ロストエンドスタート | ナノ


それから一週間、菊丸は次の日から不二が一体何をやらかすのかと気が気でない生活を送っていたが、意外にも不二はおとなしかった。怖いくらいに。


「はい、差し入れ」
「…もらっていいの?」
「もちろん」
「ありがとー。私が飲むヨーグルト好きなの、よく覚えてたね」
「水竿のことだからね、当然だよ」


ただ、不二は芽夢に構うことが増えた。いや、頻度がという意味ではなくて、絡み方がなんとなくあからさまになってきたような気がするということだ。他の女子からすれば随分と思わせぶりな台詞を、不二は芽夢に対してだけ腐るほど吐いている。それに芽夢が気づかないのは、まあ、そういうやつだから。「あ、お金は良いから」と財布を取り出そうとする芽夢の手をそっと上から包み込む不二。ほら、前ならこんなふうにべたべた触ったりしなかったし。紳士振りは失っていないものの、以前も二人を見ていた菊丸からすればやはり違和感がある。まさか、これが不二の言っていた強引の限界というわけではあるまい。その程度では芽夢が気付くのは一年後か十年後か。いや、芽夢は馬鹿だから時間が経てば経つほど慣れてしまって意識なんてしないだろう。この一週間でさっぱり気付く様子がなかったのだから、このままでは一生お友達路線なのは目に見えている。正直、それは不二の気持ちと二人のこれまでを知っている菊丸からすれば気が重くなるばかりなので勘弁してほしいところだ。


「最近頑張ってるね、水竿」
「部活?そりゃもう一週間しかないからね、できることはなんでもやるよ」
「右肘」
「え?」
「昨日までは絆創膏貼ってなかったよね。頑張るのはもちろん応援するけど、そうやって日ごとに怪我が増えていくのを見るのは、結構嫌なんだ」
「…はーい、気を付けます」


終始笑顔のままの不二。そこから感じる威圧感のようなものは気のせいではない。ラクロスというのは、見ての通り激しいスポーツだ。男性に例えるならラグビーなんかと良い勝負なのではないだろうか。しっかり技術をつけなければすぐに怪我をしてしまう。もっとも、芽夢の場合は周りをフォローしなければならないパターンが多いことが大きな原因だろう。練習中に誰かと接触しても、芽夢は相手を庇うように転ぶ。それはしっかり受け身を取る余裕があるからだろうが、小さな擦り傷まではどうしようもない。芽夢のそばには、そういう細かい傷に煩い人間がいない。怪我をしているのはラクロス部全員でもあるからだ。ここ数日、毎日どこかしらに増える傷の心配をするのは専ら不二の役目になっている。それにしても先輩に貰ったというそのわんこ柄の絆創膏、童顔なおまえに果てしなく似合うな。


「ラクロス部の試合、日曜だったよね」
「うん」
「テニス部が土曜日で良かったにゃー。被ってたらさすがに行けないし」
「無理して来なくても良いんだよ?」
「水竿がこんなに頑張ってるのに、行かないなんて勿体ないよ」
「不二は私のお母さんか」


……いやいやいやいや、水竿!?何言ってんのこの子馬鹿!?菊丸はあんぐり開いた口のまま芽夢を凝視する。不二の変化に気付かないばかりかお母さんなどと。せめてお父さんにしよう。いや、対して変わりはしないが。その発言は不二の気に障ってしまうのだろうか。何しろ芽夢のことで怒る不二は怖い。一週間前のことにしろ、体育館の事件にしろ。芽夢は知らないからそんなへらへらとしていられるのだろう。不二は本当は少し子供っぽくて怒ると手のつけようがないんだからな。という意味を込めて芽夢を睨みつけるが、当然気付くはずもない。ですよね。
しかし、菊丸の心配に感づいたのか否か、不二は至って普通だった。不二のスイッチの入るタイミングがいまいち分からない以上、菊丸がビクビクしながら過ごす日々はまだ続きそうだ。


――――


「えぇええー!?ありえないー!」
「確かに、今回ばかりは同感だね」


良くない知らせは唐突に訪れる。土曜日、朝。絶好のテニス日和だと気を踊らせながら部屋のカーテンを開いた時から、嫌な予感はしていたのだ。降水確率はだいたい三割。若干の不安を感じさせるには十分な曇り具合だった。その日は不二と菊丸が高校テニス部に入って初めての公式戦の初日だったのだ。翌日には芽夢が所属するラクロス部の試合の応援を控えていることもあり、今週の二人の気合いの入り様は普段の倍は強かっただろう。だというのに。


「まさかの雨天中止〜?しかも試合は明日って!」
「この雨じゃあ、さすがに試合は無理だしね」
「それじゃあ水竿の応援行けないじゃん!」
「うん、そうだね…」


ザーザーと耳障りな音を立てて、滝のように落ちる雨、コンクリートに跳ねた雨粒が屋根の下にいる不二の足元まで跳んできている。心なしか、不二も残念そうな顔をしている。見た目にはそう出さなかったが、久しぶりに見る芽夢の試合を不二も楽しみにしていたに違いない。けれど、決定は決定。まさか自分の部活を抜け出して他の部を応援しに行くわけにはいかない。腹を括ったのか、不二は自分の鞄から携帯を取り出した。確か、今日は芽夢も応援に来ると言っていたが、この雨ではもう帰ってしまっているかもしれない。テニス部もとっくに解散しているのだが、この土砂降りの中を帰る気になれず立ち往生したままの部員は少なくなかった。不二は電話帳から芽夢の名前を探し、クリックすると携帯を耳に当てた。三回のコールの後、規則的な音は途切れ、変わりにスピーカーから耳障りなノイズが流れ込む。


「…もしもし?」
「不二?」
「うん」
「残念だったね、試合」
「水竿こそ、せっかく来てくれたのにごめん」


良いよ良いよ。といつもの調子で笑う芽夢。向こう側からも雨音が聞こえることから、やはり応援に来てくれていたのだと確信。本当に悪いことをしてしまった。そう言っても、不二のせいじゃあないからと返ってくるのは明らかだったが。実は、と話を切り出すと、芽夢の不思議そうに聞き返す声。


「今日の試合…明日やることに決まったんだ」
「…そっかあ、それじゃあ応援行けないね」


残念。そう軽い口調で言うものの、どこか気落ちしているのは声のトーンからはっきり分かった。互いに応援に行くと言っていたのに、天気に阻まれるなんて神様は存外意地が悪い。


「そっちの試合、昼過ぎからだよね」
「水竿!こっちが終わったらすぐ駆けつけるからな!それまで負けるんじゃないぞ〜!」
「英二、話しにくいよ」


小さく笑いながら注意すれば、菊丸は慌てて離れる。スピーカーからもくすくすと笑い声が聞こえてきて、どうやら彼の激励はしっかり聞こえたようだと分かった。


「私も、死ぬ気でやるから。二人も頑張って」
「うん、ありがとう」


それじゃあ、と短い挨拶で、芽夢の声と雨音のノイズは途切れた。負けらんないね、と笑う菊丸に、強く頷いた。
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