ロストエンドスタート | ナノ


都大会初戦の日以降、芽夢はラクロスのスティックを持ち歩かなくなった。彼女のトレードマークともいえるそれと、何日も離れている姿を今まで見たことがなかった。まだ新しいものに出会ったばかりの子供のように、馬鹿みたいにラクロスに一直線だった彼女が、だ。しかし、ラクロスを嫌いになったわけでも、先日の試合のことを引きずっているわけでもない。ただ単純に、やっていないのだ。
三年の引退と同時に、部活として成り立たなくなったラクロス部は廃部となった。それからしばらくは、芽夢の実力に目を付けた氷帝学園からのスカウトで呼び出されたりもしていたが、試合から一カ月が経過した今も芽夢は青春学園に通っている。
芽夢に、菊丸が尋ねたことがある。ラクロスはやらないのか、と。三年生が引退し部活もなくなったものの、今でも部員の何人かが集まって、グラウンドが使われていない日にひっそりとボールを投げ合っていることは芽夢も知っていた。しかし、彼女は菊丸の質問に言葉を濁し、曖昧に笑って済ませてしまった。ラクロスが好きだという気持ちはしっかり伝わってくるのに、それに触れる姿はもう長いこと見ていない。時間が経つにつれ、着々と大会を勝ち進んでいるテニス部は更に忙しくなり、不二たちも芽夢に構っていられる時間が極端に減った。
だから、気付かなかったのかも知れない。日に日に変化していくことに、小さなサインに。

その日、芽夢を見かけたのは本当にただの偶然だった。部活がミーティングのみですぐに終わったため、不二は普段よりも早めに帰路についていたのだ。一カ月以上見ていなかったラクロスの道具を持った芽夢の姿は、遠目から視界に入っただけですぐに分かった。彼女は横断歩道を挟んだ先に不二がいることになんて気付かず、学校とは逆の方向へ進んでいた。不二は実は好奇心旺盛な方だ。勿論、菊丸や中学時代のテニス部仲間に比べれば落ち着いた方だが、それでも一つ気になることを見つけると、確かめるまで気になって仕方ない性格だという自覚はしてる。だから、あえて芽夢には声をかけず後をつけた。ここのところずっと、ラクロスの話を曖昧に流してばかりだった彼女が、どこに向かっているのか。単純に知りたかっただけだ。自分に分かる彼女のことは、全部知りたい。そんな、叶いもしない願望のほんの一部のことだ。

たどり着いたその場所を遠目から眺め、不二は唖然とした。都内でも有名な大学の一つ、芽夢はその校舎に躊躇いもなく踏み入ったのだ。予想外の芽夢の行き先に、さすがの不二も立ち止まる。部外者が勝手に入って良いような場所ではないし、不二の良心がなかなか頷かない。どうしたものか。頭の中で善と悪の自分が討論している、正にそんな心境だった。


「…………、行こう」


ただし、善の自分が折れるのは異様に早かった。私服だったらごまかしも利くのだが、さすがに学ラン姿で見つかったら問いただされるのは覚悟の上。不二は周りに気を張りながら大学の敷地内に踏み入った。芽夢を見失ってしまった以上、はっきりとした目的地もなく歩くのは正直不安ではあった。不法侵入である事実は確かなのだから。
しかし、意外にもその探し物はすぐに見つかった。ラクロスの道具を持っていたのだからスポーツができる場所だろうというのは最初から考えていたが、まさか地図も見ない当てずっぽうの道のりでたどり着けるとは。高校より遥かに広いグラウンド。大学名が印刷されたユニフォームを着ている集団から少し外れた隅っこの方で、見慣れた後ろ姿を見つけた。どうして大学生に混じって練習しているのか、ここのところ学校でラクロスの話をしなかったのはここに来ていたせいなのか、不二には何一つ分からなかった。それ故に、一度見つけた芽夢の背中から、一瞬たりとも目が離せなかった。しかし、それも長くは続かなかった。ずっと誰かに見つめられていたら、さすがに視線を感じるものだ。不意に振り向いた芽夢と、がっちりと視線が交わった。


「…っ、ふ、ふじ…!?」
「あ」


見つかった、と不二は口を開けた。妙に冷静な不二とは真逆に、芽夢は異常なくらい慌てていた。「な、なな、っんでここに…!?」と、驚きのあまりか言葉を詰まらせる芽夢に落ち着くように言い聞かせるのに、一分はかかっただろう。しばらくして平常に戻った芽夢は、不二に何か言いたげにしながらもグラウンドを気にしているようだった。あと十分で休憩だから、とそれだけ言われて彼女の意図を悟った不二は、小さく頷いて目立たないようグラウンドから少し離れた。


「不二!」


十分とちょっと。息を荒くして駆け寄ってきた芽夢に微笑みながら手を振る。それが気に食わなかったのか彼女はしかめっ面を晒したが、反省の色はない。本人に見つかってしまった以上は隠すことなどない、不二は学校帰りに芽夢を見つけ、好奇心から後をつけてきたことを洗いざらい話した。芽夢は終始呆れ顔だった。


「で?」
「え?」
「どうして水竿は大学の練習に混じってるのかな、って」


不二の中で、一番の疑問はそれだった。まさか部外者が有名大学のグラウンドに勝手に入れるはずもない。学校からの許可があってこそなのだろうが、そこが一番分からないのだ。しかし、不二のあまりに直接的な質問に芽夢はあからさまに視線を泳がせた。それが余計に不二の好奇心を騒がせるなんて思ってもいないだろう。しばらく言葉を濁していた芽夢は明らかに聞かれたくないといった雰囲気だったが、不二から退くことはなかった。無論、話したくないと言われればそれ以上の追求は有り得ない。しかし、芽夢は悩みに悩んだ末、眉を下げながら「秘密だからね?」と釘を刺してきた。話す気になったらしい。


「この間の、氷帝との試合」
「うん」
「あの試合を見てた人にね、声かけられたの」
「うん…?」
「この大学で、ラクロスのコーチやってる人。本格的にやってみたらって」
「それって…」


芽夢はぎこちなく頷いた。


「プロの選手、目指してみないかって」


芽夢は不二を見ていなかった。まるで自分に言い聞かせるように話す彼女に、不二は小さな不安を感じた。自分がそんなふうに思うなんておかしい、不安なのは芽夢のはずなのに。頭ではそう思っているものの、フェンスを隔てた先のグラウンドをテレビ画面でも見るように眺めている彼女は、やはりしっかりと自覚していないようにも見える。へえ、すごいね。そんな簡単なことが言えなくなるくらい、この口は役立たずだったろうか。


「まだ決めたわけじゃないけど、最近ここで練習させてもらってるの。ラクロスは、好きだから」
「…そう」
「かっこわるいから、内緒にしてたんだよ」
「そっか、悪いことしたね」


芽夢はうっすら微笑んで頷いた。プロの選手、それは芽夢の中では酷く漠然としたものなのだろう。それが現実のものとなり、自分自身がそう在る未来が見え始めている。不安に思うのも無理はない。今まで、そんな不安を抱えながらも練習に明け暮れていたのだろう。不謹慎にも、芽夢の不安を最初に聞けたのが自分で良かったと、純粋にそう思った。


「やれることをやったら良いんじゃないかな」
「え?」
「精一杯やってたら、自分がどうしたいか見えてくるかもしれない」


勝手な憶測だけど。悩んでいる芽夢からしたら、他人ごとだからと気軽に言えるような安いセリフに聞こえたかも知れない。事実、そうではないと言い切れる自信もない。プロになる、なんて喜ばしいことだ。そんなふうに思えるのは、やはり直接的な関係のない人間だから。自ら彼女と他人という線引きをしている自分に失笑。けれど、芽夢がどんな選択をしても芽夢であることに変わりはない。結果がどうあれ責めることも、後悔させるような言葉を投げつける気も毛頭ない。中学生のあの時のように、自分の気持ちを押し付けるのも傷付けると分かって行動するのも嫌だった。芽夢がその出来事を過去だと思い、切り離しているのならそれも構わない。ただ、まっすぐ向けた視線の先が自分に少しも関係していないことが、ほんの少し切ないくらいで。
漸く不二の方も向いた芽夢は、まだ少し頼りなさげに眉を下げて笑った。がんばる、というやはり漠然とした返答に、何故か不二は安心した。


「練習、何時に終わるの?」
「えっと、だいたい九時くらい…で、片付けして九時半くらいかな」
「分かった。それくらいに学校の前に居るから」
「え?」
「送っていくよ。それくらいしか協力できないし」


いいよ、と。どうせそう言うであろう芽夢の眼前に手のひらを突き出す。驚いたようにまばたきをする彼女は小さな犬のようで、なんだか微笑ましい。遠慮はするけれど、多少なりとも嬉しいと感じてくれているのだろうか。芽夢はまるで自分がわがままを聞いてやるみたいに困った顔のまま笑って、小さく頷きながら「ありがとう」と口にする。同時に学ランの裾を弱々しく引かれて、無意識に胸が高鳴った。こういう思わせぶりなのが、芽夢の悪いところだ。


「じゃあ、練習戻るから。見つからないようにね?」


心配そうに何度も振り返る芽夢に、不二は笑いを堪えながらその度に手を振った。参ったなあ、気持ちがあの頃に引き戻されそうだ。見た目なんてまるで別人というくらい違うのに、肝心な部分はずっと不二が見てきた芽夢のままなのだ。髪の色も違う、高校生になってからは化粧もするようになった。あの頃は全面に出ていた幼さが剥がれ落ちてだんだんと大人になっていくのに、変わらない些細な仕草に心が捕らわれる。ついさっき、自分の気持ちを切り離されても構わないと思ったばかりなのに。
天才、なんて言われても不二周助はただの人間だ。ただほんの少し、好きなことへの相性が長けていただけ。だから気を抜くことだって、忘れることだってあるのは当然なのだ。ただ、今回ばかりはそんな人間らしい自分を、恨むしかできなかった。

時刻は午後九時を周り、不二は夕方に訪れた大学の前に再びたどり着いた。今度はしっかりと私服に着替えているため、多少の融通はきくだろう。あとは芽夢を待つのみ。そう気を抜いた時のことだった。不二の眼前を赤い警告が通り過ぎる。白い身体をした車が赤いランプを点灯させ、耳障りな音を立てながら大学の敷地内に入っていく。大学の中に救急車、不審に思うのはごく自然のことだ。ただ、不二が気になったのはそのことではなかった。「漸く来たな、救急車」「怪我したやつ、全然立ち上がれないみたいだったな」大学から出てきた学生も救急車に目を奪われたのか、小声で話しているのを見かける。無意識に、そちらに聞き耳を立てる。


「あの高校生、大丈夫かな」


それを聞いた瞬間、不二は弾かれたように走り出した。そんな、まさか。大丈夫だと自分に言い聞かせるが、一歩先へ進むほどに胸騒ぎは大きくなっていく。どうか、どうか彼女じゃありませんように。
けれど、小さな期待は人を裏切る。そう皮肉るくらいに、不二は目の前の光景を否定したくて、どうしようもできなかった。担架に乗せられ運ばれていたのは、ついさっきまで不二に微笑みかけ「がんばる」と言っていた姿とは程遠い、芽夢だった。
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