ロストエンドスタート | ナノ


特に大きな問題もなく、芽夢は予定通り翌日に無事退院した。ずっと休んでいた学校にも次の日から登校する許可が降りて、漸く芽夢にそれまでの日常が戻り始める。
不二とのことは、結局はっきりしないままになってしまっていた。今まで彼の中途半端な言動に翻弄されるがままだったというのに、最後は自分の方が曖昧だったと思い知らされたのだ。不二の気持ちははっきりしていた、それに気付かなかっただけ。否、自信が持てなかったのだ。それは今も変わらない。あまりにまっすぐな気持ちに、自分が分からなくなる。不二の手が心地よかったのも、彼の言葉に本能的に喜ぶ自分がいたのも、何となくは自覚していた。確固たる答えの名前も、きっと自分で一歩踏み出せば明るみに出るところまで来ている。
あと一歩、ほんの少しなのに。


「芽夢!退院おめでとう!」


そう声をかけられたのは、久しぶりの教室、そのドアを開いた瞬間だった。芽夢に気付いた一人が声を上げると、教室にいた誰もが集まって口々におめでとうと言う。まさか、こんなに暖かく出迎えてもらえるなんて思っていなくて、始めはただ呆然とその光景を眺めているばかりだった。それから、じわじわと溢れてくる感動。目の前の女子に抱きつかんばかりの勢いで礼を述べれば、教室が笑い声で満ちる。


「もうなかなか帰ってこないから、机に花でも飾ろうかなって話してたんだよー」
「し、洒落にならないからやめて…」


そんな冗談を交わしながら、久しぶりの席に着く。普段なら風邪で二日休んだだけで机にぐしゃぐしゃに詰められているはずのプリントは、一枚もなかった。入院中に不二が届けてくれていたことに、改めて心の中で感謝。


「水竿ー!!」
「あ、菊丸おは」
「退院おめでとにゃー!」


ガラリ、と乱暴にドアが開かれたかと思えば、飛び込んできたのは芽夢の友人。おはよう、という挨拶を遮って机の前まで飛び込んできた菊丸に、ひえっと悲鳴を上げてしまった。相変わらずの元気振りは、少し心臓に悪い。後からゆっくり入ってきた不二が、そんな二人のやりとりにくすくすと笑っていて余計に恥ずかしい思いをした。


「英二、はしゃぎすぎだよ」
「不二はいいじゃん、毎日お見舞い行ってたんだから〜!」
「だから、一緒に行く?って毎日聞いてたじゃないか」
「…いや…それはちょっと、なんていうか…」
「?」


急に大人しくなる菊丸と、それに相変わらず笑っている不二。二人がアイコンタクトを交わしながら自分にだけ分からない心の会話をしているようだった。


「水竿さ、ラクロスはもう出来るの?」


ぴたり、と教室の空気が止まった。ような気がした。そんな菊丸の一言に、芽夢は苦笑する。周りを見れば、心配そうにこちらをちらちらと見てくる視線。中には菊丸を咎めるように睨む者もいる。なるほど、クラスメイトの誰もがラクロスの話題に触れなかったのは故意のものらしい。変に腫れ物に触るみたいな態度を取られるよりは、彼のように素直に尋ねてくれた方が気持ちが良い。しかし、逆の立場なら自分もおそらくクラスメイトと同じ態度なのだろうと思うと、文句も言えまい。
退院することは出来ても、まだリハビリ中だということは変わらない。ラクロスどころか体育の授業すらストップをかけられている始末で、それをそのまま伝えれば菊丸は自分のことでもないのにつまらなそうな顔をする。確かに芽夢は、好きな授業はと言われたらすぐに体育と答える単細胞だが。そんな二人のやりとりを眺めて、不二は終始微笑んでいる。その視線が自分に向いていると思うと、どうしても照れくさい気分になって目を逸らしてしまう。入院中に度々向けられた、底の見えない熱い眼差しを思い出してしまうのだ。


「何もリハビリまで付き合ってくれなくても良いのに…」
「ついこの前、僕が言ったこと忘れた?無理は少しもしてないしね」
「でも、やっぱり悪いかなって…」
「そう思うなら、律義にミーティング終わるまで待たないで先に行けたよね」


その一言を最後に、芽夢は言葉を詰まらせた。不二の言う通りだった。
久しぶりの登校から数時間、下校後はリハビリも兼ねて病院へ行く予定になっていた。それを伝えたら何故だか不二は表情を明るくして、僕も行くからミーティングが終わるまで待っててと言い出したのだ。病院なんかに楽しいことなんて何もないだろうに、心なしか楽しみにしているような不二にノーとは言えなかった。変なところで強引な不二が悪い、などと心の中で唱えながらも、それは自分の言い訳だということにはいい加減気づいている。嬉しかったのだ。退院した今も、自然とそばに居てくれる彼の存在が心地よかった。


「明日、朝練ないんだ」
「一日雨らしいもんね」
「うん。水竿、いつも何時に出る?」
「…七時半くらい」
「分かった」


何が分かったなのか、なんて。聞いたら聞いたで、あまりの白々しさに笑われてしまうに違いない。彼の質問に答えた時点で、自分は期待していたのだから。明日の朝、家の扉を開けたら何食わぬ顔をした彼が立っているのだろう。


「どうかした?」
「えっ」
「考え事してる顔、してる。それか、頑張って表情を隠してる時の顔」
「…!」


見透かされている。時々、不二はまるで他人の心が読めるのではないかと疑ってしまうくらい的確に言い当ててくる。自分には逆立ちしても身に付かないその思慮深さには憧れるし、なんだかんだと意地の悪いことを言いながらもこの頼りない手を嫌な顔一つせずに引いてくれるのは彼だ。中学二年、冬休み前日のあの日以来、その手を失って宙ぶらりんになった芽夢は、ただひたすら狂ったようにラクロス一直線で生きてきた。自分には最初からそれしかなかったと言い聞かせるように、意地になっていた。それまで好きで続けていたラクロスを自分に強いるようになって、芽夢はそれまでにない劇的な成長を遂げた。しかし、その分だけ心が枯れるのも早かったのだ。多くの高校から申し込まれた話をすべて断って、寂れた弱小ラクロス部しかない青学の高等部に上がったのも、それが理由だ。穏やかな部内の雰囲気は凍りついた心を溶かしてくれた。実績なんて関係なく、あの部活は芽夢にとってかけがえのないものとなった。
ただ、それでも隙間の残る心を、彼は一瞬で埋めてしまったのだ。


「水竿?」


彼が一言、名前を呼んだ。ただそれだけで。
あの時、菊丸はきっと虐めに遭ったショックで芽夢が泣いたと思ったに違いない。実際は、そうではなかった。
彼の口が発した自分の名前。その響きだけで、涙が溢れてきた。これはきっと彼も知らないこと。だから今、同じようにかけられた声にどうしようもなく泣きたくなってしまう。


「不二が、ずっと大好きでした」


だからこれは、涙を留めるために零れた言葉。それは自分でも酷く曖昧で、ふわふわと宙に浮いているようだった。ずっと、と表現したのにそれがいつからだったか、分からない。気付いたらそうだったような気もするし、何かきっかけになる出来事があったのかも知れない。ただ、きっと自分でも知らないうちにこの感情は心の奥底に埋もれていた。自分に生まれた気持ちにも気付かず、彼を苦しめていた。


「……本当に?」


疑う要素なんてどこにあるのか、道のど真ん中で大きく目を見開いている彼は、久しぶりに同年代らしい雰囲気を見せた。ここ数日の言動と、芽夢からの最初のキス。彼に対する感情なんて、認めてしまえば気持ち良いくらいに一直線だった。分からないと言いながら逃げていたくせに、彼の気持ちが確かだと分かった途端にこの調子だ。卑しい自分が恥ずかしい。けれど、どうやってこの想いを内に留めれば良いのかもう分からない。少し前までの自分が思い出せないくらい、そう、あの日彼が言ったように頭の中は彼のことでいっぱいだった。まるで、ずっとそうあれば良いと言った彼の魔法にかかったみたいに。


「……振られたらどうしようかと思ったよ」
「え、そ、んなわけないじゃん。分かってたでしょ?」
「分からないよ。ちゃんと君からの言葉で聞くまでは、ずっと不安だった」


嘘だ。なんて思った自分を殴りたい。不二は完璧で、ギャラリーが出来るようなすごい人で、だから自分が翻弄されることはあってもこんな自分なんかのために彼が葛藤するようなこと、あるはずがないと決め付けていた。
だけど違うね。私が答えを出せなかった数日…否、何年も、私は彼を振り回して、結果的に独り占めしていた。気持ちを返せないことで彼がずっとそばに居ることの優越感を覚えてしまっていた。
くしゃり、と表情を崩した不二は、どうしてか不安げ芽夢の手を取った。


「っていうか、本当に僕でいいの?」
「…どうして?」
「多分、重いよ僕。英二に言われたからじゃないけど、歪んでるって思う」
「そんなこと、ないよ。不二は純粋だね」
「……自分でしておいてこんなこと言いたくないけど、ここ最近キスしたり抱きしめたから熱に浮かされた、なんてことないよね?」
「あははっ。ないよ、ない。きっかけにはなったけど……もしそうだったら、どうするの?」


ほんの好奇心、それに近い質問だった。ただ、彼のその質問が面白いくらい的外れだったから。いくら馬鹿な自分でも、最初から何とも感じない相手に唇を明け渡すほど軽くはない。不二は重いと言ったけれど、多分自分はそれに加えて随分と卑怯だと思った。芽夢の手を掴む力が、ほんの少し強くなった。寂しそうな顔で笑う不二。どうしようもなく、抱きしめたいと思った。


「ずっと、浮かされたままで良い。君が離れるくらいなら、勘違いでも良いからそばに置いておきたい」
「…そっか」
「君の表情も感情も全部欲しい」
「……嫌い、っていう感情も?」
「それは駄目。死んじゃうかも知れないから」


死なれるのは、困るし嫌だなあ。それならそんな言葉、私が死ぬまで言えないや。


「中学生のあの日以来、僕は君が怖くなった」


うん。


「離れたところで見ていたんだ。あれからずっと、ひたすらラクロスばかりを見ていた君に、僕は心のどこかで安心していた。僕以外の奴に揺らぐくらいなら、ずっとそうしていれば良いって」


うん。


「だけど高校のラクロス部に入ったら、君は心から笑うようになったね。正直、焦ったし苦しかったよ。そうやって誰かと多くの時間を過ごしてくうちに、僕のことなんて忘れてしまうんじゃないかって」


うん。


「そしたらいつの間にか英二とは仲直りしてて、英二は前以上に君に懐いて毎日遊びに行って。英二になれたら良いのに、ってその度に思った」
「やだ」
「え?」
「…不二は不二じゃなきゃ、私が好きになれない」
「…っ」


切れ長の瞳が大きく見開かれたかと思えば、それはすぐに視界から消えた。変わりに、肌に感じた体温。首筋に当たる髪がくすぐったくて身じろげば、逃がさないと言わんばかりに力が込められる。両腕で頭と背中を抱え込まれて身動き一つ取れない感覚が、とても幸せだと思った。


「好きだよ。君が思っている以上に」
「うん」
「だから、水竿ももっと好きになって」
「どうやって…?もう、ちょっとおかしいくらいには不二のことしか頭にないのに」
「くすっ。最高だね」


不二が本当に嬉しそうに笑うから、どうしようもなく愛しくなってその背中に腕を回した。二人で笑いながら抱きしめ合って、道の真ん中だということも忘れるくらい幸せだった。
完璧じゃあない彼の内側を垣間見る度、彼を独り占めしているような気になる。自惚れかな、醜いな。そう思いながらも、彼が腕を離さないことを理由に自分もすがりつく。
幸せすぎて死んじゃいそう。そう言ったら、じゃあ僕も、なんて笑うから。このまま本当に死ぬまで二人一緒だったらきっと世界一幸せだな、って。
一瞬離れて、またすぐ降り注ぐ愛情の熱に目を閉じた。
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