ロストエンドスタート | ナノ


そこから先の展開は流れるように進んでいった。意識も朦朧とし目が開いているのかも怪しい芽夢の元に、不二は無我夢中で駆け寄った。強く名前を呼べば僅かに睫毛を揺らして反応しているようにも思えたが、実際は分からない。救急隊員の一人に彼女の友人だと訴えると救急車に同乗することをすぐに許可され、迷うわけもなく車内に乗り込んだ。頭を打ったらしく血を流している芽夢の表情は、意識を失いかけながらも痛みを訴えるように歪んでいて、不二は真っ白になった頭で必死に自分を叱りつけて彼女の手を握った。大丈夫、大丈夫だ。僕がいるから。と、届いたのかも分からない言葉を、救急車が止まるまでずっと呟いていた。病院に着くなり彼女と離され、不二は何が何だか理解できないまま待合室のソファに崩れるように座った。時計の短針はもう十時過ぎを指していて、自分以外に一般人の姿はどこにもなかった。どうして、芽夢が。怪我か、それとも自分たちが気づかない間に病気に犯されていたのか。ただ、何もはっきりしていない中で見た彼女の額から流れる血に酷く恐怖を覚えた。それから、少しして俯いていた視界に影がさしたことに気づいて顔を上げた。そこには、僅かに息を乱した不二の姉、由美子の姿があった。どこから連絡が行ったのか、自分を迎えに来たという。


「姉さん、ごめん、もう少しだけ…、ごめん」


離れたくない、せめて彼女の検査が終わるまで。そう、自分らしくもない我が儘を言った。再び俯いた不二の髪に、そっとぬくもりが触れる。由美子に頭を撫でられて、無性に非力な自分がもどかしくなった。


「大丈夫よ、周助。きっと大丈夫だから、信じて帰りましょう」


誰かに宥められるなんて、いつ以来だろうか。普段のように笑って返す気力もない、不安でどうにかなってしまいそうだった。待っている間、一分一秒ごとに心臓が圧迫されていくようで、嫌な想像ばかりが心を埋め尽くしていって。辛かった。上手く頭が回らないまま、不二は力なく姉の言葉に頷いて、手を引かれるままにソファから腰を上げた。僕なら、大丈夫だから。ふと、頭を過ぎった言葉。そう言えば由美子は心配しながらも優しく微笑んで、少しは安心できるのだろう。なのに、今は芽夢のこと以外で口を開くことさえ億劫だった。帰りのタクシーの中でも、あの耳障りなサイレンが頭の中で木霊して、離れてくれなかった。


「えぇえええ!入院!?水竿が!?嘘っ!」


翌日、一晩で漸く落ち着いてきた脳みそで重い身体を引きずりながら向かった朝練。練習をする気力ぐらいは戻ってきたことに、少し安心する自分が居た。ラケットバックを肩から下ろし練習の準備をしながら、珍しく早く来ていた菊丸に昨夜のことを話した。芽夢が入院するという連絡が入ったのは、早朝のことだった。どうやら、弟の心配をした由美子が、芽夢の検査結果が出たら一報入れてくれるよう、病院に頼んでいたらしい。芽夢が入院するという事実を耳にして、実感が沸かないという菊丸を、正直羨ましいと思った。あんな、苦しんでいる芽夢本人の姿を間近で見てしまったら、そんなこと到底言えない。


「でもでも、そんな大した怪我とかじゃないんでしょ?大丈夫だよな?」


不安げに聞いてくる菊丸。しかし、不二はそれに返す言葉を知らなかった。みるみるうちに顔面蒼白になっていく菊丸に、「僕も詳しくは知らないんだ」と苦し紛れに言った。

芽夢が抱えていたのは、神経系の異常。
脳からの信号がしっかり伝達せず、筋肉が動かなくなるという症状が起こる。長年蓄積されてきた筋肉疲労やストレスから表れる可能性があると考えられているらしい。例えるなら、不動峰中学の伊武のスポット。あれを、日常的にずっと抱えているようなものだろう。昨日の練習中にそれが起きて、捕り損なったボールを避けようとしたために足を滑らせ頭を打ったことが、怪我をした直接的な原因だったようだ。聞いてみたところ、ここ一カ月ほどで本人にも自覚症状があったらしく、症状は大きいと言われた。どうしてそこまで事細かに説明してくれるのか、不審に思い尋ねると、電話口の看護士からは芽夢本人からの希望だと返された。彼女の病状を知ったところで、出来ることなんて何もないのに、どうして。


「とにかく、今日の練習終わったらお見舞い!行こうな!」
「あ、英二、そのことなんだけど」
「んにゃ?」
「悪いんだけど、今日は僕一人で行かせてくれないかな」


意識が戻ったという芽夢に、聞きたいことはたくさんあった。それ以前に、芽夢は大丈夫だと自分で確認するまでは、このどうしようもない胸騒ぎは消えてくれないと思ったのだ。純粋に彼女を心配している菊丸には、そのお願いは酷く不純に聞こえただろう。けれど、菊丸は何度かまばたきをした後、笑って快く了承してくれた。そんな彼の厚意に、不二はほんの気休め程度に心の荷が軽くなったような気がした。

一日の授業と練習を、今日ほど長いと感じたことはおそらく一度もなかっただろう。柄にもなく集中力が散漫しっぱなしで、入部してから初めて部長のお叱りを受けたほどだ。僕も本格的に重症だ、と自分を皮肉った。練習が終わって、珍しくジャージ姿のまま急いで帰っていった不二の姿に、違和感を覚えた部員も少なくなかっただろう。なりふり構っていられないほど、今までにないくらい頭の中は彼女の容態のことでいっぱいだった。
それなのに、いざ彼女の名前が書かれた病室を前にすると足が竦んでしまって、自分が怖がっていると嫌でも思い知らされた。軽く、扉をノックすると中から聞き慣れた声の返事があった。そのことに、一つ安心。ゆっくりとドアを開ければ、不二の姿を確認して表情を和らげる芽夢にまた一つ安心。額に巻いた包帯だけが、痛々しかったけれど。不二は招かれるままに病室に踏み入り、備え付けのパイプ椅子に腰を下ろした。


「気分はどう?」
「平気だよ。昨日はごめんね」
「僕なら大丈夫だよ」
「うそつき」


え?と聞き返せば、芽夢はくすくすと笑っていた。昨夜、不二が芽夢を心配して姉が迎えに来るまで帰ろうとしなかったと、看護士から聞いたらしい。不二自身は混乱のあまり気付いていなかったが、あの情けない姿は病院の人にしっかりと見られていたらしい。その事実に恥ずかしさと、少しの気まずさを感じた。


「救急車で、ずっと励ましてくれてたんだね。よく覚えてないけど、嬉しいなあ。ありがとう」


素直に笑って、礼を言う芽夢の姿に、今まで勝手に感じていた不安が溶けていくのを感じた。予想より彼女が元気だったことに、やっと気持ちが落ち着いた気がした。


「身体のことは、聞いたよね」


だから、不意に持ちかけられた本題に、簡単に胸騒ぎが戻ってきた。嘘をつくまでもなく、不二に容態を伝えることは彼女本人の意思だった。不二が小さく頷いたのを確認すると、芽夢は優しく目を細めた。


「大会が終わったくらいから、なんかおかしいなとは思ってたの。上手く足が動かなかったり、思ったところにボールが出せなかったり」
「……うん」
「だから、先輩たちの練習には混ざれなかった。ただの、スランプかなって思ってたし」
「うん」
「それが、まさかこんな大事になるなんて」
「うん」
「……不二」
「うん、なに?」


なるべく優しく、芽夢が不安を感じなくて良いように返事をした。ひゅう、息を吸う乾いた音がして、芽夢の表情が前髪に隠れる。


「……ラクロス、できなく…っなるか、も」
「…治ら、ないの?」
「わかんない。リハビリすれば、良くなるかもしれないけど、でも、昔からの疲労とかが重なってて、すごく時間かかる、かもって」


弱々しく、芽夢が真っ白いシーツを掴む。ぎゅっと寄せられた皺が、彼女の心情を表しているようでいたたまれない気持ちになる。不二はパイプ椅子から腰を浮かし、そっと芽夢の背中に触れた。子供をあやすように上下に撫でると、彼女の身体が小刻みに震えているのが良く分かった。怖くて、当たり前だ。今までずっと、生活の一部としてラクロスが共にあった。それがなくなるかも知れないという事実だけを、漠然と突き付けられたのだ。昨日、あんなに楽しそうにラクロスが好きだと言っていたのに。その日常さえ奪われかけている。


「どうしよう、不二、怖い。リハビリ受けるのが、怖いの。もし、やっても治らなかったら、もう、無理だったら、どうしよう、わたし」
「水竿」
「不、二っ…」


シーツを握っていた芽夢の手が不二の腕を掴む。見たことのない、芽夢の表情。ざわり、心が粟立つ。もし、ここで彼女の手を取ったら。強く抱き締めて、大丈夫だと囁いたら。芽夢は自分を頼って、すがりつくように受け入れてくれるだろうか。今度こそ、彼女の心を奪えるのかもしれない。喉の奥が酷く乾いている。ああ、これだから人間という生き物は。酷く身勝手で、傲慢で、こんなにも欲深い。一人、不安で押しつぶされそうな彼女をどうにか助けたい。そう思っているのは事実なのに。


「水竿」


そっと、彼女の背中から離した手で小さな指先に触れる。こちらを見上げた彼女は、今にも泣き出しそうなくらい不安に満ちた顔をしていて痛々しいほどだった。


「君は、どうしたいの?」
「え…?」
「またラクロスをやりたい?」


ざわり、窓を開けているわけでもないのに、風が二人の間を抜けていったようだった。芽夢の髪が揺れたのは、彼女が肩を震わせたからで、涙を溜めた目が見開かれてまっすぐ不二を捉えていた。稍あって、躊躇いがちに開かれた唇は、しかし何も発さないまま閉じてしまう。踏ん切りがつかないのだ。昨日の今日で、まだこの状況に立たされて丸一日も経っていないのだから、当たり前だ。もしも治らなかったら、治ったとしても今までのようにプレーできなくなったとしたら。迫られる決断は、不安を押し上げ判断力を鈍らせる。正にそれを表したような顔をする芽夢に、不二は表情を和らげ笑みを向けた。


「もし、水竿がリハビリを選ぶなら、僕も英二も協力する。絶対に諦めないし、君が納得するまで付き合うよ」
「、不二…」
「でも、もしリハビリをしないことを選んでも、僕たちは君に失望したりしない。何があっても、水竿が決めたことを受け入れる」
「っ……う、ん」


どうしてだろう。つい今まで感じていた、醜い欲がすうっと消えていくようだった。彼女に対しての気持ちが消えたわけではない。それどころか、日に日に強く、抑えきれないくらいに膨れ上がっているというのに。
今は、一人の友人として、彼女が安心して考えられる場所になりたい。そう思えた。
「不二が、いてくれて良かった」涙声になりながら笑った彼女に、心から微笑むことができた。
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