ロストエンドスタート | ナノ


不二周助くんと喧嘩をしました。高校一年の冬のことでした。

ほんの出来心というか、もともと悪いことをしているつもりではなかったのだ。まさかそんなことで彼が怒るなんて思ってもみなかっただけで。
失念していたのだ。彼が穏やかに笑う表情の下で、高ぶる感情を煮え立たせる人だということ。争い事なんて嫌いそうな雰囲気をして、実は誰より負けん気が強くてプライドが高いということを。


「…水竿!?何見てるの!」


突然飛び込んできた声にびくりと肩を震わせた。振り向けば、テニス部のジャージを着た最愛の人が珍しい顔をしながらこちらを凝視していた。テレビに集中するあまり、入ってきたことにさえ気付かなかった。彼と二人して沈黙するものの、点けっぱなしのテレビからは賑やかな声が溢れてくる。盛大な、青学と四天宝寺コール。彼は部屋のドアを閉めると、ズカズカと大股で近寄ってきて迷わずテレビの主電源ボタンを押した。あ、と声をもらしたのと同時に画面は真っ暗に変わり、煩いくらいのコールもなくなる。不二はそのままビデオデッキを操作して、取り出したテープをしっかりとその手に掴んだ。


「これ、どうしたのかな」
「えっと…入院生活って暇だからさ、愚痴ってたら菊丸が乾君から借りてきたらしくって、見てみろって言うから、その…」


その年、芽夢は運悪く階段から滑り落ちたというなんとも情けない理由で病院のお世話になっていた。クリスマスから三日過ぎた日のことだった。クリスマス、大晦日ともに一緒に過ごすという不二の約束を、自分の不注意が原因とはいえ中止になってしまったことで芽夢も鬱憤が溜まっていたのだ。そんな時、見舞いに来た菊丸が「乾から借りてきたお宝ビデオ!大事に扱えよ〜!」なんて言いながらビデオテープを渡してきたのだ。最初は何なのだろうという興味本位で再生しただけだった。すると、そこに映っていたのは紛れもなく、芽夢が約束をドタキャンしてしまった相手、不二周助が中等部のテニス部のユニフォームを着てラケットを振っている映像だったのだ。よく見れば、ビデオテープにはそれぞれ「地区大会決勝」だとか「関東大会一回戦」というタイトルが書かれていて、それが中学三年生の時のテニス部の大会記録だということが分かった。しかも不二の試合が録画してあるものばかり。そういえば中学最後の大会は絶賛疎遠中で観戦どころか話したことすらなかった。つまり、このビデオの中に記録されているのは全て、自分の知らない彼ということになる。そんなの、手元にあって見ない方がどうかしている。
というのが、数時間前のことだ。そのビデオテープは、今は画面の中で試合をしていた張本人の手によって剥奪されてしまっている。


「ふうん…それで、ずっと見てたんだ。僕が来るまで、ずーっと」
「う、はい…」
「しかも負け試合を」


あれ、この人なんでこんなに怒っているのだろう。今見ていたのは全国大会、四天宝寺中との試合だった。今までのビデオでも、聖ルドルフ中や立海大附属中との試合記録を見て、少し怖いなんて思っていたけれど、その試合はそれまでの比ではなかった。怖いというか、あんなに必死になっている彼は見たことがなかったから。ついつい目を凝らして、周りの気配にも気付かないくらいに集中してしまったのだ。
いや、けれど、彼が何故怒っているのかはさっぱり分からないでいる。原因が分からないと対処のしようもない。一人困っていると、不二は浅く息を吐いた。


「僕はね、水竿」
「う、うん」
「どうやっても、勝つことにこだわれなかったんだ。試合をしながら相手にスリルを求めている、そういうテニスばかりしていた」
「え、っと…」
「でも、君が見にきてくれた試合は少し違った。勝利に執着できなくても、君の前で負けるなんてことは絶対にしたくなかった」


そういえば、昔見に行ったテニス部の試合で、不二が負けているところは見たことがなかった。菊丸に聞いても不二はすごい強くて天才なんて呼ばれている、なんて言うものだから、それが当たり前だと思っていたのかも知れない。不二が負けた試合を見たのは、このビデオが初めてだった。


「見られたくなかった。確かに得るものも多い試合だったけど、君にかっこ悪いところなんて見てほしくなかったよ」
「不二…ごめん、勝手なことして」
「いや、良いんだ。持ってきたのは英二なんだろう?僕も、急に怒鳴ったりしてごめん」


寂しそうに笑う不二に、胸の真ん中が締め付けられるような感覚。ただの興味本位で、彼を傷付けてしまった罪悪感が駆け巡る。知られたくないものくらい、誰にだってあるはずだ。それを勝手に覗き込んで、自分の知らない彼にわくわくしていたなんて。そっと手を伸ばし、恐々しながらジャージの裾を掴むと大好きな優しい手が頭に触れた。


「あ、のね、不二」
「うん?」
「菊丸が、言ってたの。これ見たら、きっともっと不二のこと好きになるって。…本当、だった。負けた試合でも、私、この人を好きになって良かったって思ったよ」
「…うん…ありがとう、水竿」


彼の顔がゆっくり近付いて、目を閉じれば額にぬくもりが触れた。優しい彼の手が、声が、唇が、いつだって安心させてくれる。その両手に頬を包まれて、目を上げる。至近距離で、くすりと笑う彼にまた心臓が疼いた。


「でも、他にも少し気に食わないことがあるんだよね」
「え?」
「クリスマスも大晦日もお預け貰って、少しだけでもと思って病院に来たのに君は昔の僕ばかり見て楽しんでたんでしょ?」
「そ、そういうわけじゃ…」
「ずるいなあ」
「、ん…!?」


不意に、唇を塞がれた。言い訳をしようにも、これでは喋ることすら出来ない。何とか離れようともがけば、隙をついたように侵入してくる舌に頭は更に混乱する。互いの舌を絡めて、歯列をなぞって、くすぐったり、内壁を押したり。今までにも何回か経験のある、どうにも恥ずかしくて仕方なくなるキスだ。不二はこの行為が好きみたいだけれど、こちらはもういっぱいいっぱいになってしまうから少し苦手だ。
とん、と肩を押され支えのない芽夢はベッドに背中から沈み込んだ。漸く唇が離れて息を整えている間に、靴も脱がずに馬乗りになってきた彼に思考が停止。え、あの、え、え?と働かない脳みそと口で戸惑いを晒していると、頭の両側に肘をついた不二の顔が限りなく近くなる。とりあえず、怪我をした左足を気にかけてくれているのか一切触れてこないあたりは優しい不二のままだ。


「困った顔、してるね」
「えと、あ、あの」
「大丈夫、今は何もしないから」
「は、はあ…」
「…来年」
「え?」


小さな、かすれるくらいの声に思わず聞き返す。いつも彼は突拍子がないことをするから、こちらは対応するだけで精一杯になってしまう。対応できているかどうかさえ怪しいものだけれど。困った芽夢を見て、彼はいつも上から笑ってくるのだ。これが不敵な笑み、というやつなのだろう。なのに愛しそうに、優しく頬を撫でたりするから、文句もなにも言えなくなってしまって。


「来年のクリスマス、水竿の全部を貰うよ」
「…っ!?」
「だから、そのつもりでいて」


本当は今年欲しかったんだけど、なんて付け加えられて、本気で脳みそが沸騰するかと思った。そっと、触れるだけの口づけを落として、不二は芽夢の上から降りた。押し倒したその行為自体はきっと冗談だったのだろうけれど、彼の言葉は本気の声、だった。来年の、クリスマス。一年も先のことなのに、彼の予想外な宣言に今から心臓が煩くて仕方ない。


「じゃあ、僕はそろそろ帰るね」
「え、もう?早くない?」
「うーん…もう少し居たいのは山々なんだけど、来年まで我慢しなきゃいけないと思うと色々思うところもあって…ね?」
「…!」
「くすっ…大丈夫、約束は守るから」


だから、来年までにリハビリ終わらせようね。そう続けられた声に、肩が跳ねた。


「あ、このビデオは僕から乾に返しておくから」
「…はぁい」
「良い子」


一度だけ頭を撫でられて、言いくるめられてしまう自分は結構単純な性格をしていると思う。というか、抵抗したところで口でも腕っ節でも適わないのが分かっているからなのだが。
不二が帰ってしまって、ビデオも取り上げられてしまってまた暇になってしまった。今まで居たのが大好きな恋人なだけあって、空いた穴は大きい。
きっと、不二はどこかで勘付いていたのだろう。ここ最近、上手くいかないリハビリに芽夢が不満を感じていたことに。階段で転んだのだって、自由にならない身体に苛立って注意を怠ったからだ。それで怪我をして恋人との約束を駄目にしてしまったのだから、不甲斐なさすぎて頭が痛い。


「来年…来年かあ…」


全部、貰う。それは多分、今想像していることで間違いないのだろう。考えるだけでどうしようもなく恥ずかしくなるけれど、一年なんて案外あっという間だ。心の準備をしておけと、そういう意味で言ったのかも知れない。
けれど、実際芽夢はそんなことは割とどうでもよくて。一年後も確かに二人で一緒に居るのだと、当たり前に思ってくれていることがただ嬉しかった。

ビデオの中の不二が触れたものを感じて、少しでも彼の近くに寄り添いたかった。そう思っていたことを告げたら、彼はどんな顔をしたのだろうか。彼がかっこ悪いと言ったものも、芽夢の目には全て輝いて見えた。
今年は、それが自分へのクリスマスプレゼントだ。一年後が、二人にとって最高のクリスマスになるように祈りながら、芽夢はまだ熱の引かない頬に手を当て意中の人に想いを馳せた。
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