「水竿」
優しいテノールに振り向けば、見慣れた笑顔がそこにあった。迷うことなくそちらに駆け寄る。肩にかけたスティックの重みがやけにリアルだった。彼のすぐ目の前まで寄れば、抱き留めるように両手が腕と肩に触れた。
「不二!」
「お疲れ様。どうだった、久々の試合は?」
「楽しかった!こんなに、死ぬかと思うくらい走ったの何年振りかってくらい!」
「そっか。良かった」
笑いながら、優しい手が頭に乗る。それでも収まり切らない興奮は、とても言葉にできない。
芽夢のリハビリは実に一年以上に渡った。最初の頃は私生活にも気を遣う必要があった症状は、努力の甲斐あって時間とリハビリを重ねるごとに徐々に減っていった。もちろん一進一退した時期もあり不完全な自分の身体に憤りを感じたこともあったが、それでも諦めずに前を向いていられたのは近くで支えてくれる存在があったからだ。家族、友人、入院当初から親身となってくれた看護士。それから、惜しみない愛情を持って寄り添ってくれた恋人。
長いリハビリ生活に終止符が打たれたのは、高校二年の冬だった。偶然だか、はたまた何かしらの縁があったのか、それは冬休み前日、クリスマスイブのことだった。芽夢と不二は、ほぼ完治したという報告に手放しで喜び合った。前の年のクリスマスには、漸く発症が減った身体に気を緩めてしまったばかりに、定期検診のために訪れた病院の階段で転び、二日ほどの再入院を余儀なくされてしまった。その前の年のクリスマスイブは、不二との友人関係に亀裂が入った、ある意味で思い出の日。事実上、初めて過ごす二人だけのクリスマス。一晩早いサンタクロースからの贈り物だと、子供のように笑い合った。
それからしばらくして、芽夢は少しずつ運動をするリハビリを自主的に始めた。ずっとドクターストップをかけられていた体育の授業にも積極的に取り組むようになった。全ては、再び選手としてフィールドに立つために。もうラクロス部のない青春学園で、芽夢はひたすら夢を追っていた。
そして、迎えた念願の復帰試合は大学一年の春だった。
二人で進学した学校で、芽夢はラクロスサークルに参加した。迷いはなかった。かつてはプロ入りを期待されていた芽夢だったが、約三年に渡るブランクを抱えたプレーに以前までの人目を惹きつける輝きはなかった。自分の不甲斐なさに陰ながら涙しながらも、芽夢は必死だった。
小さな練習試合だった。それでも、芽夢にとっては大きな舞台だったのだ。試合終了が告げられると同時に地面に崩れるほど、がむしゃらに走ったのは高校一年の、あの引退試合が最後だった。十分なプレーなんて一つも出来なかった。それでも、芽夢の心は満ち足りていた。
「水竿、フィールドでちょっと泣いてたね」
「なっ、泣いてないよ!」
「残念。ちゃんと見えてたよ」
何がおかしいのか笑いながら言う不二に、芽夢は頬を膨らませた。実際、行き場のない感動のあまり泣いてしまったのだが、観戦している側から見えるなんて思わなかった。くすくすと笑ってばかりの不二を見ていたら恥ずかしさがこみ上げてきて、照れ隠しに彼の腕を払って踵を返した。黙って先に歩き出せば、不二は芽夢の早足に合わせて着いてくる。
「水竿、どこ行くの」
「帰るんですー、ほっといてよね」
「待ってよ、ごめん。そんな拗ねないでさ、一緒に帰ろう」
そう言われても、足は止めない。不二が未だに笑っているのはあからさまな声のトーンで分かる。それからもねえ、ちょっと、なんて言いながら追ってくる不二に振り向けないのは、ただの意地だった。
「機嫌、まだ直らないの?」
「……」
「ねえ」
「……」
「…………芽夢」
「!」
予想しない一言。思わず振り返れば、してやったりな顔でニコニコとしている不二。「呼んでみただけ」と言う彼は、ずるい。自然と立ち止まった芽夢の横に並ぶのも、空いている手をさり気なく握るのも。自分ばかり翻弄されている気がして、嫌ではないけれど少し悔しい。
「周助、って呼んでも良いよ?」
「……いい」
「どうして?」
「もったいないじゃん、なんか…」
昔から名字で呼び合っていたのに、急に名前呼びなんて恥ずかしい。なんて言えば無理やりにでも言わされるのは何となく察していたため、そう答えた。しかし嘘ではない。今までも名前で呼び合ったことは、本当に少しだけある。それは決まって、芽夢が落ち込んでいたのを慰める時。それから、恋人らしい"そういう雰囲気"の時。なんだかそれは、芽夢の中でいつの間にか特別なご褒美のようなものになっていた。もったいない、と表現した芽夢に、不二は一拍置いてまたくすくすと笑い出した。けれど、先ほどのからかうような笑い方ではない。表情を見れば、彼の頬が嬉しさで綻んでいるのが良く分かる。彼のその幸せだ、と滲み出るような笑顔が芽夢は一番好きだった。
「嬉しいの?」
「うん、どうしよう、何て言ったら良いか分からないくらい嬉しい」
そんな子供のように幸せをかみしめる彼を見ていると、心臓がぎゅうと締め付けられる。すると、不意に手が離れる。あ、と芽夢が無意識にその手を追うが、それよりも早く彼の両腕によって身体が閉じ込められた。心臓も身体もぎゅうぎゅうに捕まれて、いっそ苦しいくらいだ。不二は時々、いやしょっちゅうと言っても良い。彼は人目を気にしないところがある。けれど、もう彼と並んで過ごすようになって三年。芽夢の感覚もとうに麻痺していた。そうやって何にも振り向きせず、抱きしめてくれるのが嬉しくて仕方ないのだ。
「名前を呼ぶのは、四年後のお楽しみだね」
じわり、じわりと。彼の一言一言が胸に染みて広がる。その背中に腕を回して、胸に顔をすりつけるように抱きしめ返した。どうしよう、どうしよう。幸せすぎて怖いくらいだ。彼もこんな、言いようのないもどかしさを抱えているのだろうか。そうだったら、それ以上嬉しいことはない。ゆっくり髪にさしこまれる指先。撫でるように移動するそれに神経を集中されると、固いものが頭に触れる。それが何なのか予測したら、また頬が緩んだ。自分の首にかかっている、同じ日に買った同じデザインの指輪。どうしても外したくなくて、試合中も身に付けていられるように彼にチェーンを通してもらったのは昨日のことだった。気が早いだとか、よく考えてからにしろだとか、色んな人に言われたのはまだ記憶に新しい。まだ大学一年生になったばかりで、あと四年近くも自分たちは学生として生活していく。大学を卒業したら、という口約束と、その誓いにと贈られたそれは、芽夢にとって誇りある宝物だ。
「四年経っても、私を好きでいてください」
「もちろん。一生そのつもりだよ」
一度目は、私たちの出会いの日。二度目は中学二年のあの冬の日、あの瞬間さえ、今では次に向かうためのスタートだったと思える。三度目は、彼が私の名前を紡いだ時。
そして、今。数年後の自分たちに向けて、私たちは四度目のスタートを切った。