男の子だった。彼はしばし芽夢を見つめると、ふわりと表情を崩して柔らかく笑った。


「ありがとう、助かったよ」
「あ…いえ、どういたしまして」
「でも、君もあの先輩たちに睨まれちゃったかもしれないよ」


何だか警戒心の薄い人だなあ。言葉を交わした最初の感想だった。彼の心配を大丈夫だと軽く流すものの、初対面らしさのない雰囲気に戸惑いを隠せない。けれど馴れ馴れしい、とも違う不思議な感覚だった。


「それを言うなら君も、また狙われるかも…」
「ああ、僕は大丈夫。ほら」
「?」


唐突に差し出された、二つ折りの携帯。十中八九、彼の所持品だろうが一体何の理由があったのだろうか。しかし、その疑問もすぐに解けた。彼が携帯を操作すると、スピーカーから雑音に混ざって、先ほどの三人の罵倒の声が流れ出した。なるほど、黙っていたのはそういうわけか。確かにこれは十分な証拠になる。


「あの人たちの顔は覚えたし、明日は朝イチで職員室かな」
「停学一週間ってとこかな」
「僕は二週間に二百円」
「えっ、お金かけるの?」
「かけてもいいよ?」
「……遠慮しとく」


どうしてだろうか。勝てる気がしない。まだ出会って間もない、名前も知らない男の子とこんな意味不明な会話をすることになるとは。


「でも、これって殴られるの前提ってことでしょ」
「どちらにしろ、力じゃ勝てないしね」
「…良かった」
「え?」


怪我しなくて、とは言えず曖昧に笑って返した。なんというか、確かに初対面の無関係な男の子なのだが、やはり人が怪我をするのは見たくない。特に彼みたいな美人さんの顔に傷ができたら、親御さんも大層悲しむことだろう。守れて良かった、なんて正義主義ではないけれど、このタイミングで廊下を通りかかって本当に良かった。


「ねえ、ラクロス部一年の水竿さん」
「うん?」
「下の名前はなんていうの?」
「芽夢だよ」
「水竿芽夢さん、か…ありがとう。僕は不二周助、テニス部なんだ。はい、ボール返すよ」


男の子、もとい不二周助は、にこりと微笑みながら芽夢にボールを差し出した。ああ、ありがとう、と普通に受け取りそうになって、芽夢は首を傾げた。彼、一体いつの間に芽夢が放ったボールを拾ったのか。床にしゃがむ素振りなんてなかったように思えたが。すると、不二は芽夢の疑問に気がついたようで、あぁと声を上げた。


「君の二回目の球、あっちの壁に当たって戻ってきたから」
「…私の球、素手で取っちゃったの?」
「うん。すごいね、二回もバウンドしてるのにほとんど球威が落ちてなかった」


先輩に胸倉を掴まれた状態のまま、芽夢の渾身の一球を取っただけでなく観察までしていたとは。なんて奴だ、と心の中で感心しながら今度こそボールを受け取った。そういえば、今年のテニス部はとんでもないのが何人も入ったと、ラクロス部の先輩がぼやいていたような気がする。彼もその一人なのかもしれない。


「じゃあ、先輩たち停学にできたら知らせるよ」
「あ、うん…………って、は?」
「また今度、改めてお礼させてほしいな」
「いやいや、私そんな大層なことしてないし」
「正直、少し焦ってたんだ。やっぱり痛い思いはしたくないからね」
「そ、そりゃまあ…ね」
「途中からは水竿さんの球に釘付けだったけど」
「はあ…それはどうも…」


だんだん論点がずれていっているような気がするのは、ただの思い過ごしだろうか。この人、本当は一人でも全然余裕だったのではないだろうか。何しろ神経が図太そうだ。遠くから見た時はあんなに繊細な雰囲気だったくせに。人は見た目では分からないものだ。


「あ、この話、あんまり人には話さないでほしいんだ。部活に知れたら迷惑になるし、さすがに女の子に助けられたなんて格好悪いしね」
「うん。私も苛めの噂なんて流したくないし」


男のプライド、とは違う気もするが、とりあえずそういった何かなのだろう。顔からは非常に似合わないよ、不二くん。
そして次の日、彼は教えてもいない芽夢のクラスに約束通り現れた。


――――


「―と、いうわけ。分かった?」
「いや…っていうか、喋っちゃっていいの!?不二が駄目って言ってたじゃんよ!」
「菊丸が聞いてきたんじゃない。水竿と不二っていつ知り合ったんだにゃー?って」
「そんな理由で…」
「三年前だよ?時効だよもう。それに、菊丸が喋らなければ良いだけじゃん」
「う…」


いかにも自信がないといった感じの菊丸。まあ、口を滑らせる機会なんてそうないだろうから、きっと大丈夫。きっと。
三年前。思えば、あの頃が一番楽しかったのだろう。誰かと共有できない思い出なんて、呟いても無駄だろうが。
あーでも、不二が聞いたら怒るだろうなー。それ以前に話しかけられることはないから関係ないけれど。
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