ロストエンドスタート | ナノ


「不二ってさ、いつから水竿のこと好きだったの?」


不意に、菊丸が零した声に不二と芽夢は二人して動きを止めた。と同時に、菊丸は手元から一枚のカードを床に放る。途端に芽夢が「ダウト」と合図、菊丸はそれににんまりと口元を歪ませた。しまった、やられた。手元に増えた数十枚のカードにため息。不二はそんな芽夢の様子に静かに笑っている。


「そうだなあ。いつ、とははっきり覚えてないんだ」
「いつの間にか、ってこと?」
「そんなとこかな。でも、初めて会った時から何となく惹かれてはいたよ」
「ああ、いじめ犯撃退したやつ」
「……くすっ」
「ああもうごめんってば、口が軽いのは反省してるからそんな根に持たないで…はい、A、2、3」


投げやりに、芽夢が三枚のカードを裏向きに置く。四枚目を出さなかったのは作戦か、はたまたあの枚数の中に本当に入っていなかったのか。芽夢に続いて不二も手札から二枚捨てる。どうも芽夢は、この話題が嫌いだ。話さないでほしいと言った不二を無視して、昔のことだからと菊丸に話してしまったことは確かに自分が悪い。文句を言える立場ではないが、その話になる度に不二の意味ありげな微笑みが怖い。


「ああ、でも」
「んにゃ?あ、俺6だけ」
「一回、この子が本当に好きだって改めて思ったことがあったな」
「え、いつ?いつ?」
「…その話、今じゃなきゃ駄目なの?」


恥ずかしいんだけど、と目線を逸らす芽夢に、不二は笑みを濃くする。彼の些細な加虐心にスイッチが入った瞬間だった。英二が聞きたいらしいから、と理由をつければ、芽夢は小さく唸りながら空いた片手で顔を隠した。


「中学二年の春にさ、一度スランプになったことがあったんだ」
「あ〜、あったかも!あの頃はまだレギュラーじゃなかったから目立たなかったけど、二週間くらい全然やる気出ないみたいに言ってた!」
「そう。正直、そんな経験なかったから僕自身もどうしようも出来なかったんだ」
「あの時、なんで立ち直ったんだっけ」
「……水竿だよ」
「え?」


小首を傾げたのは、芽夢だった。次に出すカードを選んでいる最中であまり話を聞いていなかったらしく、急に名前を呼ばれたからか不思議そうな顔をしていた。


「どうにかしなきゃと思って英二に付き合ってもらって自主練してた時に来てさ、いきなり英二からラケット奪って」
「ああ!思い出した!」
「うん。あれは衝撃的だったよね。"あんた、素人とやったことないでしょ"って」


楽しげに話す二人を眺めながら、芽夢だけは顎に手を当てて考える仕草をする。どうやら、あまり記憶には残っていないらしい。

スランプ中で珍しく焦りを感じ始めていた不二にそう告げた芽夢は、菊丸を押しのけコートに踏み込んだ。試合をしよう、と急な申し込みに不二は戸惑ったものの、あまりに真剣な様子に頷くしかなかった。
現役テニス部員と、授業以外でラケットに触れたことのない芽夢。結果なんて見え透いていた、もちろん芽夢だって分かっていたはずだ。
ゲームカウントは5対0。一方的な試合運びだった。相手が素人といえど、不二は真剣な相手にあからさまに手を抜くほど愚かではない。本気とは言えないまでも、不二は決して気を緩めるようなことはしなかった。審判をしている菊丸が、膝を曲げ息も絶え絶えな芽夢にもう止めようと訴えかけても、芽夢は聞く耳を持たなかった。ただ真剣に、まっすぐ不二だけを見据えていたのだ。


「菊丸!」
「ほいっ?」
「先に言っとく…ごめんね!」

そう言い放ってにこりと笑う芽夢に、菊丸はただ首を傾げるばかりだった。
芽夢からのサービス。やはりスポーツのセンスがあるのか、的確にスイートスポットで捉えたボールは理想のカーブを描き不二のコートへ刺さる。同時に走り出した芽夢を、不二はしっかりと捉えていた。サーブ・アンド・ボレー。テニスに触れた経験の少ない者が積極的にやるプレーとしては、かなりの勇気を要するものだ。理想的な軌道のボールほど、返しやすいものはない。そして素人はフォアハンドへの意識が集中し、バックへの注意が逸れる。不二は的確に左サイド、ラインぎりぎりを狙って打ち返した、はずだった。「せーの、」と呟いた芽夢に、不二は動きを止めた。


「きっくまるビーム!」


大きく後方に飛び退き、そう叫んだと同時に空中でボールを捉えた。打ち返された球は不二の死角を突き、大きくバウンドしてフェンスにぶつかった。一瞬にして静まり返るコート、一番早く正気に返ったのは、菊丸だった。


「ああああ!水竿それ俺の菊丸ビーム!!真似すんなー!」
「あっはは、一回やってみたかったんだよね」


やってみたかった、だって?冗談じゃあない。菊丸のアクロバティックプレーの真似事なんて、見ただけで出来るようなものではない。彼女がテニス初心者というなら尚更だ。普段から当たり前にやってのける菊丸本人は、それがどんなに異常なことか気付かない。女性とは思えないボディバランス、体力、テクニック。それはあくまで、ラクロスをプレーする芽夢に突起するものだ。それを、この僅か十数分程度でテニスに応用してしまうなんて。ざわざわと、不二の心がざわめいて肌が粟立つのが分かった。


「末恐ろしい、って、君のためにある言葉かも知れないね」


小さく笑いを零しながら呟き、不二は芽夢によってしっかりと見開かれた双眼で彼女を捉えた。
芽夢のサービス。二度目は通じないと自覚しているのか、今度はベースライン上に留まる。まったく、本当に初心者なのだろうかと疑ってしまう。厳しいコースを狙っても基本的には追いついてしまうのだ。なるほど、だんだん不二のペースに慣れてきているようだ。とんでもない子だな、と不二はむくむくと湧き上がる高ぶる感情に身を任せる。今まで知らなかった芽夢。どこまで伸びるのか、知りたくなった。たった一度のポイントが、不二に火を付けたのだ。だから、だろう。


「つ、つばめ返し!?」


叫んだのは菊丸だ。芽夢の足元に正確に落とされた球は、跳ね上がることなく地面を滑るように駆け抜けた。その様子を、芽夢は立ちすくんだまま口を開いて見ている。トリプルカウンターの一つ、つばめ返し。この頃はまだ、見せることすら稀だったのだ。それを間近で体験して、芽夢は一歩も動けなくなった。それがその試合の最後、不二なりに芽夢に向けた、精一杯の感謝の意だった。


「不二〜、素人につばめ返しは酷くない?俺だって返せないのにさ」
「そうかな?」
「ていうか、今までわざと出さないんじゃなかったの?」
「いや、違うよ。出せなかった」


菊丸と芽夢、二人して首を傾げる。出さなかったのではなく、出せなかった。


「水竿はボールの回転を意識するほどテニス慣れしてるわけじゃないからね」
「ああ、確かに!なんかぶれぶれだったし回転も不安定っぽかったにゃ!」
「うん。今のはたまたま、って感じかな」


それにしたって、トリプルカウンターの一つを使わせる気にしただけで相当なものだが。テニス部員ほどではないが、とても初心者とは思えなかった。特にラリー中の身軽さなんかは菊丸に良く似ていた。不二は未だにコートの真ん中でぜえぜえと荒く呼吸をする芽夢に出来るだけ近く、ネットのすぐ手間まで歩む。微笑みながらゆっくり手を差し出せば、負けたことなんてまるで忘れたみたいに握手が交わされた。テニスは、いやテニスに限らずとも、スポーツは楽しむものだ。知らず知らずのうちに忘れてしまうそれを、純粋にテニスを楽しんでプレーした彼女によって思い出したのだ。


「…そんなこと、あったようななかったような…」
「実は、握手した時にそのまま攫ってっちゃおうか悩んだんだよね」
「え、うそっ」
「嘘じゃあないよ?…………冗談だけど」
「…不二」


じとり、芽夢が横目で睨む。「ごめん、ごめん」と適当な謝罪をする不二は、一見純粋そうな笑顔を浮かべている。芽夢と不二では、不二の方が一枚も二枚も上手をいく。


「あれ、ていうか誰の番だっけ?」
「え、不二でしょ」
「英二じゃないの?」
「…もーやめやめ!そもそも三人でダウトやったって終わんないもんにゃー」


確かに、と菊丸に二人して頷く。トランプではなくUNOにすれば良かったと若干の後悔。けれど菊丸の家にUNOがなかったのだから仕方がない。一人先に手札を放り投げトランプを片付け始める菊丸に二人も続く。今まで思い出話に花を咲かせていたのに、今はもうおやつを食べたいと言い出す菊丸に苦笑。


(そういえば、私いつから不二のこと…)


好きだったんだろう、まで考えて止めた。意味のないことだ。人の気持ちどころか自分の本心にすらずっと気付かなかったのだから、考えるのも馬鹿らしい。ただ、不二に好意を持ったのは偶然ではなく、恋するべくしてそうなったのだと、自分で思っていれば良い。もっと言えば、彼もそうだと良い、なんて。
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