ロストエンドスタート | ナノ


「あ」
「……あ」


顔が合った。言葉を交わした。視線が捉えた。逃げ場はなかった。

視界に入った。意識していなかった。考えなかった。相手が誰かなんて。

久しぶりに隣に並んだ彼は以前から比べていくらか背が高くなっていた。髪型からあの頃と同じく幼げな雰囲気はそこはかとなく残ってはいるものの、やはりこうして近くで見ると全然違う。身長もそうだし、少し逞しくなったようにも思える。同じタイミングで自販機に伸ばした百円玉がぶつかりそうなくらい近くにあって、私はそれを引っ込めることすら忘れた。

一年以上振りの彼女は、なんだかとても小さかった。自分の身長が伸びたこともあるが、なんというか全体的に、大人しい雰囲気を感じさせる。根本的な顔立ちは変わらないものの、彼女は近くで見れば見るほど驚くべき変化を遂げていた。中学時代には栗色というよりはもう少しアッシュ系に近かった髪は、見る影もなくほとんど黒髪というくらいのこげ茶色になっていた。黒に染め直しても案外綺麗になるものなのかと感心するくらいだ。一年という時間の大きさを初めて自覚して、菊丸は上げたままの腕を下ろすことなんて頭から抜けて彼女を凝視していた。


「えっ、とー…水竿、覚えてる?俺…」
「う、ん…菊丸、英二…くん」


どこまでもぎこちない会話。別に嬉しくもない呼び方に、菊丸は若干の不満を表情に示した。
予想していなかった再会。放課後、学校のロビー、狙ったかのように誰も居ない時間帯だった。窓から射し込む夕日の明かりが廊下を照らす、いかにも漫画のワンシーンのような。


「あ、ごめんっ。自販機使うよね」
「えっ、あ、良いよ水竿先使って!」


近付いたかと思えば、同時に離れて。結局譲り合いの結果、先に芽夢が烏龍茶を買って、そのあと菊丸がポカリスエットを購入した。その間、通りかかった人影、ゼロ。交わした言葉も、ゼロ。互いに思っていたことは一つ。
この場に不二が居なくて、良かった。
飲み物を買って、さっさと帰れば良かったと芽夢は後悔した。その場の雰囲気に流されて立ち尽くしたまま、まるで菊丸を待っているみたいになってしまった。ポカリスエットの蓋を開けて、一口含む。そんな動作までしっかり見ておいて、今更逃げるような度胸はなかった。しかし、何より気まずい。


「…、ぷ、っはは!」


唐突に、菊丸が肩を震わせ出した。別に何をしたわけでもないのにけらけらと笑う隣の男に、芽夢はぱちぱちと目を瞬かせた。笑わせるようなことをした覚えはないのに、彼は今までの気まずい空気を打ち砕くように声を上げる。ポカリスエットがボトルの中でたぷたぷと揺れる。呆然とする芽夢にも、菊丸はお構いなしだ。


「菊丸…?」
「ふはっ、やっばい、水竿。百面相しすぎ、超面白い」
「は…」


めちゃくちゃ悩んでますって顔してる。そう言われて芽夢はすぐさま菊丸から顔を逸らした。しかしそれに意味はない。せいぜい言い当てられた恥ずかしさから情けなくも赤くなっている顔を見られずに済んだくらいだ。一年以上も疎遠だったのにいきなり恥をかいてしまったことが余計に情けない。


「しっかし、誰かと思っちゃった。髪黒いし、ちっちゃいし」
「背のことは言わないでよ…菊丸が勝手ににょきにょき伸びただけじゃん」


ラクロス部の星、唯一の弱点。身長百五十センチ、ややオーバー。身長が重要であるスポーツに関して、これは芽夢にとって最大の壁ともいえる。物理的にも。かといって身長でからかわれることはさほど苦には思わないマイペース振りを菊丸は知っていた。


「調子はどう?ラクロス部期待の星」
「まあまあかな。そっちこそ大変そうだね、テニス部の注目ルーキー」
「ふふん、まーな!」


ぶい、とピースサインを突き出してくる菊丸。相変わらず笑顔が眩しい。出会った時からそうだった。彼はいつでも明るくて人懐っこくて、初対面なのにまるで友達みたいに話してくるし。今だって、ずっと関わりを断っていた人とは思えないほどはきはきと喋る。これは、菊丸の長所といえる。少なくとも芽夢にはないものだ。
菊丸の無邪気な明るさに、芽夢もだんだんと緊張がほぐれていく。自然な笑顔が出てきて芽夢は心底安心した。
だから、私は駄目なんだ。すぐに流されてしまう。


「昨日さ、ラクロス部」
「うん?」
「ずっと見てたよ」


不二。そう続いた言葉に、時間が止まる。落としかけた烏龍茶がたぷんと狭いボトルで波打った。単純なのは芽夢の欠点だ。どうして今の今まで彼を避けていたのか、忘れたわけではないだろう。あからさまな芽夢の反応に、菊丸は眉間に皺を寄せた。


「なあ、なんで仲直りしないんだよ」
「べつに…したいとか思って、ないから」
「不二は思ってるんだけど」
「嘘だよ」


嘘。そんなこと分からないじゃないか、と菊丸は唇を尖らせるが、芽夢は頷かなかった。実際には菊丸の言う通りなのだが、しかし芽夢は確固として否定する。今までずっとそう思ってきた。今更、誰かの言葉一つで変わったりはしない。芽夢は不二を遠ざけた。不二は芽夢を拒絶した。それが今の形で、このままの延長線が一番気が楽なのだ。不二のことは、できるなら考えたくない。


「二人がなんで喧嘩したのかは知らないけどさ、一回話してみろよ」
「良いよ、そんなの」
「なんでだよ!おまえらすっごい仲良かったじゃん!ずっと知らん振りしてさ、絶対おかしいよ、俺は」
「菊丸」


だんだんと熱くなってくる菊丸に反し、芽夢は冷静だった。菊丸、怒るよ。そう静かに制されて、彼は不満そうに口を噤んだ。まだ言いたいことはたくさんある。そういう顔をしている。言わせないけれど。冷静にならざるを得なかった。私の感情はとっくに冷めきっている。怒る、なんて実際はないのだ。
不意に、短い機械音が空気を震わす。それに反応した菊丸がズボンのポケットを探り出した。取り出した携帯を開いて、少しの間を置いて気まずそうに芽夢を見る。電話だろうか。芽夢が小さく頷くと、菊丸は困った顔をしながら携帯を耳に当てた。


「…もしもし。不二?ごめん、喉乾いたから自販機んとこ。日直終わった?…うん、うん、分かった。んーん、一回教室戻るから良いよ。おう、じゃな」


なるほど、気まずい顔の理由は良く分かった。このタイミングで不二からの電話とは、まるで狙っているようだ。菊丸の口振りからして、どうやら彼は始めから不二を待っていたらしいが。芽夢の名を出さなかったことは賢明だろう。静かに携帯を閉じて、菊丸は再び芽夢に向き合った。さっきの不満な顔ではなく、苦笑を浮かべていた。


「ごめんごめん、なんか俺が必死になっちゃった」
「菊丸は悪くないでしょ。優しいね」
「まーね。じゃ、不二待ってるみたいだから」


先ほどの雰囲気はどこへやら。菊丸は踵を返すと、適当な挨拶を告げる。また明日、とでもいうような軽い言葉。芽夢もそれに返事を投げて、小さく笑った。すると、歩き出したはずの菊丸がぴたりと足を止めて、首だけこちらを振り向いた。


「俺、本当はすんごいヤダ。水竿も不二も、友達だから」
「……」


じゃ、そんだけ。それだけ、なんてまるでどうでも良いみたいに言い残して、菊丸は今度こそ走り去ってしまった。彼は知りもしないのだ、その言葉が芽夢にとっていかに重大なことだったかなんて。
考えたことは、当然あった。芽夢と不二、それと菊丸は、多分周りから見てもとても仲が良かった。学校ではもちろん、三人で休日に出掛けるくらいには。そんな仲の良かったグループの二人が、ある日から突然言葉を交わさなくなったら。菊丸はきっととても戸惑っただろう。実は、今日のように仲直りを促してきたのは初めてではなかった。何度も、二人の間に立っては一番真剣に考えてくれていたのも知ってる。それを全部無碍にしてまで、芽夢は動くことを止めた。


「私は、悪くない」


あの頃は何度も何度も、そう言い聞かせてきた。そうだと信じ切っていた。疑いもしなかった。
それが、どうだ。今になって揺らぎ始めるのは、関係の亀裂が作った長い時間によるものなのか。分からない。
だけど、やっぱり彼に会いたいとは、少しも思わない自分がいた。あるのは、不二と菊丸、二人へのささやかな罪悪感。
まだ開けてもいない烏龍茶。ペットボトルが汗をかき始めたそれを首筋にあてた。冷たい。
落ち着けよ、私。これで良いんだよ。もう嫌なんだろう。傷付くのも、傷付けるのも。

菊丸英二は、とても純粋な男だ。
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