ロストエンドスタート | ナノ


思えば、その日を境に私の高校生活においての日常は歪み始めたのだ。


「お願い水竿!国語辞典貸してっ!」
「……」


またか、と芽夢は目を細めてそちらを見た。両手をぴったりと合わせて頭を下げているその男の旋毛が良く見える。今週に入って二度目、先週も一度あったこの話。どこまで抜けているのかは知らないが彼、菊丸英二は忘れ物が非常に多い。昔から。


「…国語辞典だけ?」
「……あと、予備があったら消しゴムと赤ペンも…」
「菊丸…」
「今日だけ!このとーり!」


一体何回目の今日だけ、なんだか。芽夢は深いため息をひとつ、菊丸にもよく聞こえるよう深々と吐いた。ロッカーから国語辞典、筆入れから赤ペンを取り出して菊丸に押し付けた。残念ながら消しゴムはもうかなりすり減った一個しかなかったので我慢してもらうしかない。


「サンキュー水竿!本当助かった!返すの昼休みでいい?」
「駄目ー。三限で辞典使うからダッシュで返してね」
「うし、りょーかい!」


国語辞典を抱えて教室を飛び出していく菊丸を見送って、ぴしゃりとドアが閉まってから芽夢は浅く息を吐いた。
自販機の巡り合わせにより、偶然にも再会を果たした芽夢と菊丸。あの日から、菊丸はそれまで置いていた距離なんてまるで最初からなかったかのように度々芽夢のクラスに顔を出すようになった。その多くは、今のように辞典や教科書を借りたり、たまにお礼といって芽夢の好きな飲むヨーグルトを押し付けに来たりもする。芽夢としては、多少の違和感は否めなくとも決して嫌ではなかった。菊丸も、自分からちょっかいを出しに来ているのだから嫌ということはまずないだろう。嫌だと思っているのは、周りからの視線、それだけだ。
いつの間に菊丸君を色目にかけたの?友人に突然そう言われた時は、飲むヨーグルトを吹き出しかけた。菊丸が芽夢のクラスに来るようになって五日後のことだ。なるほど、周りにはそう見えてしまうのか、と初めて自覚したのもその時だった。
とにかく不快なものといえば、周囲の人間とテニス部ファンの女生徒からの視線と噂話だけだった。さすがイケメンは規模が違う。中学からの友人だといちいち説明するのももう面倒くささが勝っているくらいだ。どうしたものか。あー、ヨーグルト飲みたいなあ。


――――


「たっだいまあ!」
「おかえり、英二。収穫はあったみたいだね」


チャイムが鳴る二分前。教室に飛び入って来た菊丸を出迎えたのは不二だった。「もーバッチリ!」とご機嫌の菊丸は目当ての辞典を小脇に挟んでいる。ついでに借りたペンもしっかり持っている。あとは不二が消しゴムを二個持っていることを願うだけだ。自分の机に辞典とペンを乗せて、不二を振り返る。


「不二、消しゴム余ってない?」
「消しゴム?…少し消えにくいけど、確か……ああ、あった」


はい、と消しゴムを手渡され、菊丸はぱっと笑顔を咲かせた。


「さっすが不二!水竿とは違うねー!」
「水竿?」
「…あ……」


ことの重大さに気付いたのは、言葉を放った後だった。むしろ、不二に聞き返されるまで完全に意識すらしていなかった。
水竿芽夢と再会したことは、実は不二にもう話してある。水竿と話したよ。そう短く告げた言葉への返事は、表情一つ変えないままの「そう」の一言だった。それからも、菊丸が芽夢のクラスへ遊びに行っても不二はまるで興味がないみたいな態度を取るようになった。菊丸は他人の心情の変化をすぐに察せるような性格ではない。けれど、人の表情の変化を見つけるのは得意だった。再会の日の話をした時は、少なからず表情に表れていた。そして今、菊丸の机に置かれた辞典の白枠の「水竿芽夢」という文字を目にした時も。彼はほんの少し苦い顔をするのだ。


「英二」
「えっ、は、ほいっ」
「僕に気を遣うことなんてないよ」


一瞬後には、もういつもの不二の顔。言葉にも表情にも迷いは感じられず、逆に菊丸が戸惑ってしまう。気を、遣ったつもりなんてなかったのに。不二にはそう見えてしまったのだろうか。
そもそも、気を遣うなってなんだよ。そうじゃなくても、気にはなるに決まってるだろ分かれよそれくらいおまえなら察せるだろう。俺は多分間違いなく絶対に被害者なんだからな。いきなり仲の良い友達同士が喧嘩別れして、本当いいとばっちりだよ。


(でも、それに構ってられないようなことがあったんだろうなぁ)


そう思ってしまうのが、菊丸が二人に怒れない理由だった。芽夢は不二の話を聞きたがらないし、不二は芽夢に興味すら示さない。中学二年の、一番仲の良かった頃からはとても想像できない状況だ。
不二は、水竿のことあんなに大好きだったのになあ。いろんな意味で。


「仲直り…しないの?」
「しないよ」
「なんでだよ」
「水竿がそう思ってないらしいからね」
「意地張っても仕方ないじゃん」
「英二、何か勘違いしてるみたいだけど」


すっ、と背筋を冷たい風が過ぎていくような感覚がした。薄く開かれた瞳に射抜かれて、菊丸は思わずたじろぐ。決して怖がったわけではない。ただ、あまりに真っ直ぐな視線が今までの不二との印象と違いすぎたから。


「僕は英二が思ってるほど未練を引きずってるわけじゃないし、僕を通さなくても英二は彼女と友達だろ?」


不二はすぐにいつもの優しい顔に戻った。しかしその台詞は菊丸にとっては非常に不愉快だったことに違いはない。芽夢と仲良くなるきっかけを作ったくせに、そんなすぐに分かるくらい必死に否定しているくせに。確固として行動に起こす気にならない不二にさすがの菊丸も呆れを隠せない。というか隠すのも馬鹿らしく思えてきた。


「わーかったよ!俺だってせっかくまた友達になれたんだし、不二がそー言うならもう気にしないからな!」
「うん、それが良いよ」
「すっごい仲良くなって彼氏彼女になっちゃっても知らないからな!」
「ははっ、そしたら僕もまた会わなきゃいけなくなるのかなあ」


何でもないように返事をする不二は、笑顔を崩さないまま。なんだよ。なんで言い返さないんだよ。本当はすごい嫌なくせに、今の俺に少なからずイラッとしたくせに。本当なら俺と代わりたいくらいなくせに。なんで俺なんかに分かるような嘘をつくんだよ。俺が分かるくらいだから他の奴なんか一目瞭然だぞ。俺にその気がないことくらい知ってるくせに、そんな静かに怒るんだろ。
「……不二のばーか」小さく呟く。返事はなかった。
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